いろは橋東 志木市中宗岡1-2
志木市役所のほうから「いろは橋」を渡るとすぐ左手に石塔が並んでいた。
後には新河岸川と柳瀬川の中洲に立つ市役所が見えている。
石塔の前には志木市教育委員会による解説板が設置されていた。
左 石橋供養塔
安永4(1775)正面中央に「石橋供養塔」両脇に造立年月日。
右下
武州入間郡宗岡村 石原氏。左下 木下氏。願主だろうか?
塔の左側面
文字ははっきり見えているが、くずし字のためだろうか、うまく
意味がつかめなかった。
塔の右側面
上のほうから引又町、舘村をはじめ近隣の町村、わらび町、与野町
大宮町、川越など、全部で20あまりの町村名が刻まれている。この地域における
石橋のもつ重要性を示すものといえるだろう。下部に上宗岡村
田中杢佐衛門を
はじめ数名、下宗岡村もまた数名の名前が見られるが、その中には「大仙寺」や
「念佛講中」などの文字も刻まれていた。
裏面は、面の使い方が90度回転してあり、塔の裏面を削りなおして使ったものか、
多くの名前と寄付金額が刻まれているが、一金十円とか五円五拾銭などとあり、
どうやらこの面は明治以降に後刻されたものと考えられる。
こちら一対の親柱。正面の字は左が「伊呂波橋」右が「いろははし」だろう。
天神社 志木市中宗岡1-2
「いろは橋」を越えて50mほど、県道40号線の左側に天神社の入口がある。
長い参道の先、石階段の上の天神社拝殿の左側奥に水神宮
安永2(1855)が
立っていた。自然石の正面に大きく「水神宮」と彫られている。
裏に回ると年号が刻まれ、脇に中棟岡村宿組と刻まれていた。これまで
見かけたことはなかったが「棟岡村」という表記もあったようだ。
中宗岡
消防小屋裏墓地 志木市中宗岡5-16-39
いろは橋の東、天神社入口の、道路を隔てた向かい側に消防小屋が立っている。
小屋の裏の墓地の入口に六十六部供養塔
天明6(1786)が立っていた。その上に
如意輪観音坐像を乗せた石塔で、梵字「バク」の下「六十六部成就」と刻まれる。
その両脇にわたって「収納妙典」「天下泰平」「國家安全」と刻まれていた。
塔の上には如意輪観音坐像。白カビに覆われ一部はっきりしないが六臂で、
宝珠、蓮のつぼみなどを持つ。
塔の右側面
年号の下に行者 善心 か弥。その右脇 紀州那賀杉原村、左脇に
六親九族法界普利。和歌山出身の行者ふたりが全国行脚の途中、この地において
「六十六部成就」を記念して、またはそれを願ってこの石塔を建立したものか。
塔の左側面
擬子西國 第十四ばん だろう。西国三十三所第十四番札所は
和歌山県の天台寺門宗総本山三井寺。天台密教の修験行者だったのだろう。
墓地に入ると右手、ブロック塀の前に石仏が並んでいた。
右から聖観音菩薩立像
天和4(1684)ずいぶん古いもので白カビも目立つが、
そのお姿はふくよかで品がある。光背右
二行ほど銘文が見えるが、あまり
意味がわからない。下部には年号が刻まれていた。光背左
こちらにも
二行にわたって文字が見えるがやはりわからない。下部に施主敬白とある。
2番目
阿弥陀如来立像 天和4(1684)隣の聖観音菩薩像と同年の造立。光背右
「為祖父祖母石像造立」祖父母の供養のための造立のようだ。その下の二行の
銘文は意味がよくわからない。光背左に年号。その下に7文字4句の偈文?
こちらもその意味はわからなかった。足元の蓮台の正面に施主敬白と刻む。
3番目
聖観音菩薩立像 寛文13(1673)こちらも古い。光背上部に梵字「サ」
光背右
廟者為で始まる銘文は残念ながらこれも意味がわからない。光背左に
年号。その下に宗岡郷敬白と刻まれていた。
4番目
地蔵菩薩立像。蓮台の下に台がなく年代など詳細は不明だが、ここに
ある石仏はいずれも江戸初期の古いもので、同じような時期のものだろう。
5遍目
阿弥陀如来立像。下の台に元禄12(1699)の銘が見えるが、この台自体が
この阿弥陀如来像の台かどうか、一見して違和感がある。その判断は難しい。
このあとの小さな二つの石塔は個人の墓石だった。
さらにその奥、ブロック塀の前に無縁仏などが整然と並べられている。
一番前の列 右
馬頭明王塔 寛政8(1796)梵字「カーン」の下「馬頭明王」と刻む。
隣
馬頭観音坐像 明和4(1767)像の両脇に造立年月日。右下に 入間郡宗岡村。
左下に 施主
細田作左衛門と刻まれていた。
左 馬頭観音塔
大正6(1917)正面「馬頭觀世音」左側面に年号と施主名を刻む。
3列目の右端あたり、名号塔
宝暦10(1760)正面中央に「南無阿弥陀佛」右脇
永代百万遍講中、左脇には年号。塔の両側面に渡って武州入間郡川越領宗岡村。
最後列
左端付近、宝篋印塔 文政5(1822)中央に「蜜厳榮」以下は崩落している。
基礎部、右に7文字4行、左には5文字4行の偈文が刻まれていた。裏面には
中宗岡村
造立施主とあり個人名が刻まれている。塀との隙間が狭すぎて
写真は撮れなかった。
實蔵院 志木市中宗岡1-15
さらに県道40号線を東に300mほど進むと左側に志木宗岡郵便局があり、
その脇から細い道を左に入ると、奥に實蔵院がある。その参道の左側に
小堂があり、脇には石塔が並んでいた。
左から尾張家御鷹場境杭
享保15(1730)寶幢寺で見たものと同じ石杭だ。
その隣
西國坂東秩父供養塔 嘉永2(1849)正面 上部に梵字キリークを彫り
その下に「西國坂東秩父供養塔」と刻む。
塔の右側面に年号。左側面、武州入間郡
中宗岡村 観音講中と刻まれていた。
さらにその奥に敷石供養塔
文久元年(1861)梵字「ア」の下「敷石供養塔」
右側面に年号。左側面 武州入間郡中宗岡邨
實蔵院 現住 弘慧代と刻む。
小堂の中、六地蔵を両側に従えて、中央に坐像を乗せた石塔が立っていた。
三界萬霊塔
文政12(1829)正面に大きく「三界萬霊塔」両脇に造立年月日を刻む。
右側面 願主
浄圓坊。左側面 上部に先祖代々精霊 6人の戒名が刻まれている。
下部には6人の名前、そのうち一人は引又町となっている。下の台の正面にも
先祖代々とあり、11人の名前が刻まれる。台の両側面にも名前が刻まれている
ようだが隣の台のために読むことはできなかった。
塔の上に載っているのは釈迦如来坐像。六地蔵と釈迦如来像の組み合わせは
いたって珍しい。
六地蔵菩薩の像は左端は大きさが違い不揃いだが、6つの台はほぼ同時期に
作られたものと思われる。それぞれの台に戒名が刻まれているが、そのうちの
二つに文政10(1827)と文政13(1830)銘があった。真ん中の三界萬霊塔もあわせ
同時期のもののようだ。實蔵院の僧浄圓が在家の協力を得て三界萬霊塔を造立、
それに合わせて在家の人々が故人の供養を兼ねて六地蔵を造立したのだろう。
本堂の右手、ブロック塀に寄り添うよう地蔵菩薩立像
寛文3(1663)が立っていた。
光背の上部に梵字「カ」頭の後ろに大きな日輪光背。古い割りにカビなどもなく
きれいな状態を保っている。光背右脇には「奉造立地蔵尊念佛講人数六十四人」
続いて為二世安全?也。道心 宗西 道圓
施主敬白。光背左脇に年号。その下に
武州入間之郡宗岡郷新田 實蔵院住 宥啓謹識
と刻まれていた。
宗岡小学校西一里塚 志木市中宗岡3-1
宗岡小学校の北側を通る奥州街道と県道40号線が斜めに交差する地点に
一里塚があったという。今は写真のようにフェンスに囲まれて石塔が
並んでいた。
左から大きな笠付の庚申塔
寛文131673)日月 青面金剛立像。磨耗のため
顔の表情などがはっきりしない。
初期の庚申塔らしく青面金剛は個性的。六臂だが、合掌はせず、ショケラも
持たない。それぞれの手には上から矛と法輪、弓矢、蛇?と羂索。足元に
邪鬼、二鶏の姿は見当たらず、ただ三猿だけが彫られていた。
塔の左側面に年号。その脇に同修□□人数十五人と刻まれている。
右側面には「庚申供養二世安樂也」その下に文字が続くがうまく読めなかった。
その脇に刻まれた文字も上部は判読不能。下のほうは武州入間之郡下宗岡村か。
フェンス際に三基の石塔が並ぶ。左
西國坂東秩父巡礼塔 寛政6(1794)上部に
梵字キリーク。中央「西國坂東秩父巡礼成就」両脇に天下泰平・海内豊穣。
下部の両脇に造立年月日が刻まれていた。
塔の左側面に「自證化他」右側面
上部は庭木の陰に「現」「樂」が見える。
現當安樂だろうか。その下には中之、行十と文字が見えるが、一部土中に
埋まっているため意味はわからない。
その隣
表面が磨耗していて読めないが上のほうは「左」「右」のようだ。
下に地名があって道標だったのだろう。
右側面には「普門品」観音講中の造立と考えられる。左側面は確認できなかった。
右
馬頭観音文字塔 弘化3(1846)右側面に年号。左側面は見ることができない。
せせらぎの小径脇 志木市中宗岡5-4
県道40号線せせらぎの小径交差点から南に歩く。真ん中が遊歩道になっていて
その両側は一方通行の車道だが、100Mほど先の西側の路傍に小堂が立っていた。
中には虚空蔵菩薩立像が祀られている。
こちらにも志木市の解説板が立っていた。丁寧な解説は大変参考になる。
虚空蔵菩薩立像
元禄12(1699)解説にある四臂の確認のため前掛けをまくって
撮影させてもらった。上の手は左右に鉤と中に卍を描いた菱形のものを掲げ、
下の手は右が施無畏印、左手に宝珠を持っている。光背両脇に造立年月日。
下のほうには施主とあり、二名の名前が刻まれていた。
虚空蔵菩薩の足元、一見鯉のように見えるが、足があってどうやら龍のようだ。
虚空蔵菩薩像自体が珍しく、江戸初期のものでもあり、貴重な石仏だと思う。
産財氷川神社 志木市中宗岡2-29-12
秋ヶ瀬橋の西から羽根倉橋の西へ向かう通称「あきはね通り」の丁度真ん中付近、
路地を東に入った先に産財氷川神社がある。本殿の裏には荒川の堤防が見える。
鳥居から境内に入ってすぐ右手に手水石
文政13(1830)があった。きれいな字で
奉納、當村、伊勢大々講中と彫られている。
裏面に「御領主武運長久」と刻まれていた。御領主様の武運長久が第一なのか?
これは初めて見た。続いて「五穀豊穣郷内安全」「講中子孫繁栄」「願主敬白」
最後に年号が刻まれている。両側面には細田氏、関根氏、内田氏、一之瀬氏など、
合わせて20名ほどの名前が刻まれていた。
拝殿の手前、左右に石灯籠が立っている。両方とも竿部が四角形で高さもほぼ
同じだったので一対かと思ったら、笠の形、火袋の模様など細部が違っていた。
右
安永4(1775)正面に「奉納御寶前」脇に氏子中。左側面 武州入間郡中宗岡村
願主とあり、その下に大熊氏から市ノ瀬氏まで8名の名前。右側面には年号。
左
明和2(1765)正面に「奉納御宝前 氏子中」左側面 武州入間郡川越領中宗岡村
願主として前野氏から市ノ瀬氏まで7名の名前。右側面に年号が刻まれている。
拝殿の右手奥に大きな塚があった。「御嶽山」塚一面に「御嶽山大神」をはじめ
諸神や霊神、寄付連名碑や記念碑などが並ぶ。
麓の正面付近に不動明王坐像が立っていた。銘が確認できず造立年はわからない。
燃え盛る火焔の光背、剣と羂索を手に口をへの字にしてにらむ顔は迫力がある。
下の二段に落ちる滝の彫りも細かい。
不動明王の左右に制吒迦童子と矜羯羅童子。こちらも銘は確認できなかった。