高架橋下T字路突き当り路傍 岩槻区平林寺334
馬込の大六天神社の前の道は東北道を高架で越えて、右にカーブしながら降りてゆくとT字路にぶつかる。このあたりから平林寺地区になるが、ちょうどそのT字路のところ、雨除けの下に石塔が立っていた。
庚申塔 明和元年(1764)上部に日月雲。梵字「バン」の下に「庚申供養塔」両脇に造立年月日。その下に施主として四名の名前が刻まれている。下部には三猿が彫られていた。
東北道脇空き地 岩槻区馬込241の前
先ほどのT字路のところの写真に「この先行き止まり」と標識がたっているが、ここを入ってゆくと畑の隅に石塔が立っていた。写真に写っている高架橋は馬込大六天神社の前から平林寺に向かう道。東北道ができる前は満蔵寺の前から大六天神社を通り、まっすぐこの二カ所の庚申塔の前を通り岩槻方面に向かったのだろう。東北道の東ということで今回はここを平林寺地区と一緒に取り上げたが、住所は馬込になる。
庚申塔 天明2(1782)塔の正面 日月雲「庚申塔」右側面中央に 右せうぶ道、両脇に造立年月日。さらにその下にいくつか名前が見えるが土の中に一部埋まっていて読み取れない。
左側面 左 かうのす道、両脇に馬込村講中。やはり下部に名前が見える。
正面下部、草を押し分けてのぞいてみると、かわいらしい三猿が彫られていた。
河合小学校南交差点 岩槻区平林寺309の東
T字路のところから50mほど岩槻駅方面に進むと、交差点の角に庚申塔が立っている。この交差点を左に曲がると河合小学校。右に曲がると平林寺橋付近で国道122号線に出る。
庚申塔 文化2(1805)正面上部に日月雲。瑞雲が発達している。その下に「庚申塔」塔の下部は一部が土に中に埋もれていて文字は完全には見えなかった。
左側面 中央に武州埼玉郡平林寺、その下に村か?右脇に じおんじ、左脇に かすかべ、そのしたは「みち」だろう。
右側面中央に造立年月日。右脇「いわつきみち」左脇「こしがやみち」と思われる。
河合小学校南住宅 岩槻区平林寺437付近
上の庚申塔の道路を隔てた向かいの住宅のブロック塀の前に二基の石塔が並んでいた。
左 庚申塔 宝暦8(1758)中央に「青面金剛」両脇に造立年月日。やはり下部は見えない。
右 馬頭観音塔 天保9(1838)正面に「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。左側面に個人名が刻まれていた。
さらに50mほど東の北側の畑の隅に石塔が埋まっている。
庚申塔 宝暦7(1757)頭を出している部分で見えているのは「青面金剛」両脇に造立年月日。これも個人のものだろう。
平林寺橋南東路傍 岩槻区平林寺247付近
岩槻駅付近から国道122号線を蓮田方面に向かうと平林寺橋で東北道にぶつかる。その200mほど手前、T字路の角の住宅のブロック塀の前に丸彫りの石地蔵が祀られていた。
地蔵菩薩立像 元文4(1739)全身に赤い衣装をまとい、像の様子はわからないが、柔和な丸顔が印象的だ。
台の正面、一部は土に埋まっているが、中央に造立年月日。両脇に「奉造立」「地蔵大」「為二世」「念佛講中」「平林寺」などの文字が見える。
平林寺公民館西交差点 岩槻区平林寺601南
河合小学校の南の文字庚申塔の立つ交差点から岩槻方面に400mほど歩いてゆくと交差点の角の小堂の中に石地蔵が立っていた。この交差点を左折するとすぐ右手に平林寺公民館がある。脇の立て札に「平林寺跡」とあるが確認はできなかった。
地蔵菩薩立像 正徳5(1715)丸彫りの延命地蔵。錫杖の一部と宝珠を欠く。
像の背面にたくさんの名前が刻まれていた。こちらは真後ろから見て左側、童子を含めて五名の名前。
こちらは右後ろから、童女、童子を含めやはり五名の名前。背面中央には十二名の名前が刻まれている。
台の正面に文字が見えるが風化が進み判読が難しい。右上「正徳」の「正」だけは見える。資料によると紀年銘のほかに平林寺□□とあり数名の名前が刻まれているらしい。
平林寺公民館東三差路 岩槻区平林寺609
さらに岩槻駅方面に200mほど歩くと左側の三差路の角の住宅の前に石地蔵が立っていた。
地蔵菩薩立像 元禄15(1702)江戸時代初期の舟形光背を持つ延命地蔵。文字もしっかり残り良好な状態を保っている。光背右「為先祖六親菩提兼祈子孫繁昌者也」光背左脇に造立年月日。その下の施主は個人名。個人の家の管理で300年以上の長い間石仏を守ってきたのはすごいことだと思う。いったい何代の人たちがこのお地蔵様をお世話してきたのだろう。
平林寺公民館北路傍 岩槻区平林寺590
平林寺公民館近くの交差点から平林寺跡へ向かう道を100mほど進むと左側の庭先に二基の石塔が祀られていた。小堂の右上にはわらじが奉納されている。
右 道祖神 嘉永7(1854)塔の正面中央に「道祖神」右脇に造立年月日。左脇に願主とあり二名の名前が刻まれていた。
左 馬頭観音塔 弘化3(1846)正面上部に梵字「カン」その下に「馬頭觀世音」右脇に造立年月日。左脇には個人名が刻まれている。
関白神社西田んぼ畦 岩槻区平林寺524東
さらに北へ向かい、次の大きな交差点を左折して、またすぐ先を右折する。100mほど歩くと左側の田んぼの畦道に石塔が立っていた。
塔全体の形から見るとこちらが正面のように思われるが、風化のためなのかまったく文字が見えない。
銘があるのはこの面、中央に「奉供養石橋建」下部は埋まっているが「建立」か。上部両脇に造立年月日。右下に願主とありその下は平林(寺村)左下に個人名が刻まれていた。
関白神社 岩槻区平林寺925
平林寺公民館付近の交差点から北へ700mほど歩き、細い路地を右折すると関白神社がある。一の鳥居の右脇に石塔が立っていた。その周りには力石が置かれている。
敷石供養塔 嘉永元年(1848)塔の正面に「敷石供養塔」シンプルだ。
塔の右側面に造立年月日。左側面に平林寺村 本田 新田 氏子中と刻まれていた。
二の鳥居の右脇に小さな石塔が見える。よく見ると鳥居の柱の左脇にも似たような石塔が立っていた。
庚申塔 貞享3(1686)日月雲。上部に「寄進」その下に青面金剛立像 合掌型六臂。小さな石塔に大きな笠が目立つ。
全体に風化が進み文字もはっきりしない。塔の正面は空間が狭く、邪鬼、二鶏ともにその姿が見えない。青面金剛の足下には三猿だけが彫られていた。弓矢を後ろの上の手に持つのは珍しい。下の手には剣と羂索か。江戸時代初期ならではという感じがする。
鳥居の左脇の庚申塔 貞享3(1686)日月雲「寄進」青面金剛立像 合掌型六臂。笠は欠損。右脇の庚申塔と構成などが同一。
羂索を持つ手の右脇に「三寅天」その上は文字が薄いが貞享と見える。左脇に「吉日」その下に十人と刻まれていた。
関白神社北 住宅の塀 岩槻区平林寺920
関白神社からさらに北へ200mほど進むと、その先は民家はなくなり元荒川沿いに田園風景が広がる。斜め右からも道路が合流していて、この角の家のコンクリート塀の中には石塔が祀られていた。
庚申塔 文化2(1805)角柱型の石塔の正面に「庚申塔」
塔の右側面中央に造立年月日。その左脇に平林寺村講中廿八人。右脇にみちと見えるが隙間が狭く、上のほうはうまく確認できなかった。
左側面 「いわつきみち」願主は個人名が刻まれている。
観音堂墓地入口 岩槻区平林寺798
平林寺公民館付近の交差点から北へ300mほど歩き、比較的大きな交差点を右に曲がると金重方面に向かう。その途中、左側の墓地の入口に二基の石塔が並んでいた。
右 阿弥陀如来立像
宝永7(1710)全体に白カビが多く、顔などははっきりしない。頭の後ろに輪光背。舟形の光背右脇「為念佛供養二世安樂也」左脇に造立年月日。その下には平林寺村。
足元中央に寿光、右端には施主とあり続けてひらがなで十数名の名前が刻まれている。女性の講中だろうか。
左 一石六地蔵塔 明和3(1766)正面に六地蔵菩薩立像を浮き彫り。
塔の右側面に造立年月日。横から見ると六地蔵は結構厚く浮き彫りされているのがわかる。
左側面はブロック塀との隙間が狭くカメラが入りにくい。上から
念佛講中、平林寺村、世話人とあり、二名の名前が刻まれていた。