観照院入口 越谷市七左町7-278
川口の戸塚東4丁目から綾瀬新橋で綾瀬川を渡り日光街道の谷中交差点に向かう道路。武蔵野線のガードをくぐってしばらく進み大きく道路がカーブするあたり、左側に観照院の入り口がある。ここから本堂に向かう参道が始まるが、その入り口近く、右脇に庚申塔が立っていた。
庚申塔 宝暦14(1764)駒型の石塔の正面 梵字「ウン」の下 日月雲 青面金剛立像 剣・羂索持ち六臂。塔の右側面に造立年月日が刻まれている。
頭の後ろに円形の頭光背。髪の真ん中にドクロの顔が見える。宝輪、やり、弓矢を持った腕には蛇がまとわりついていた。
両足にも蛇がまとわりつく。足の両脇に比較的大きな二鶏をしっかり浮き彫り。左の雌鶏の胸のあたりに三羽のヒヨコが線刻されているのは珍しい。青面金剛は二匹の邪鬼の頭に両足を載せて立つ。邪鬼の下に三猿。両脇は内向きに足を投げ出して座り、中央の見猿は烏帽子をかぶり御幣をかついでいる。
台の正面、中央に七左衛門邑とあり、両脇に四匹の夜叉を彫る。右端の夜叉は左手に合掌するショケラを下げていた。実ににぎやかで細部まで手の込んだ庚申塔である。
台の右側面、右端に講中とあり続いて14名の名前、左側面には「おなつ」「およし」などひらがなで20名ほどの名前が刻まれていた。
入口近く、参道左側には二基の石塔が並んでいる。
左 新四国八十八か所標石 天保3(1831)円柱型の石塔の正面上部に「二十一番」その下を浅く彫りくぼめて、梵字「カーン」の下に「新四國八拾八ヶ所」さらにその下に造立年月日。
塔の真裏に七左衛門村とあり、観照院十三世の名前が刻まれていた。
右 不動明王坐像 文久4(1864)台のほうには集中的にカビが発生していて銘が読みにくいが、正面中央に「奉納」両脇に上根郷講中と刻まれている。
角柱型の石塔の正面上部、火炎の光背の形に彫りくぼめて、右手に剣、左手に羂索を持つ不動明王の坐像を浮き彫り。その下 中央に「成田山」その両脇にも文字が見えるが薄くなっていて読めなかった。
塔の右側面に造立年月日。ここも彫りが薄くなっていてはっきりしない。紀年銘の隣に 向とあり、その下にこしがや 廿丁 よし川二里。下部は資料によると埼玉郡七左衛門村、先達三人の名前が刻まれているという。
塔の左側面 上部に大きく此方 向とあり、その下に右 □□□□一り半余、左 はとがや二里 大もん一リ半余 いわつき三里と刻まれている。
入口から本堂まで100mほどの参道。まずは右側に二基の角柱型の石塔が並ぶ。
右 普門品供養塔 明治4(1871)三段の台の上に角柱型の石塔。正面に「普門品」
塔の左側面に造立年月日。右側面には「天下泰平 風雨順時」
三段の台の一番上の台の正面 右に七左衛門村講中とあり、中央に14名の名前、さらに左端に講頭一名の名前。左側面には大門宿、大澤町、谷中村からそれぞれ一名の名前、続けて當村とあり六名の名前が刻まれていた。
左 順礼供養塔 天保11(1840)唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面、梵字「アーンク」の下に「奉順拝一百八十八ヶ所供養塔」周りに月山 湯殿山 羽黒山 西國 坂東 四國 秩父と順礼地を刻む。台の正面には大きな字で「鋪野」願主の名前らしい。
塔の右側面は4行。中に「光明真言一百万遍」「不動中□一百万遍」その両脇に「天下泰平 五穀成就 國土安穏 諸人快樂」左側面には三つの法名と造立年月日。さらに武州埼玉郡七左衛門村とあり、願主 個人名が刻まれている。
さらに参道を進むと今度は左側に真新しい大きな釈迦如来立像があり、その奥に数基の石塔が集められていた。
大小合わせて六基の石塔。馬頭観音塔が多い。
左端 鬼子母神塔 嘉永5(1852)角柱型の石塔の上の石祠の正面「鬼子母神」
左側面に武蔵國埼玉郡七左衛門村、右側面には造立年月日が刻まれている。
2番目 馬頭観音坐像 享和3(1803)駒型の石塔の正面に馬頭観音の坐像を浮き彫り。風化のために像の表面はやや丸くなっている。頭の上に馬頭。塔の左側面は無銘。右側面には造立年月日が刻まれていた。
3番目 馬頭観音坐像 文化3(1806)角柱型の石塔の上部は駒型ふうに処理して馬頭観音の坐像を浮き彫り。馬頭ははっきりしない。正面下部に造立年月日が刻まれている。
4番目 馬頭観音立像 享保15(1730)四角い形の光背?に慈悲相六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。光背右上「奉供養觀世音菩薩為二世安樂」左上に造立年月日。右下 施主 前谷組、左下に同行十三人と刻まれていた。
5番目 馬頭観音坐像 文政10(1827)舟形光背に馬頭観音の坐像を浮き彫り。逆立つ髪の毛の中央にくっきりと馬頭が見える。忿怒相の馬頭観音は独特の馬口印を結んでいる。光背右脇に造立年月日。左下は資料によると「きの」女性の施主だろうか。「の」は「み」に見えるが、「能」のくずし字らしい。
右端 馬頭観音塔 嘉永7(1854)上部が破損。角柱型の石塔の正面中央に「馬頭觀世音」右脇に造立年月日。左脇には中組とあり個人名が刻まれている。
前回見た馬頭観音塔のすぐ先、参道を横切る道が交差して、さらにその先に山門が見える。その入り口に大きな松の木が斜めに立っていて、山門に向かうにはその下を歩いてゆくようになっている。
入口左、南向きに念仏供養塔 承応3(1654)大型の板碑型石塔。塔の下部と台の正面に大きな蓮の花を彫る。
中央上部に阿弥陀三尊種子。その下に「念佛供養」両脇に造立年月日。下部には本願とあり20名ほどの名前が刻まれていた。
入口右側には二基の石塔が並んでいる。左 念仏供養塔 宝暦6(1756)駒型の石塔の正面 阿弥陀三尊種子の下「念佛供養」両脇に造立年月日。
下部には右に本願とあり、続いて四列にわたって細かい字でたくさんの名前が刻まれているが、その半分はひらがな二文字、女性の名前だった。
右 大乗妙典供養塔 宝暦4(1754)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「奉納大乗妙典六拾六部供養塔」上部両脇に「天下泰平 國土安全」下部右脇に當村行者、左脇に個人名。
塔の左側面に造立年月日。右側面には「年宿」(旅の巡礼や修行僧に一般の人が無料の宿を提供すること)とあり、上総國、伊勢國、讃岐國、豊後國の四人の名前が刻まれている。こういった人たちの助けを借りながら全国六十六か所巡礼を成し遂げたということだろう。
さらに進んで参道左側に六地蔵菩薩、その奥に石灯籠型の石塔が立つ。
前後二組の丸彫りの六地蔵菩薩立像。手前の六体はやや小さい。ほとんどの像が首に補修の跡がある。明治時代の「廃仏毀釈」によるものか。
前列の六基の台にはそれぞれ施主名などが刻まれていた。右から3番目の台の右側面に享保7(1722)の紀年銘が見える。六基の像、台は似通っており、いずれもこの時期に造立されたものだろう。
後の大きな丸彫りの六地蔵菩薩立像には本来の台が無く紀年銘も確認できなかった。本来ならこのまま詳細不明というわけだが・・・
奥の宝珠付き石灯籠型の石塔。ちょっと見逃しそうなロケーションに立っている。
竿部正面「奉造立供養地蔵菩薩尊像六體」両脇に元禄16(1703)の紀年銘。六地蔵像を奉納したということだろうが、この位置に立っているということは先の後列の六地蔵菩薩立像のことかもしれない。左側面には百堂同行四拾二人、念佛同行郷中□□とと刻まれていた。
裏面には梵字が五文字。右側面 武州崎玉郡越谷領七左衛門村 本願施主とあり、一名の名前が刻まれていた。
六地蔵と向き合うように、参道右側には庚申塔を中心に9基の石塔が集められている。数も多いのでこちらは次回にまとめて見ていただく。今日は最後に山門内、本堂手前の宝篋印塔を見てみることにしよう。
本堂左手前 宝篋印塔 元文2(1737)江戸時代中期以降は隅飾型笠付きが姿を消し屋根型笠付きに移ってゆくようだ。
基礎部四面に長い願文が刻まれている。裏面の中央あたりに造立年月日。続いて武州崎玉郡越谷領七左衛門村 日映山観照院第七世沙門教意。最後に惣檀中結衆謹言と刻まれていた。
山門右手前、前列に五基、後列に四基、合わせて九基の石塔が整然と並んでいた。
前列 右から百番供養塔 安永9(1780)角柱型の石塔の正面 上部の梵字はあまり見たことがない形で調べてみたがよくわからない。その下に「奉造立 秩父 西國 坂東 百番供養塔」観音霊場百ヶ所巡礼供養塔である。両脇に造立年月日。右下に七左衛門村、左下に同行 敬白。
塔の左側面は無銘。右側面は一部欠けているが、下部に7名の名前が刻まれていた。
2遍目 庚申塔 享和元年(1801)駒型の石塔の正面 日月雲「青面金剛」遠目にはその下になにか彫られているように見えるが近づいてみるとカビなどの汚れだった。
塔の右側面に造立年月日。左側面には七左衛門村講中 拾三人と刻まれている。
3番目 地蔵菩薩文字塔 正徳4(1714)笠付き角柱型の石塔の正面を浅く彫りくぼめた中、梵字「カ」の下に「地蔵菩薩」両脇に造立年月日。四年を表すために「正徳二二」となっていて、はじめは正徳2年?と思ったりもしたが、調べてみると午年は正徳4年、なるほど、2+2=4となる。ぞれにしても随分ひねった表現だ。施主名など、他に銘は見当たらない。
4番目 庚申塔 天明2(1782)塔の表面は白カビが多い。駒型の石塔の正面 梵字「ウン」の下「青面金剛」両脇に造立年月日。
風化のために文字が薄くなって読みにくいが、右下に七左衛門村 講中とあり、続いて14名のひらがな三文字の名前が二段に刻まれていた。
前列左端 光明真言供養塔 明和4(1767)こちらも白カビが目立つ。駒型の石塔の正面 梵字「ア」の下「奉唱光明真言二千万遍供養為二世安樂也」上部右脇に造立年月日。左脇には施主 七左衛門村中百四人。
塔の下部には小さな字で二十数人の名前が刻まれている。
後列右端 庚申塔 寛延3(1750)後列の石塔は前列の石塔の陰になり正面からはいい写真が撮れなかった上隅丸角柱型の石塔の正面を浅く彫りくぼめた中、梵字「ウン」の下に「奉造立庚申待供養講中」両脇に造立年月日。右下に七左衛門村 願主とあり、下部の枠の部分に9名の名前の一部が確認できる。
下の台の正面のほうに正面向きの比較的大きな三猿が彫られていた。
後列2番目 庚申塔 宝永6(1709)駒型の石塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「ウン」の下「奉造立庚申供養」両脇に造立年月日。右下に武州七左衛門村 施主とあり、下部中央に清鏡信尼、その両脇におへん、おさな、など「お」のつく8人のひらがな三文字の名前が刻まれている。女人講中のようだ。塔の下部にはやはり正面向きの三猿を彫る。
後列3番目 庚申塔 享保8(1723)駒型の石塔の正面、頂点に梵字「ウン」さらに日月雲 青面金剛立像 六臂。塔全体におしろいを施したように白い。
丸顔の青面金剛。第一手の右手にショケラをつるす。右手に剣、左手にショケラという組み合わせが最もノーマルで、剣のかわりに鈴を持つケース(川口あたりでよく見た)、まれに羂索というのも見たことがあるような気がするが、この青面金剛の左手にあるものは何だろう?密教の宝具、金剛杵のようにも見えるが、いずれにしてもこれは珍しい。像の右脇「奉造立青面金剛□像現世安穏後生善処祈所」左脇に造立年月日。
足元に邪鬼。その下は見にくいが三猿が彫られている。下の台の正面にはひらがなで10名ほどの名前が刻まれていた。これも女人講中だろうか。
後列左端 庚申塔 寛保3(1743)駒型の石塔の正面 梵字「ウン」の下「奉造立供養庚申待講中」
塔の下部に三猿。下の台の正面にこちらもひらがなで十数名の名前が刻まれている。庚申講は男性中心で女性が少ないというようなことが書かれていたが、越谷についてはどうやらそれは当てはまらないようだ。
山王日枝神社 越谷市七左町7-278
観照院から西へ300mほど、道路南側に山王日枝神社がある。朱色の鳥居の手前、右脇の小堂に三基の石塔が並んでいた。三基とも風化のために塔の表面は摩耗していて様子が分かりにくい。
中央 庚申塔 延宝8(1680)駒型の石塔の正面 中央に「奉供養庚申待石一基二世安樂祈所」両脇に造立年月日。文字はかなり薄くなっていて、なんとか読み取れる程度だった。
塔の下部には三猿が彫られているが、カビがこびりついていて顔などもはっきりしない。
大沼明神社周辺 越谷市七左町4-450
安行花山付近から越谷駅方面へ向かう県道161号線。一之橋で綾瀬川を渡り500mほど先の信号交差点を左折、400mほど進むとT字路に突き当たる。ここを右に曲がってすぐ、道路左側に大沼明神社があった。神社の北、道路を隔てた向かいに七左町四丁目自治会館があり、その入り口に石仏が並んでいる。右は不明塔で、左は新しそうな丸彫りの石地蔵だった。
中央 地蔵菩薩立像 宝暦8(1758)舟形光背の上部に梵字「カ」その下に地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背右脇「奉納六十六部供養」左脇に造立年月日。その下に願主 体善。足元の部分には七左衛門村と刻まれている。
神社と自治会館の間の道を奥に入ってゆくと突き当りに墓地があり、敷地の道路沿いに三基の石塔が離れ離れに立っていた。
右 庚申塔 文政6(1823)角柱型の石塔の正面、大きな文字で「庚申」塔の下部には両脇が内を向く形で座る三猿。
塔の右側面に造立年月日。その横に春如月上章申日建之。左側面には當所講中と刻まれていた。
中央 庚申塔 天明4(1784)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。足の両脇に二鶏。足元には邪鬼。青面金剛と邪鬼の顔がよく似ている。邪鬼の下には正面向きの三猿が彫られていた。
塔の左側面に七左衛門邑、右側面には造立年月日が刻まれている。
左 庚申塔 文化7(1810)角柱型の石塔の正面 日月雲の下に大きく「庚申」
塔の下部に三猿。両脇の猿は塔の角の所に内向きに彫られていた。その下の台の正面、右端に講頭とあり13名のひらがな二文字の名前。これも女人講中のようだ。
塔の左側面は無銘。右側面には造立年月日が刻まれている。