岩槻区本町

西光寺 岩槻区本町2-3-23


洞雲寺の入口から県道2号線を東に進み、児童センター入口交差点を過ぎてすぐ、道路右側の細い路地を入るとその先に西光寺がある。入口近く、左側に六地蔵の小堂が見えるが、丸彫りの六地蔵は比較的最近に奉納されたものだった。


門を入って右側に多くの石仏が集められている。


門扉の後、ブロック塀のエンドのところに馬頭観音塔 大正12(1923)塔の正面中央に「馬頭觀世音」右脇に造立年月日。左脇に個人名が刻まれていた。


続いて無縁仏が整然と並んでいる。後ろの三基の石塔は個人の墓石ではなかった。


右 庚申塔 享保6(1721)前の石塔との間隔が狭く、正面からは写真が撮れない。上部に日月雲。中央「奉供養青面金剛」両脇に造立年月日。下部に三猿を彫る。


三猿は素朴でかわいい。三猿の下の部分に市宿町 講中 〆拾六人と刻まれている。


中央 地蔵菩薩立像 延宝5(1677)舟形の光背に地蔵菩薩像を浮き彫り。頭上に梵字「カ」光背右脇「奉造立地蔵菩薩二世安樂所」光背左脇に造立年月日。続いて施主 真入 市宿 加倉と刻まれていた。


左 庚申塔 延宝8(1680)板碑型。枠の外に日月雲。中央 梵字「ウン」の下「奉供養庚申二世安樂」両脇に造立年月日。


下部に三猿。文字と三猿のみの庚申塔「三猿庚申塔」の場合は、三匹とも正面向きという場合が多いようだが、ここでは両側の猿が中を向く形をとっている。三猿の下にひらがなで三文字の名前(女性の名前と思われる)がいくつか刻まれていた。


本堂に向かう参道の右側が墓地になっているが、その入口付近に笠付きの石塔が立っているのが見える。


六地蔵菩薩供養塔 享保5(1720)唐破風笠付角柱型の大きな石塔の三面にそれぞれ二体の地蔵菩薩立像を浮き彫り。正面下部に「奉造立六地蔵為二世安樂也」右下に市宿町下 念佛講、左下に女同行四十三人と刻まれていた。


両側面に渡って造立年月日が刻まれている。近寄って見てみると地蔵菩薩像は風化も見られず、静かな表情と凛とした佇まいが美しい。


墓地の一番奥、西側の一角に歴代住職の墓地があった。三基の卵塔の奥に笠付きの円柱型の石塔が立っている。


大乗妙典供養塔 享保16(1731)塔の正面中央、梵字「バク」の下に「奉供養大乗妙典一千部悉地成就所」右脇に造立年月日。左脇に権大僧都法印良意西光寺先住と刻まれている。


裏面から右側面に渡って5文字8節の願文。左側面にはかな文字で短歌が刻まれていた。

弥勒寺 岩槻区本町2-7-35


西光寺の入口から70mほど東、県道2号線の本町1丁目交差点を右折して200mほど歩くと弥勒寺の山門の前に出る。弥勒寺は奈良時代末期に開かれたという岩槻でも一番古い由緒ある真言宗の寺院であり、関東三十六不動霊場第三十一番札所。江戸時代までは前回紹介した西光寺をはじめ古ケ場、箕輪など数カ所に末寺を持つ岩槻第一の古刹として隆盛を極めたという。


山門の左脇 弘法大師遠忌供養塔 明治15(1882)角柱型の石塔の正面「弘法大師一千五十回遠忌供養塔」遠忌とは高僧の50年ごとの法要のことで、いろいろなお寺でこのような供養塔を目にすることができる。塔の左側面に造立年月日が刻まれていた。


山門を入ると正面に昭和50年代に完成した新しい本堂がたっている。。境内には薬師堂などが立ち庭園も整備されていて、「人形大師像」やいくつかの仏像も祀られているが、いずれも新しいものだった。山門のすぐ左脇に赤い鳥居が立ち、先にお堂が見える。どうやら稲荷神社のようだ。この右手奥に古い石仏が集められている。


鳥居のそばに手水石 嘉永7(1854)正面に「奉納」右側面に造立年月日と世話人六名、左側面に市宿町、新町、横町、久保新町の十四名、裏面に石工を含め三名の名前が刻まれていた。


稲荷神社のお堂の右奥、塀の前に五基の石地蔵が並んでいる。


右 地蔵菩薩立像。全体に摩滅が著しい。別名「塩かけ地蔵」と資料にある。いろいろなところでこういったお地蔵様を見かけるが、たいていの場合お地蔵さまに塩をかけたり塗ったりするとイボがとれる「イボとり地蔵」という言い伝えがあり、塩害?のために原形をとどめないようなものが多かった。これもその例にもれず、光背も像も溶けてしまっていてはっきりしたことはなにもわからない。像のだいたいの形から見ると、錫杖が頭のかなり上のほうまであり、元禄以前、江戸時代初期のものか。



その隣 地蔵菩薩立像 享保3(1718)丸彫りの立像だが、年代からいうと美しすぎる。下の台と石の材質も違い、蓮台から上は後から再建されたものだろう。


台の正面 「奉造立地蔵菩薩尊像為二親菩提」右側面に造立年月日が刻まれていた。


左側面は狭いが古ケ場村施主と見える。古ケ場というと結構遠いと思うが、いろいろな村に末寺を持っていたという当時の弥勒寺の隆盛を考えるとこれもそれほど不思議ではない。


左奥に三基。前の合掌地蔵像は新しいものだった。後ろの二基は似通った様相を呈している。


右 地蔵菩薩立像 享保21(1736)光背上部は一部欠損。右部分は切断され文字が読み取れない。顔は潰され錫杖ははがされ、実に痛々しい。光背左脇に造立年月日が刻まれていた。


左 地蔵菩薩立像 享保14(1729)これも光背上部と右部分は切断され、錫杖下部と宝珠を欠く。光背左脇に造立年月日だけが残されている。丸彫りの石地蔵で頭だけがないものとか、光背の途中で折れた跡があったり、台だけが空しく残されていたり、いろいろなケースを見かけたが、この二基の地蔵像のように、直線的に切断されたものは見たことがない。おそらくこれも明治時代の廃仏毀釈によるものだろう。

 

芳林寺 岩槻区本町1-7-10


県道2号線をさらに岩槻駅方面に向かい、次の本町2丁目交差点の左側、細い道を入るとその先に芳林寺の山門が見える。写真右のほうに大きなビルが見えるあたりが岩槻駅。駅からこんなに近い所なのに、芳林寺の境内地は驚くほど広い。山門から現在修復工事中の本堂まで100mくらいはあるだろう。


山門の右側はなにもない広い空き地になっているが、その隅に大きな石塔が立っていた。

 

戒壇石 寛保3(1743)塔の正面「不許葷酒入山門」左側面に造立年月日。右側面には地蔵和讃供と刻まれていた。


本堂付近はよく手入れがされていて、緑も多く気持ちの良い空間が広がっている。本堂の左側が大きな墓地になっていた。入ってすぐ、正面に三基の石塔が並んでいる。


左 地蔵菩薩立像 延宝5(1677)角柱型の塔の上に丸彫りの立像。


蓮台の正面「奉造立念佛供養」右脇に造立年月日。左脇には市宿新町 男女六十七人と刻まれている。その下の台の正面には三つの戒名と命日が刻まれていた。享保19(1734)宝暦12(1762)元文5(1740)となっていて、上の地蔵像とは造立期が100年ほど離れている。あとから組み合わせたのだろうが、どういったいきさつがあるのか?


中央 千部供養塔 元文3(1738)蓮台の上に丸彫りの地蔵菩薩坐像。塔の正面「千部供養十方施主」千部は大乗妙典と思われる。右脇 在者福樂壽無窮、左脇に亡者離苦生安養と刻まれている。



塔の右側面に造立年月日。左側面には太平山芳林寺幻住光透桂代と刻まれていた。



右 六地蔵菩薩塔 寛政9(1797)宝珠付きの笠を持つ角柱型の石塔の三面にそれぞれ二体の地蔵菩薩立像を浮き彫り、三面合わせて六地蔵。地蔵像、その持物、蓮台以下台座部分まで、彫りは細かく美しい。


裏面中央に造立年月日。両脇に渡って市宿町 講中。左下に小さな字で石工萩原伊兵衛と刻まれている。岩槻石工としては、田中武兵衛と並ぶ名石工と言えるだろう。


三基の石塔のあたりから右を見ると三界万霊塔 寛政5(1793)が立っていた。塔の正面「三界萬靈等」脇にわかりやすい説明も用意されていて好感が持てる。


両側面と背面に合わせて34の戒名、背面の左下には造立年月日が刻まれている。


墓地の奥のほうに岩槻城主太田家の墓地があった。芳林寺は太田道灌の子孫の岩槻城主太田資正が東松山から当地ゆかりの地蔵堂を岩槻に移したものと伝えられ、その嫡男氏資の時代に、亡くなった母、芳林尼の追慕のため、寺号を地蔵堂から芳林寺と改めたという。小堂の右側に太田道灌と芳林尼の供養塔が立っているがいずれも新しく建立されたものだった。


小堂の中 宝篋印塔 永禄10(1567)サイズは小さいが、戦国時代のもので風化は少なく最初期の宝篋印塔の様子がうかがえて興味深い。相輪は比較的大きめで、笠は隅飾型だが反りはそれほど強くない。


塔身部四面に梵字。基礎部正面、右側に文字がはっきり読めないが下のほうは「昌安道也」で氏資の法名の一部、左にはその命日が刻まれていた。


その左奥にも小堂があり、こちらは江戸時代の岩槻藩主、高力正長の墓である。


宝篋印塔 慶長4(1599)太田氏資の宝篋印塔とサイズは同じようだが、こちらは返花から下が発達していて、少し印象が違う。


塔身部は剥落。基礎部に銘は無く、返花の下の格挟間の右に法名、左に命日が刻まれていた。

学蔵寺 岩槻区本町4-8-28


加倉のほうから県道2号線の岩槻駅前交差点を越えてすぐ、右手の細い道に入り南へ250mほど先を左折すると学蔵寺の前に出る。正面の本堂へ向かう参道の左側に小堂があって、その中に小さな石仏が立っていた。


浄行菩薩立像 元禄12(1699)合掌型の地蔵菩薩像にも見えるのだが、後ろの解説によると法華経において説かれる「四大菩薩」のひとりで、末法の世の中に正法を広めるために現れるという。光背右脇の文字は中央に「値縁」と読めるが上と下の文字が摩耗していて読めず意味はわからない。左脇に造立年月日が刻まれていた。


参道の左脇にいくつか石塔が並ぶが、その中に万霊供養塔 明治13(1880)板碑型の石塔の正面に「法界萬霊之供養塔」右脇に造立年月日。左脇には圓如院日要大徳之廟と刻まれている。


参道の右側には七面大明神の額がかかったお堂がある。七面大明神とは日蓮宗において法華経を守護する神として信仰され、各地寺院で祀られるようになったものらしい。お堂の右手前に供養塔が立っていた。


七面大明神供養塔 天明6(1786)塔の正面に大きく「七面大明神」塔の左側面に造立年月日。下のほうに願主 當山恵隆院、その横に二氏の名前が刻まれている。


右側面には「奉唱滿題目百部供養塔於當社毎月講中修行之処」と刻まれていた。

顔生寺 岩槻区本町3-15-12


県道2号線の岩槻駅入口交差点から200mほど東の交差点で国道122号線は左に折れて、県道2号線と分かれることになる。この交差点のすぐ手前、道路左側に顔生寺の入り口がある。江戸時代に立てられたというこちらのお寺の本堂は、屋根は茅葺・寄せ棟造りという珍しいもので、大変風情があった。久しぶりに訪ねてみると、正面に瓦葺の新しい屋根が見える。どうやら本堂は建て直されるようだ。参道の右側、庭の中に六字名号塔が立っていた。下の台の正面に「供養塔」という文字が見える。


六字名号塔  宝暦12(1762)塔の正面に「南無阿弥陀佛」文字の端を剣先のように尖らせた独特の書体で、これを「利剣六字名号」といい、かつては密教修行者、遊行者がさかんに使用していたという。塔の右側面の右上に願主 當寺二十世、中央に湛蓮社用譽上人圓阿寂穏聖童和尚と刻まれていた。


塔の左側面には20文字の願文。裏面に大きく造立年月日。続いて當寺二十一世信蓮社海譽上人代と刻まれている。


本堂の左側、六地蔵菩薩立像。六基の蓮台の位置はほぼ同じだが、像のサイズは左の二基は明らかに小さく、別時期に建立されたものと思われる。


向かって右の四基は像の様子も、下の蓮台、敷茄子、その下の台の様子も同じような印象を受ける。一番右の台、正面「奉造立供養」続いて天保4(1792)の紀年銘。二番目の台には「三界萬霊有無兩縁等」


三番目と四番目は目の前に大きな線香立てが置いてあって正面から写真は撮れない。三番目、施主町々村々勧化。四番目は「為志之諸聖靈菩提」と刻まれていた。


五番目 實相山廿七世喜誉代(實相山は顔生寺の山号)、六番目 町内念佛女講中。岩槻駅周辺は宿場町、城下町として栄えた場所だけあって、市宿町、横町、大工町、渋江町など町が続く。このあたりは久保宿町になるようだ。


六番目の地蔵像の背面、中央に「奉造立六地為二世安樂」両脇に宝永5(1708)の紀年銘。こちらの二体のほうが右の四体よりも100年近く古いものということになる。下のほうに刻まれた施主名は個人のものだった。


本堂の左側、墓地の入口近くに無縁仏が集められている。一番奥に頭一つ高くおかれた石塔は、正面に「無縁一切萬靈」と刻まれた供養塔。近づいて確認することはできないが、資料によると裏面に安永8(1779)の紀年銘があるという。前のほうに舟形の光背を持つ江戸時代初期の三基の石仏が並んでいるが、こちらはいずれも個人のものだった。


左前に馬頭観音塔 文政13(1830)駒形の石塔の正面に「馬頭觀世音」右脇に造立年月日。左下に個人名が刻まれている。

 

大龍寺 岩槻区本町5-3-18


県道2号線岩槻駅入口交差点から春日部方面に歩いてゆくと、渋江交差点の200mほど手前に大龍寺の入り口があった。通りを隔てた向かい側には、かつて御成道の一里塚が設けられた旧岩槻市役所がある。参道の入口近くに六地蔵像が祀られているがこちらは比較的新しいもの。その奥に唐破風笠付角柱型の大きな石塔が立っていた。


庚申塔 享保10(1725)正面、日月雲の下を彫り窪めた中に 頭上に蛇を乗せた三眼の青面金剛立像 合掌型六臂。後ろの上左手にショケラを持つ典型的な「岩槻型」足の両脇に二鶏。腕をM字型に張る正面向きの邪鬼とやはり正面向きの三猿。これも岩槻ではオーソドックスな構図だ。


塔の左側面「奉安置庚申尊像為現生安穏後生善處」


塔の右側面「兼城邑巷陌結縁四衆平等利濟」熟語の意味がよく分からないが、多分「世の中の全ての人にあまねく良いことがありますように」というようなことかと勝手に妄想してみる。続いてその脇に造立年月日が刻まれていた。


入口から50mほど奥にある山門をくぐると正面に大きな本堂が立っている。この本堂の左側を進むと裏にある広い墓地の入口に出ることになる。


墓地の入口の左側には小堂が立っていた。手前の二基の地蔵菩薩立像は個人の供養塔。


右から二番目 庚申塔。正面は剥落が多く、銘も像の様子もはっきりしない。「岩槻市史」に載っている写真を見ると、青面金剛は六臂で剣とショケラを持っている。昭和59年発行なので30年ほどしか経っていないのにこれほど風化が進むものなのか。これも資料によるしかないが、左側面に文政6(1823)の紀年銘が刻まれていたようだ。


右 庚申塔 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。塔の各面にも台にも銘が見当たらない。


彫りは細かく写実的。腰から下の部分がそっくり剥落している。腰のあたりに足を折り曲げた大きなショケラ。足下には獅子のような邪鬼。彫りの様子、石質などから考えるとその造立は天保年間あたりだろうか。


本堂の裏、墓地の入口付近に無縁仏が積み上げられていた。頂上には比較的新しい観音菩薩立像。その前に角柱型の石塔が立っている。


三界万霊塔 天明2(1782)正面に「三界万霊等」両側面には多くの戒名が刻まれ、左側面に造立年月日が刻まれていた。

浄安寺 岩槻区本町5-11-46


岩槻駅方面から県道2号線を東に進み渋江交差点を左折する。ここからは県道65号線(北浦和から加倉を通り、しばらくは県道2号線と重複区間を走り、慈恩寺・鹿室を経て幸手方面へ至る通称御成街道)になる。左折して100mほど先の右側に浄安寺の入り口があった。石畳の参道を進み山門をくぐると、境内は古刹らしい落ち着いた雰囲気が漂っている。


資料には明暦2年の地蔵菩薩像など、江戸時代初期の石仏がいくつか載っているがうまくみつからなかった。唯一見つかったのは参道の左脇、地蔵菩薩立像 天和2(1682)比較的美しい状態を保っている。舟形の光背の中央、梵字「カ」の下に地蔵菩薩像を浮き彫り。光背右「奉造立念佛供養二世安樂所」左脇に造立年月日。


足の両脇にそれぞれ八名の名前、足の下の部分に十三名の名前が刻まれていた。念佛講中男女二十九人ということになるだろうか。


さらにその先に石祠が立っている。正面に「榛名山満行宮大権現」左側面に「快楽山」右側面に文久9(1863)の紀年銘が刻まれていた。


本堂の左側が古くからの墓地になる。その中央付近に宝篋印塔などの石塔が並んでいた。


写真右の五輪塔、地輪の正面に「朝生院殿珠光晴空大禅定門」とある。脇に立つ解説板によると徳川家康の六男 松平忠輝の子息である徳松丸の戒名だという。没年は寛永9(1632)ということだが石塔に銘は見当たらない。写真左の宝篋印塔、基礎の正面に「見相院殿」こちらは忠輝の側室、徳松丸の母の戒名。没年は同じく寛永9年だが、こちらも紀年銘は確認できなかった。

 


その右隣の板碑型の石塔。上部に阿弥陀三尊を梵字で表し、その下に「快光院殿廊譽道鎮大居士」徳川家康に仕え「仏高力」といわれた岩槻城主 高力清長の墓石である。両脇に慶長5(1600)の紀年銘、こちらは命日だろう。