地蔵院墓地 見沼区東大宮1-82
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東大宮駅と大和田駅の中間あたり、第二産業道路沿いにある大砂土中学校の200mほど北、産業道路の西に地蔵院の墓地があった。
参道中ほど、左側 阿弥陀如来供養塔 寛文10(1670)四角い台の上、宝珠を乗せた唐破風笠付き角柱型の正面を彫りくぼめた中に阿弥陀如来坐像を浮き彫り。白カビも少なく美しい。
宝珠付きの豪華な天蓋の下、蓮台に阿弥陀定印を結び静かに座る阿弥陀如来像。
塔の下部、中央に武刕足立郡南部領砂村 本願山田㐂兵衛。両脇に造立年月日。
塔の左側面に二段に各九名、右側面に上二段に各九名、下段に二名、両側面合わせて二十名、いずれも、おだつ、おたけ、おさきなど、ひらがなで女性の名前と思われる。村の庄屋さんが願主となって女人講が造立したものだろうか。
阿弥陀如来供養塔の後ろに三基の石塔が参道に向いて並んでいた。三基とも四角い台の上の角柱型の石塔で雰囲気も似ている。
左 百ケ所観音供養塔 寛政10(1798)塔の正面 阿弥陀三尊種子の下「奉納 坂東西國秩父 供養塔」上部両脇に天下泰平・日月清明。塔の両側面に造立年月日。左側面に砂村と刻まれていた。
台の正面、白カビの中に十六名の名前が刻まれている。
中央 百ケ所観音供養塔 天保13(1842)塔の正面 阿弥陀三尊種子の下「奉納 坂東西國秩父 供養塔」上部両脇に天下泰平・日月清明。塔の右側面に造立年月日。左側面に砂村。
台の正面 右上に願主とあり十八名の名前。塔の銘も台の銘も左の石塔とよく似ている。40年と時代は離れているが同じ石工さんの仕事だろうか?
右 百ケ所観音供養塔 宝暦10(1760)石塔の正面 阿弥陀三尊種子の下「奉納 坂東西國秩父 百箇處諸願成就所」三基の百ケ所観音供養塔のうちこちらが最も古い。塔の右側面は無銘。左側面に造立年月日。
台の正面、右上に願主とあり、続いて二段に二十六名の名前が刻まれていた。
参道の右側、三基の百ケ所観音供養塔に向き合うように小堂が立ち、その周りにもたくさんの石塔が並んでいる。その中の地蔵菩薩塔の多くは墓石のようだ。
小堂の中 舟形光背型の地蔵菩薩塔を中心に、両脇に丸彫りの六地蔵菩薩塔 明和5(1768)像は補修跡がありやや不揃いの印象を受けた。
左から二番目の塔の正面に造立年月日。中央に導師普施山慈眼寺□宥法印□□、左端に造立願主□心。
左端の塔の正面に嘉永2(1849)年紀年銘。上部に再造立村中、中ほどに世ハ人とあり、その下に願主五人の名前。六地蔵の創建は明和5年、再建は嘉永2年ということになる。
中央に地蔵菩薩立像 正保4(1647)古仏である。前の柵のために全体の像はとらえきれない。舟形光背型の地蔵菩薩塔の下に薄い台があるが、その上の蓮台から上の部分は一石から彫り出されていた。
頭の上まで伸びた長い錫杖は、万治年間以前の古い地蔵菩薩像でしか見られない特徴といえよう。左手は折り曲げて胸の前で宝珠を持つ。尊顔は素朴ながら厳しい。光背右上に造立年月日。
光背左脇に「足立郡爲砂村江中衆二世安樂造立之」と刻まれていた。
小堂の奥にも多くの地蔵菩薩塔などが並ぶ。手前の丸彫りの地蔵菩薩塔の隣に角柱型の石塔が立っていた。
大乗妙典六十六部供養塔 天保3(1832)風化が著しく剥落部分も大きい。
塔の正面中央「奉納大乗妙典六十六部日本廻國供養」両脇に天下泰平・日月清明。
塔の右側面に造立年月日。左側面に奥州栗原郡堀田村。続けて俗名が刻まれている。奥州以下の地名は回国行者の出身地だろう。
台の正面右端に村世話人とあり三名の名前。続いて施主諸國 同行中。さらに回國世話人とあり、丹波、作州、豊前の三名の名前が刻まれていた。
八雲神社 見沼区東大宮1-30[地図]
東大宮駅近く、第二産業道路の八雲神社入口交差点のすぐ西にある八雲神社の一角、「砂の大ケヤキ」の下に庚申塔が立っていた。
庚申塔 貞享3(1686)四角い台の上の舟形光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。総高2mを越え、舟形光背型庚申塔ではほぼ最大ではないだろうか。
風化のために光背の縁は一部欠け、像もややあいまいになっている。月輪の下に武刕足立郡、日輪の下に造立年月日。三眼の青面金剛は上左手に法輪ではなく蛇を持っていた。合掌手に比べ後ろの二組の腕が長く、ややアンバランスな感じがする。
足元に丸顔の邪鬼。その下に正面向きに並んで座る三猿。台の上の部分、光背から三猿まで、塔は一石から彫り出されていた。