青蓮寺 板橋区成増4-36-2
和光市の吹上方面から白子川を越え、三園通りを南に進むと道は急な登りとなる。
赤塚四バス停あたりで西に入るとすぐに青蓮寺の山門があった。階段を上った先
右手に三基の石仏が並んでいる。手前の二基の如意輪観音像は個人の墓塔だった。
一番奥に阿弥陀如来立像 寛文10(1670)舟形光背を持つ美しい立像である。
光背の右側、右脇に年号。下に正蓮寺。この頃は青ではなく正を使ったものか。
その隣に「奉建立石佛弥陀一尊」下部に4名の名前が刻まれている。
光背左「庚申待供養二世安楽」江戸初期らしい阿弥陀如来を主尊とする庚申塔だ。
下部には3名の名前。合わせて施主7人だろうか。
三基の石仏と向かい合うように地蔵菩薩立像。大きな錫杖と舟形光背が印象的。
像にも台にも銘が見当たらず詳細はわからないが、その立ち姿は上品で美しい。
境内を進むと本堂右手前に祠があり、中に石塔が祀られているのが見えた。
勝軍地蔵菩薩 天保4(1833)兜をかぶった地蔵菩薩が右手に錫杖、左手に宝珠を
載せ馬にまたがっている姿が面白い。祠の中は狭く現場で確認はできなかったが、
資料によると右側面に年号、左側面には上赤塚中と刻まれているらしい。
本堂の左側、墓地の一角に無縁仏が集められていて、その中に馬頭観音塔がある。
馬頭観音塔 明治21(1888)大きな三段の台の上に三面八臂忿怒相、片膝を立てた
馬頭観音坐像が載っていた。体の前で合掌した手以外に、後ろの右手三本は健在、
左手二本が欠けている。真ん中の台の右側面に年号。さらに4人の名前を刻む。
正面に8人、左側面にも5人、三面合わせて17人の名前が刻まれていた。
三面それぞれに忿怒の表情を見せる。頭上の馬はのんびりとした味を出している。
丸彫りの多臂像の場合手が欠けたものが多いが、この像は比較的状態がいい。
彫りも細かくなかなかの傑作といえるのではないだろうか。
成増幼稚園西墓地 板橋区成増4-31
青蓮寺から北へ向かいすぐ先のT字路を左折、成増幼稚園を越えてしばらく
行くと正面は歩行者だけが通れる階段の道になる。ここでまた左に曲がると
奥に墓地があった。墓地の入り口近く、塀の前に石塔が並んでいる。
左の石塔 享保17(1732)中央、梵字の下「贈権大僧都法印辨榮」右脇に年号。
左脇 青蓮寺拾四世教山と刻まれていた。青蓮寺に関係のある墓地のようだ。
中 聖観音菩薩立像 元禄5(1692)下の台の正面に大きく三猿が彫られている。
光背右「奉待庚申供養二世安樂所」下の台の三猿もあり、庚申塔である。光背左に
年号。続いて武州豊嶋郡上赤塚村。下部には施主8名の名前が刻まれていた。
右 地蔵菩薩立像 享保11(1726)大きな二段の台、敷茄子、蓮台の上に丸顔の
お地蔵さま。白カビが見られるが時代のことを考えればこのくらいは普通だろう。
上の台の正面 右から武州豊嶋郡上赤塚村、中央に念佛講中廿四人、左に年号。
最後に願主 本誉愚心と刻まれていた。
小松原阿弥陀堂 板橋区成増4-7
成増4丁目あたりは山あり谷あり、また細かい道が迷路のようになっていて、
目的地への道順の説明が難しい。三園通りの宮前公園前交差点から西に入り
200mほど先を右に入るとこの付近に出るが、後から地図を見ると成増団地の
あたりからのアプローチのほうがわかりやすいかもしれない。成増4丁目7番の
ブロックの北西の角に阿弥陀堂があった。墓地の入り口にはおびただしい数の
石仏が積み上げられ、その頂上に地蔵像が祀られている。地蔵像は丸彫りで
下から見ても文字などは確認できずその素性はよくわからない。
万霊塔の正面 地蔵菩薩立像 元禄15(1702)全身を白カビで覆われていた。
光背の上部は欠け白カビが目立つが文字は読める。右脇に「奉造立庚申供養處」
やはりこれも庚申塔だ。続いてその下に武州豊嶋郡と刻む。
光背左には赤塚成増村 同行十三人と刻まれていた。
小松原阿弥陀堂向かい路傍 板橋区成増4-17
小松原阿弥陀堂の向かいのマンションの角の所に二基の石塔が並んでいた。
右 庚申塔 寛政9(1797)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。
足下に邪鬼。足を折り曲げ身を低くしたネコのような構え。その下に三猿を彫る。
塔の右側面 上のほうに造立年月日。続いて東 下赤塚道 南 江戸道。その下に
講中 十八人と刻まれていた。
左側面は 西 白子道 北 吹上道。さらに願主とあり成増村 二名の名前を刻む。
その隣 大典記念塔 大正4(1915)区立郷土資料館、宮の下交差点西路傍に続いて
これで三基目だ。塔の正面には右 □赤塚□赤塚役場通り、前 停車場道 左 白子村、
吹上観音通りと刻まれていた。帝國在郷軍人會赤塚村分會の銘のある大典記念塔、
全部でいくつあるのだろう?
成増4丁目五差路角 板橋区成増4-13
吹上方面から三園通りを南に進み長い坂を登り切ったあたり、宮前公園前交差点を
右折して100mほど歩き、細い道を右手に入り込んだ先の五差路の角に庚申塔が
立っていた。この五差路は成増4-13、4-14、4-15、4-23、4-24が接している。
庚申塔 文化2(1805)正面中央に大きく「庚申塔」両脇に「天下泰平・國土安穏」
塔の左側面に年号。右側面 右志らこ道。その下に成増村講中と刻まれていた。
成増ヶ丘小学校東の交差点 板橋区成増4-3-1
成増ヶ丘小学校の東の交差点、アパートの駐車場の前に石塔が立っている。
雨除けの下、聖観音菩薩立像 元禄4(1691)盗難防止のためだろうか前には
鉄の棒が貼られていた。
風化が進み顔も文字も読み取りにくい。光背上部は欠け、白カビも目立つ。
光背右「奉待庚申供養二世安樂所」これもやはり庚申塔である。左脇には
年号が刻まれていた。
下部、右端に「村」と見えるがうまく読み取れない。続いて施主とあり
全部で5、6名の名前も見えるのだがこれも判読はできなかった。
成増小学校入口交差点の東 マンション前 板橋区成増2-6-1
東武東上線の南、川越街道の成増小学校入口交差点のすぐ脇、マンションの
前の小堂の中に二基の石塔が立っている。
左 庚申塔 天明3(1783)上部 青面金剛坐像。中程に「奉建立」とあり
その下に願主はじめ十数人の名前が刻まれていた。
青面金剛は合掌型六臂。上部に薄く日月が見える。全体に風化が進み、
彫りが甘くなっていて青面金剛の顔や三猿がはっきりしない。
塔の左側面に年号。右側面には武州豊嶋郡峡田領 上赤塚村と刻まれていた。
右の石塔には正面中央に「第百七拾週年記念碑」とある。左脇には庚申講中。
裏面に小治兵衛庚申講 世話人として20名ほどの名前が刻まれていた。
その左には「天明三年飢饉ニヨル多数ノ死亡者ヲ慰霊記念」と読める。
さらに昭和二十九年十月吉日とある。この庚申塔が天明の大飢饉の年、
三年の建立でその170年後に講中で記念碑を建てたということだろう。