下老袋農民センター 川越市下老袋335[地図]
麦生川を越えて北へ500mほど、道路左側にある農民センターの敷地の左隅に庚申塔が立っていた。庚申塔の後ろには、コンクリートの台の上にたくさんの無縁仏が並んでいる。
庚申塔 宝暦12(1762)駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像
剣・ショケラ持ち六臂。白カビも少なく、彫りは細部までしっかりと残っていた。
発達した瑞雲が印象的。頭上中央は蛇の頭だろうか。ショケラは青面金剛の腰のあたりにすがりつく。塔の前面には銘は見当たらない。
足の両脇に二鶏。邪鬼は正座して土下座の体勢。その下の三猿がユニーク。中央が正面向き、両脇が内を向く構図。左右の猿は片手で耳、目を隠し、片手は中央の猿のほうに延ばす。さらに驚いたことに中央の猿の股間にははっきりと大きな男根が彫られていた。下の台の正面、右に下老袋村
講中 四十七人。左のほうに造立年月日が刻まれている。
庚申塔の後ろの無縁仏の先は墓地になっていた。入口両脇、雨除けの下に二基の地蔵菩薩塔。その奥に六地蔵の小堂が立っている。
入口左脇 地蔵菩薩立像
宝暦7(1757)丸彫りだが欠損なく像は美しい。蓮台、敷茄子も厚く本格的。
反花のついた台の正面中央
梵字「カ」の下に「奉造立地蔵尊」両脇に偈文。さらにその両脇に造立年月日が刻まれていた。右側面には「爲 現當二世安樂也」
左側面 白カビの中、右から下老袋村 願主惣村中
老若男女と刻まれている。
入口右脇 地蔵菩薩立像
享保12(1727)丸彫りのお地蔵様、こちらも保存状態がよく、カビなどもほとんど見られない。
蓮台の下、厚い敷茄子の正面の彫り物がちょっと変わっている。笠をかぶり鍬をかついだ村人の姿がほほえましい。
四角い台の正面中央、梵字「カ」の下に「奉新造・・・」下部は土の中か?両脇に偈文。さらにその両脇に造立年月日。この銘の構成は入口左脇の地蔵塔と同じである。
奥の小堂の中の六地蔵菩薩立像。6体はほぼ同じような様子で大きな欠損もない。それぞれの台の正面には文化6(1809)から文政9(1826)の命日と戒名が刻まれていた。
墓地の中に入ってすぐ左手、雨除けの下に地蔵菩薩坐像
天保4(1832)こちらも錫杖、宝珠とも欠損なく頭の後ろの輪光背も見事に残されていた。ここに祀られたこれらの石仏はどれも保存状態が良い。村の人たちの手厚いお世話によって守られてきたということなのだろう。
石塔の正面「奉造立地蔵尊」右側面に造立年月日。続いて武刕比企郡
下老袋村中と刻まれていた。
農民センター東路傍 川越市下老袋105向い[地図]
農民センターの庚申塔の前のT字路を東に入り、しばらく道なりに進むと、道路右側に五基の馬頭観音文字塔が並んでいた。写真奥に入間川右岸の土手が見える。
右端 馬頭観音塔
天保4(1833)角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」右側面に造立年月日。左側面に下老袋村 願主とあり、個人名が刻まれていた。
2番目 馬頭観音塔
明和年間。正面の一部が剥がれ落ちていて銘が欠けている。中央に「馬頭觀世音」上部両脇に造立年月日。明和だけはかろうじて読める。右下に□老袋村、左脇に施主名のようだがここも読み取れなかった。
3番目 馬頭観音塔
文化5(1808)正面、側面とも一部剥落、資料では文化5年となっているが弘化にも見える。正面の銘も「馬頭觀・・」だけが残されていた。
4番目 馬頭観音塔
明治43(1910)正面に「馬頭觀世音」右側面に造立年月日。左側面には施主 個人名が刻まれている。
左端 馬頭観音塔
明治22(1889)正面中央「馬頭觀世音」右側面奥に明治十九年六月より七月。続いて爲斃馬五頭也。さらに明治廿二年九月十二日建之。6月から7月にかけて5頭の馬が、病気か事故か、相次いで亡くなったということだろうか。
左側面
比企郡植木村大字東本宿とあり施主一名の名前。続いて同郡同村大字下老袋とあり、施主六名の名前が刻まれていた。
農民センター北路傍 川越市下老袋102北[地図]
農民センターから北へ100mほど、道路右側、郵便ポストの横に角柱型の石塔が立っていた。
牛頭観音塔
昭和8(1933)角柱型の石塔の正面「牛頭觀世音」そういった観音様は実際にはないが、時々見かける。馬の供養塔=馬頭観音があるなら牛の供養塔=牛頭観音があってもいいのではないかということだろうが、いつからなのだろう?そのほとんどが昭和の建立だったような気がする。塔の左側面に造立年月日と施主名が刻まれていた。
氷川神社入口脇 川越市下老袋731[地図]
さらに北へ進むと、すぐ先で道は左右に分かれる。右の道に入って600mほど、道路左手の氷川神社の入口の脇に小堂が立っていた。
小堂の中 庚申塔 宝暦3(1753)駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像
合掌型六臂。
発達した瑞雲、日天、月天の下、蛇を頭に目を吊り上げて正面を見据える三眼の青面金剛。法輪、矛、弓矢、空間によどみがなく、迫力のある構図になっている。像の周りには紀年銘、施主名など、文字が全く見当たらない。
足の両脇にしっかりした二鶏。足元の大きな邪鬼は首と背中を踏まれて苦しそう。その下の三猿。セメントで補修されて中央の正面向きの聞か猿は上半身のみ、左右の猿がともに左向きというのも珍しい。紀年銘などは塔の両側面に刻まれていた。隙間が狭く写真は撮れなかったが、右側面に造立年月日。左側面は上部に講中
三拾四人、下部右端に本□村、左に下新田村。下新田村は調べてみたがよくわからない。先日みた阿久津公民館前の馬頭観音塔に「古谷上村新田」とあり、現在荒川河川敷の中に東本宿の飛び地がある。もしかしたら江戸時代そちらに新田村があったのだろうか?
東本宿霊園 川越市東本宿135[地図]
氷川神社のすぐ北の信号交差点の角に東本宿霊園がある。入口近くに小堂があり、六基の石塔が西向きに並ぶ。中の二基の地蔵菩薩塔が村の人々によって建立されたものだった。
右端 地蔵菩薩立像
宝暦3(1753)角柱型の石塔の上、蓮台に立つ堂々たる丸彫りの地蔵菩薩像。
錫杖・宝珠とも損傷なく彫りも細部まで残っている。首に補修跡があるが、石質、サイズから、面長なその頭部は本来のものだろう。
石塔の正面中央「六十六部供養塔」どうやら大乗妙典供養塔らしい。右脇に武刕入間郡本□□、左脇に願主
知空。塔の右側面に造立年月日。左側面には助力施主とあり、老袋七ヶ村、鴨田村、古谷本江、同上村、原村、近隣の村々の名前が刻まれていた。上老袋村、中老袋村、下老袋村、本宿村、鹿飼村、川口村、戸崎村の7つの村はもともと「老袋村」という一つの村だったらしい。元禄期に分村したものだというが、本宿村以下の4つの村を含めて「老袋七ヶ村」というのだろう。
右から3番目、地蔵菩薩立像
寛延2(1749)その造立は右端の地蔵塔と4年しか離れていない。錫杖の先とその柄の一部が欠けていた。石塔の正面、右側に造立年月日。中央に本宿村中。左に願主とあり、二名の名前が刻まれている。
塔の右側面に老袋三村の名前が刻まれている。本宿村を中心に、老袋の人達がその造立に協力したものと思われる。
塔の左側面に江戸瀬戸物町と刻まれていた。なぜここで江戸日本橋の町の名前がでてくるのだろう?右側面に刻まれた老袋の三つの村と瀬戸物町がここで同格に扱われているのは不思議な気がする。
霊園西路傍 川越市中老袋60[地図]
信号交差点から西に進むとすぐ右手の住宅の前に石塔が立っていた。
馬頭観音立像
文化3(1806)一面二臂の立像だが、風化のために顔など、細部ははっきりしない。ただ右脇の紀年銘だけは残っていて、頭上の馬頭もいかにもそれらしい。
中老袋自治会館入口 川越市中老袋72[地図]
信号から100mほど西、道路右側に石塔が立っていた。その左脇の細い道の先に中老袋自治会館がある。
庚申塔
安政7(1860)庚申の年の造立。大きな台の上、角柱型の石塔の正面を深く彫りくぼめた中に 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。
日月雲、法輪などの様子を見ると彫りは繊細で技巧的。ただ、風化のため石塔の角は一部欠け、像も溶けだしていて、青面金剛の顔なども今一つはっきりしない。大きなショケラが足を折り曲げ青面金剛の腰にすがりつき、足元に邪鬼が頭を右にしてうずくまる。
下の台の正面に大ぶりな三猿が彫られていた。岩槻でよく見かけたタイプ、片手使いの三猿である。右の見猿と中央の聞か猿が同じポーズ、左の言わ猿だけがそれとは対称的なポーズをとっていて面白い。
塔の右側面、奥に造立年月日。その横に中老袋村。左側面には世話人とあり、二名の名前が刻まれていた。
中老袋自治会館脇墓地 川越市中老袋70[地図]
東本宿霊園前の信号交差点の西、安政の庚申塔の立っていた入口から細い道をまっすぐ北へ進むと中老袋自治会館があった。その西に広がる旧薬師堂墓地。入口は左手前にある。
入口から墓地に入ってすぐ左手、ブロック塀の前に5基の石塔が並んでいた。そのうち4基は地蔵菩薩塔だが、その内容はなかなかバラエティーに富んでいる。
左端 大乗妙典六十六部回国供養塔
宝暦3(1753)反花のついた四角い台の上、角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、上部に錫杖・宝珠を手に蓮台に座る地蔵菩薩像を浮き彫り。その下、中央に「奉納大乗妙典日本六十六部廻国」両脇に天下泰平・日月清明。左下に武刕比企郡中老袋村 願主とあり、俗名、法名が並んで刻まれている。
台の正面には下老袋村、本宿村、上老袋村、鹿飼村、江戸下谷町、中老袋村と刻まれていて、ここでも江戸の町が顔を出す。
塔の左側面に造立年月日。右側面には「南無阿弥陀佛」と刻まれていた。
2番目 丸彫りの地蔵菩薩立像
宝暦4(1754)錫杖・宝珠に欠けはないが、首に補修跡があり、頭部はやや右前方を向いている。重厚な蓮台、前面に彫り物を施した敷茄子、さらに台は二段になっていて、上の台は反花付き、なかなか豪華な石塔と言えるだろう。
上の台の正面「古河石橋供養塚」近くに古川排水路があるが、調べてみると古河=古川は、この古川排水路のことではなく、入間川右岸に今も残る荒川の旧流路のことらしい。江戸時代には荒川(古川)に老袋の渡し、蔵根の渡しが設けられていて、その渡しに至る途中の流れ(支流?)に石橋が架けられたのではないだろうか。両脇に造立年月日。下の台の正面には東
平方 岩附 道と刻まれていた。
左側面、上の台には下鴨田村 遊?念とあり、続いて勧化村々
五拾ヶ村。石橋供養塔だから多くの村の協力があるのだろうが、それにしても50ヶ村というのはすごい。下の台には左 加わごゑみち と刻まれている。
右側面、上の台の中央に願主、両脇に武州比企郡 中老袋村。下の台に右
川嶋道と刻まれていた。三方向、四地名、この地蔵菩薩塔は石橋供養塔であり、また立派な道標にもなっている。
3番目 丸彫りの地蔵菩薩立像
正徳3(1713)台が薄く石塔としては小型に見えるが、像はしっかり、蓮台も敷茄子も厚い。
敷茄子の正面 武刕比企郡
老袋村。台のほうに銘が見当たらず、ここまでと思ったが・・・
念のために背後に回るとお地蔵様の背中に銘が見えた。ブロック塀との間の隙間が狭く、写真は難しい。中央に「奉供養地蔵大菩薩二世安樂所」両脇に造立年月日が刻まれている。
4番目
地蔵菩薩坐像。石塔の銘は大きくクリアで読みやすいが、なぜか紀年銘だけが見当たらなかった。裏面とブロックの隙間が狭く、こちらは覗くこともできず詳細は不明。もしかしたら裏面にも銘があるのかもしれない。
石塔の正面を二重に彫りくぼめた中「奉讀誦大乗妙典一千部」その横に「奉書寫大乗妙典一字一石一部」合わせて大乗妙典供養塔と言えるだろうか。下部右から中老袋
中央に村中、左に上老袋三人と刻まれていた。
塔の左側面「奉書寫一字一石」下部両脇に阿弥陀経、心經とある。これを見ると大乗妙典=法華経だけでなく、阿弥陀経、般若心経を一石に一字ずつ写して土中に埋めた「一字一石供養塔」ということになるのか?
右側面奥に「三界萬霊等」その横に願主とあり、至山雪道大徳と刻まれていた。
右端 庚申塔
享保2(1717)舟形の石塔の正面上部に日月雲。中央に「奉供養庚申待成就所」両脇に造立年月日。
塔の下部は銘が一部読みにくい。
右脇から武州比企郡下老袋村三人女(中?)左のほうに中老袋村十三人女中、続いて同所二人建之だろうか?いずれにしても女性の講中によって造立された庚申塔のようだ。
入間大橋高架下墓地 川越市中老袋328東[地図]
東本宿の信号交差点から北へ進み、入間大橋の高架下をくぐると、道路左側の墓地の前に二基の石塔が並んでいた。
左 庚申塔 元禄6(1693)舟形光背に日月雲 青面金剛立像
合掌型六臂。塔の一部、白カビが厚く、銘も読みにくい。右下に二行、中老袋村、続いて同行二十人。左下にも二行、願主一名、続いて造立年月日が刻まれていた。
元禄期の庚申塔によくみられるように青面金剛の足元に邪鬼の姿はない。その下の部分、台の正面ともコケが厚くこびりついていて確認できないのだが、このスペースに三猿が彫られているのだろうか?「庚申供養」などの銘も見当たらず、残念ながら詳細は不明である。
右 大乗妙典供養塔
明和5(1768)駒形の石塔の正面を彫りくぼめた中、上部に阿弥陀三尊種子。その下に「奉納大乗妙典六十六部日本回國」上部両脇に天下和順・日月清明。中ほど両脇に造立年月日。右下に願主一名、左下に・・・大徳と僧の名前が刻まれていた。
上老袋水防倉庫脇 川越市上老袋201向い[地図]
さらに北へ進み、入間川右岸の土手が近くなるあたりで道は左へカーブする。道路右側、土手下の水防倉庫の左脇に小堂が立っていた。
小堂の中 丸彫りの地蔵菩薩立像
享保10(1725)彫りは細部まで丁寧でみずみずしい。大きな欠損も、風化の様子もほとんどなく驚くほど美しい状態を保っている。
大きな敷茄子の下、石塔の正面、右から武刕比企郡上老袋村
施主村中三拾三人、さらに造立年月日が刻まれていた。
塔の側面は隙間が狭くいい写真は撮れない。上から覗いてなんとか見えたのは右側面、左から上尾町、中釘村、本宿村、中老袋村。左側面のほうは右から中江村?鹿飼村、谷中村、三保谷村?それぞれ数人となっている。これだけ立派なお地蔵様、その造立には近隣の村々の助けも必要だったということだろう。
上老袋自治会館墓地入口 川越市上老袋475[地図]
水防倉庫から100mほど西、道路右側に上老袋自治会館があり、その裏に墓地がひろがっていた。会館の西脇が墓地に入口になる。ブロック塀の前に石塔が並んでいた。
左から庚申塔 宝暦8(1758)駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像
合掌型六臂。頭上に蛇がとぐろを巻く。像の右半分が白カビに覆われていた。
足の両脇に二鶏を半浮彫。足元に邪鬼が不機嫌そうな顔をしてうずくまる。邪鬼の下、三猿は中央が正面向き、両側が内を向く。
台の正面、右のほうに造立年月日。左のほうに比企郡 上老袋村
講中と刻まれていた。
小堂の中、左 地蔵菩薩立像。紀年銘が確認できず造立年は不明。石塔の正面
梵字「カ」の下、「爲村中安全 厄除地蔵大菩薩」
右側面は無銘。左側面に上老袋村
願主とあり、俗名、法名が並んでいる。
右 庚申塔
文化3(1806)主尊が如意輪観音というのは相当珍しい。下の台、石塔部、いずれも反花付きで敷茄子、蓮台も重厚。石塔の正面に「庚申待供養佛」両脇に造立年月日が刻まれていた。
蓮台の上、右ひざを立てた二臂の如意輪観音菩薩坐像。重量感のある力作だが、この時期の丸彫り像はそれなりに欠損が目立つ。首にも補修跡が残っていた。
塔の右側面 奥のほうから武州入間郡上老袋村 講中十八人
總村中。最後に涼風乗蓮信士。こちらは世話人だろうか。
左側面の長い銘文が興味深い。「當村信女十有八人同志結講毎庚申日集會誦呪二十年・・・」塔の右側面にあった講中十八人というのは女性だけの講らしい。これまでも見てきたように如意輪観音を主尊とする月待塔の多くが女人講によって造立されたものだった。つまり、こちらの庚申講が女人講だったために主尊として如意輪観音が選ばれたのではないだろうか。「皆で浄財を出し合って如意輪観自在菩薩を造立、開眼供養」銘文の半ばあたりにそんなくだりがあった。銘文の最後は「法界衆生共被利潤」と結ばれている。