岩槻区掛

掛交差点内 岩槻区掛158


平林寺の観音堂の墓地前の道を東に進むと金重に入り、やがてT字路に突き当たる。ここを左折して400mほど先の変則的な交差点、道なりに進むと右折、直進はやや道幅が狭くなり、左折は路地のように細い。この交差点の中に庚申塔が立っていた。写真の正面に見える細い道の先には小さな墓地がある。また、この交差点を道なりに右折すると掛公民館方面に向かう。


庚申塔 文化6(1809)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。台は三段になっていた。


塔の正面は白カビが目立つが、彫りは細かく立体的。よくあることだが、青面金剛の顔はつぶれている。ショケラは足を折り曲げ合掌していた。


青面金剛の足下には二匹の邪鬼が身を乗り出し頭を踏みつけにされている。二鶏は見当たらず、三猿は下の台の正面のほうに彫られていた。


塔の右側面に造立年月日。左側面には掛ヶ村講中と刻まれている。

交差点西墓地
岩槻区掛7


庚申塔の立つ交差点から西に入る細い道の先、右手にある小さな墓地の入り口に小堂が立っていた。


左 阿弥陀如来立像 元禄6(1693)さすがに年代なりの風化が見られるが、その厳粛な雰囲気は保たれている。頭の後ろに輪光背。舟形の光背右脇に「為念佛供養二世安全也」左脇に造立年月日。


足の両脇に八名の禅定尼の戒名。足下にはひらがなで六名の名前が刻まれていた。女性だけの講中だろうか。


右 地蔵菩薩立像 享保3(1718)丸彫りの延命地蔵。像の中央部にカビが多いが像自体に欠損はない。


蓮台の下の台の正面中央に「奉供養地蔵塔為二世安樂也」右脇に念佛之施主 同行十三人、左脇に造立年月日。続いて掛新田村と刻まれていた。

交差点東路傍
岩槻区掛181付近 


 庚申塔の立つ交差点から東150Mほど先のT字路交差点を右折してしばらくゆくと、左手の路傍、電信柱の陰に隠れるように石塔が立っている。


猿田彦大神塔 文久2(1862)塔の正面 素朴な字で「猿田彦大神」塔の右側面に造立年月日。左側面 掛新田とありその下に個人名が刻まれていた。
    
掛公民館裏墓地 岩槻区掛316


庚申塔の立つ交差点から東に向かい、道なりに400mほど進むと右手に掛公民館がある。その裏は墓地になっていて六地蔵などの石仏が並んでいた。写真左の建物が掛公民館。


六地蔵菩薩立像 文化13(1816)舟形光背型。色、形などおおむね統一感があり、比較的損傷も少ない。


それぞれに三体の地蔵像が一つの台に乗っている。右の台、武州埼玉郡掛ヶ村 施主 村中 続いて世話人二名の名前が刻まれていた。


左の台には造立年月日。さらに地主名主とあり一名の名前が刻まれている。


公民館の建物の近く、雨除けの下に丸彫りの地蔵菩薩立像 享保16(1731)ほぼ完全な形で風化はあまり感じられない。


台の中央「念佛供養所」両脇に懸村講中。さらに造立年月日が刻まれている。


地蔵塔の裏、宝塔 延宝5(1677)唐破風笠付角柱型の石塔。中央に「寶塔」その下に住仙院日峯大徳と刻まれていた。


塔の右側面に造立年月日。左側面には逆修とあり、その下に七分全得所と刻まれている。逆修はよく見るが七分全得というのは初見だったので調べてみた。『死後の追善は、死者が益を受けること極めて少なく、福を七分して、死者が一分を得られ、六分は供養した人が受ける。生前に自分の死後の為の供養(逆修)を積んでおくと、死後におけるすべての功徳は自分が得られる』(ホームページ「石仏と石塔」浄蓮寺七基連刻板碑の記事より)つまり「逆修の功徳は七分の一ではなく七分全得」ということらしい。日峯大徳が自らの後生の供養のために造塔したものということになるのだろう。


その右のほうに聖観音菩薩立像 寛文13(1673)光背上部にかなり白カビが見られるが、文字などはしっかりと残っていた。


光背右脇「奉造立正観音像為二世安樂」左脇に造立年月日。左下に懸村と刻む。左手に蓮華を持ち、右手は与願印。350年近い時を越えて静かに佇んでいる。

掛公民館西路傍
岩槻区掛194付近


掛公民館と庚申塔の立つ交差点のちょうど中間あたり、南側の路傍の小高くなったところに石塔が祀られていた。


唐風?のちょっと変わった形の雨除けの中に庚申塔 文化4(1807)角柱型の石塔の正面、上部に日月雲。その下に大きく「庚申塔」


のぞきこんでみると下の台の正面に小さいながらもしっかりとした三猿が彫られていた。


塔の右側面に造立年月日。左側面には掛ヶ村 願主とあり個人名が刻まれている。