下松原・下赤坂の石仏

五差路小堂 川越市下松原833向い[地図]


寺尾方面から「並木通り」を南西に進み、川越街道を越えてさらに1kmほど先の信号交差点に小堂が立っていた。ここは五差路になっていて写真右の道を行くと川越街道に、斜め左の道は旧川越街道の藤間あたりに出る。また左右の道は左は今福方面に右は県道56号線の亀久保あたりに出ることになる。


小堂の中 馬頭観音塔 宝永8(1711)舟形光背に三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。光背の縁は一部欠けていて正面の顔はつぶされていた。


頭上の馬頭は破損していて不明瞭。その上の梵字も上部が欠けていて確定できない。左の顔は忿怒相で比較的はっきり。光背右脇「奉信心日待供養二世安樂所」数少ない貴重な日待供養塔である。光背左脇に造立年月日。その下に武刕入間郡下松原村 施主と刻まれていた。


塔の下部もところどころ欠けているが、施主11名の名前を確認できる。

十字路角の地蔵小堂 川越市下松原619[地図]


馬頭観音塔の信号交差点から今福方面へ1kmあまり、十字路の角に小堂が立ち、中には多くの地蔵菩薩塔が並んでいた。


小堂の右脇 普門品供養塔 文化3(1806)三段の台の上に角柱型の石塔。重量感のある構成である。


石塔の正面 梵字「サ」の下に「普門品 五万巻 供養塔」左側面に造立年月日。右側面に下松原村中と刻まれていた。


上の台の正面に大きく「講中」その下の台の正面と左側面にそれぞれ11名の名前が刻まれている。右側面は銘が薄く「再建」の文字が見えるがその他の銘が読み取れない。


小堂の中に8基の地蔵菩薩塔。右端に形光背型の立像。その隣は墓石。残りの六基が六地蔵だった。


右端 地蔵菩薩立像 元禄6(1693)大きな舟形光背はその縁がところどころ欠けている。円形の頭光背を負ったお地蔵さまは風化の為に顔もはっきりしない。


光背右脇に武刕入間郡川越領下松原村施主とあり、その下に二名の名前。左脇に造立年月日。下部にやはり二名の名前が刻まれていた。


足元の蓮台の花弁の部分にも合わせて11名の名前が刻まれている。


隣の墓石は紀年銘が確認できず造立年などは不明。続いて六地蔵菩薩立像 寛政6(1794)それぞれの台の正面に地蔵名。六体の地蔵像はほぼ同じ大きさで、同じようにひびが入っていた。いずれも首に補修跡があり、足元の蓮台、敷茄子の部分の損傷が大きい。敷茄子が完全に残っているのは左から3番目だけで、その分だけ他のお地蔵様より大きく見える。


左端の台の正面、地蔵名の両脇に造立年月日が刻まれていた

 

林の中の交差点 川越市下松原151北300m[地図]


前回紹介した地蔵堂のある交差点から北西へ、今福方面に続く道を進むと、すぐに薄暗い林の中に入る。600mほど先に交差点があり、角のところに石塔が並んでいた。


中央 千手観音立像 明和2(1765)舟形光背に十臂の観音像を浮き彫り。こんな林の中でこのような貴重な石仏に巡りあうとは考えもしなかった。


頭頂に阿弥陀如来の化仏を載せ、その下に5面の仏面。胸前の合掌手、腹前で壺を載せた手、脇に三組の腕と、合わせて十臂となるが、千手観音ではないだろうか?像の右下に 右 川越、左下に 左 所沢と道標が刻まれている。


脇手は上から日輪、月輪、真ん中は矛と棒?下の手は弓矢を持つ。頭上の仏面も本面も風化の為に不明瞭。


塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。その下に武刕入間郡下松原村 願主 惣村中と刻まれていた。


右脇に馬頭観音塔 明治3(1870)個人造立の文字塔である。


左脇に2基の馬頭観音塔が並ぶ。いずれも個人の文字塔で右は明治8年、左は明治24年の紀年銘が刻まれていた。

下松原 畑の中の枝道交差点 川越市下松原122南[地図]


地蔵堂のあった交差点から西に100mほど、斜め左に入る枝道があり、畑の中をしばらく進むと交差点の角に西向きに小堂が立っていた。この枝道と交差する道を北へ行くと、やがて上の林の中に入り、観音様の立っていた交差点に出る。


小堂の中 巳待供養塔 宝永6(1709)舟形光背上部に日月雲。その下に弁財天の坐像を浮き彫り。


弁財天は顔のあたりが損傷が大きく、頭上は蛇と思われるがはっきりしない。光背右脇「奉建立爲巳待供養也」蛇と縁の深い弁財天を主尊とする「巳待塔」である。左脇に造立年月日。その脇に武刕入間郡川越領下松原村。右下に施主。


下部に三猿が彫られていた。資料「民間信仰のかたち」では庚申塔として紹介されている。「庚申」などの銘はどこにも見当たらないが「巳待信仰」と「庚申信仰」の習合と考えていいのだろう。三猿の下の部分に施主8人の名前が刻まれていた。

 

下赤坂個人宅内 川越市下赤坂154[地図]


県道6号線、中福から下赤坂に入って初めての信号交差点を左折、500mほど先の道路左側の住宅の門の近くに石塔が立っていた。個人のお宅なので許可をいただいてから写真を撮ることにした。


庚申塔 寛保2(1742)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。小さいながらもしっかりとしたつくりで、風化も少なく比較的美しい。三眼の青面金剛は目をいからせ口をへの字に忿怒の相。上の手には矛と法輪。下の手の弓矢は線刻。像の右脇「奉納(壬戌春)供養佛爲二世安樂也」かっこ内は本来造立年のほうにあるべきと思う。左脇に造立年月日。その下に施主 個人名が刻まれていた。


足の両脇に大型の二鶏を線刻。足元には青面金剛と同じように口をへの字にした邪鬼が横たわる。その下の部分、草の葉の陰から三猿の頭がのぞいていた。

県道6号線東塚上 川越市下赤坂1795[地図]


県道6法線をさらに南に進む。登坂に差し掛かるあたり、道路左側の塚の上に小堂が立っていた。


小堂の中 馬頭観音塔 天保3(1832)四角い台の上に角柱型の石塔。その台の手前に丸く大きな穴があいた真四角の台が置かれている。これはなんだろう?


角柱型の石塔の正面、梵字「カン」の下に「馬頭明王」塔の両側面に銘が刻まれているが、隙間が狭いうえに彫りも薄くなっていてうまく読み取れず、右側面の奥の造立年月日だけが確認できた。


塔の下の台の正面には大きな文字で下赤坂村中と刻まれている。