緑区大崎

国昌寺 緑区大崎2373[地図]


三室、宮本方面から東に向かうバス通りは、見沼大橋を越えた先で大きく左へカーブする。このカーブの当たりから細い道を入ってゆくと、見沼代用水東縁のすぐ東に国昌寺の入口があった。南向きに立つ菊の御紋の山門は、江戸時代中期のもので市指定文化財、欄間の龍の彫り物は左甚五郎作と伝えられる。


山門の裏には小堂は立ち、周りに多くの石塔が並んでいた。写真左、大きな聖観音菩薩像の下には無縁仏が集められている。


小堂の脇に 出羽三山供養塔 文化3(1806)二段の四角い台の上、舟形光背 日月雲の下に聖観音菩薩立像を浮き彫り。


左手に未敷蓮華を持ち、右手は与願印。すましたお顔の観音様。光背上部両脇に月山 湯殿山 羽黒山 三社大権現。下部両脇に造立年月日。出羽三山順礼成就を記念して造立されたものだろうか。


上の台の正面「般若供養塔」これは初めて見る。下の台の正面には「講中」と刻まれていた。


小堂の中、中央に大きな地蔵菩薩塔 享和4(1719)四角い台の上に角柱型の石塔、敷茄子・蓮台に大きな丸彫りの地蔵菩薩立像。両脇に小型の六地蔵塔を従える。


角柱型の石塔の正面「大崎村中」両側面に造立年月日。両脇の六地蔵塔の石塔部正面もすべて「大崎村中」で、大地蔵菩薩塔と同じ字体。六地蔵塔と大地蔵菩薩塔は同時に造立されてたもののようだ。


聖観音菩薩像の出羽三山供養塔の本堂寄りに大きな板碑が立っていた。下部は風化のために銘が読み取れず造立年など詳細は不明だが、鎌倉時代初期のものと伝えられているらしい。上部、月輪の中に大きく梵字「キリーク」その下に蓮台が彫られている。

太子堂墓地 緑区大崎1724[地図]


国道463号線バイパスの新大橋の料金所のすぐ南に太子堂墓地がある。お堂の左脇に卵塔などが並ぶ墓所があった。


墓所の右奥 普門品供養塔 文政2(1819)四角い台の上、蓮台付きの角柱型の石塔の正面「普門品供養塔」塔の両側面に造立年月日。台の正面に「當邑講中」と刻まれている。
 

太子堂の南に石尊宮があった。朱塗りの鳥居の先、石段の手前両脇に石塔が立っている。


左 庚申塔 宝暦7(1757)火焔の光背に六臂の青面金剛立像を浮き彫り。庚申塔では火焔の光背は珍しい。


青面金剛の様子もちょっと変わっている。持物は矛・剣・弓矢。前の両手の示す印相はこれまで見たことがないものだ。


足元の邪鬼は左足を折って右足を伸ばす。その下の三猿は右の聞か猿だけ左向き、残りの二猿は右向きに座る、このあたりもユニークだ。


塔の背面、右に造立年月日。その横に中興戒翁方眞禪庵。さらに大崎村と刻まれていた


右 不動明王立像 宝暦7(1757)躍動的な火炎の光背に忿怒の表情の不動明王立像を浮き彫り。右手に剣、左手に羂索を持つ。


台の正面に太子講 中興戒翁 御時講。この左右に並ぶ二基の石塔はセットで奉納されたものと思われる。

大崎集会所裏 緑区大崎2954西[地図]


大崎公園の南を流れる見沼代用水東縁沿いの遊歩道を西に進む。大崎橋から一般道を北へ向かい、500mほど先の交差点の角、住宅横の空地の高い所に石塔が立っていた。裏の建物は大崎集会所。

庚申塔 寛政6(1796)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


どんぐり眼の青面金剛。髪の中に顔を見せているのは人面か?足元の邪鬼は上半身型、両手を張って顔を上げ正面をにらむ。


三猿は台の正面に彫られていた。両脇の猿はがやや内を向く。右の見猿は片手使い、右手に御幣?を持つ。


塔の右側面 武州足立郡南部領大崎村。下部右端に願主 塔地寄附とあり、その下に二段に渡って20名の名前。


左側面に造立年月日。塔の下部、こちらは二段に渡って21名の名前が刻まれている。

 

大崎薬師堂墓地 緑区大崎3142[地図]


大崎公園の西、見沼代用水東縁の北の台地に薬師堂の墓地があった。


薬師堂の左手前に石塔が並んでいる。右の小さな丸彫りの地蔵菩薩塔は銘が見当たらず詳細は不明。


その隣 普門品供養塔 文政2(1819)四角い台の上の角柱型の石塔の正面、梵字「サ」の下に「普門品供養塔」下の台の正面に大きな字で「講中」


塔の右側面に造立年月日。台の右側面に9名の名前。台の左側面には6名と世話人1名の名前。合わせて講中16名になる。

美園中学校東住宅庭 緑区大崎2559 [地図]


日光御成街道、美園中学校入口のすぐ南、道路西側の造園屋さんの庭に石塔が立っていた。


庚申塔 享保4(1719)大きな四角い台の上の唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。台の正面に「大崎村中」


白カビが多く、像は風化のためにはっきりしない。顔はつぶれていた。


足下に全身型の邪鬼。首がねじれ、手は奇妙な形で折られ、足が異様に小さい。その下の三猿は比較的大きく、両脇の猿が内を向く構図、頭が大きく背中を丸めて座る姿が、なんだか胎児のように見えた。


塔の左側面に造立年月日。続いて武刕足立郡南部領大崎邨施主敬立。


右側面中央に「奉造立青面金剛守護」右脇に庚申供養、左脇に二世安樂と刻まれていた。

浦和民家園内 緑区下山口新田1282[地図]


国道463号線、芝川に架かる念仏橋の東の国道南側に「浦和くらしの博物館民家園」の入口がある。国道の北側が大崎、南は下山口新田になるが、今回は大崎の石仏と一緒に取り上げることにした。入口から右回りに進む。中央の広場を取り囲むように古民家が並んでいた。


しばらく進むと右手に三基の馬頭観音塔が並んでいる。10年前にはなかったもの。脇に解説板が立っていて、この三基の馬頭観音塔は浦和区針ヶ谷から移設されたらしい。


右 馬頭観音塔 嘉永5(1852)駒形の石塔の正面、梵字「カン」の下に「馬頭觀世□」下部は剥落。


塔の右側面に造立年月日。左側面に針ヶ谷村 施主とあり個人の名前が刻まれていた。


中央 馬頭観音塔 天保14(1843)四角い台の上 舟形光背に一面三眼忿怒相二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。ふっくらと馬口印を結ぶ。


頭上の馬頭は鮮明。塔の右側面に造立年月日。左側面には針ヶ谷村 馬持講中と刻まれている。 


左 馬頭観音塔 文化10(1813)四角い台の上の角柱型の石塔の正面に力強く「馬頭觀世音」


塔の右側面に造立年月日。左側面に當村 講中と刻まれていた。
 
さらに進んでゆくと、その先、美しい竹林の前に二基の庚申塔が並んでいる。こちらも脇に解説板が立っていた。


右 庚申塔 安政3(1856)二段の四角い台の上の角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」上の台の正面に三猿。中央の聞か猿は頭を抱え深刻なポーズ。両脇の言わ猿と見猿はそんな聞か猿のほうを向いて座るが、寄り添うこともなく距離を置いている。


塔の左側面に造立年月日。右側面 右から大願成就。二行目に「奉再位馬場稲荷大明神」その左下に三室村馬場組。この部分がこの石塔の主銘だろう。左上に三行、正一位 宝暦2 馬場位 嘉永6 雨屋再建天保4。「馬場稲荷大明神」の履歴か?宝暦2(1752)に正一位稲荷大明神、天保(1833)その雨屋を再建、嘉永6(1853)馬場遷移、ただ当時すでに損傷甚だしく、安政3(1856)に馬場組の人たちがこれを再建して、その記念にこの石塔を造立したという流れだろうか?左下の部分、社主 梓治右エ門、大宮宿在八王子産、幼名 磯五郎。「庚申塔」との関連については定かではない。


左 庚申塔 享和3(1803)四角い台の上の角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中「庚申塔」その下に小さな字で是より ゑど ミち。


塔の右側面を彫りくぼめた中 右ハ よのミち。その下に沼影村願主とあり、沼影の大地主、細渕氏の名前が刻まれていた。


左側面を彫りくぼめた中には うしろハ 引きまたみち。下部に造立年月日。三方向三地名の刻まれた道しるべになっている。