増林 林泉寺と勝林寺の石仏

 

林泉寺 越谷市増林3818


県道102号線を東に進むと道路左手、増林派出所のすぐ先に林泉寺の入り口があった。長い参道の奥に山門が見える。写真左に少しだけ写っているお堂は不動堂。参道入り口右側には二基の庚申塔が並んでいた。


右 庚申塔 寛政9(1797)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


顔のあたりに多く白カビが付着していて様子はわからない。首のあたりに斜めにひびが入り、全体に風化が著しい。足を折り曲げた大きなショケラが青面金剛に縋りつく。


足の両脇に二鶏。足元に邪鬼。その下に三猿を彫る。三猿の下の部分には上組 願主と刻まれていた。


塔の左側面は荒彫りのままで無銘。右側面には造立年月日が刻まれている。


左 庚申塔 明和5(1768)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ?持ち六臂。隣の庚申塔と同じようにこちらも風化が進み、白カビが厚くこびりついていた。


下部は同じような構成で二鶏・邪鬼・三猿を彫る。


塔の右側面に「奉造立庚申供養」


左側面に造立年月日。両側面はカビも少なく銘は読み取りやすい。


参道を進むと左側に大きな地蔵菩薩立像 嘉永2(1849)が立っていた。脇の黒い石碑によると、平成14年、斎場建築工事のため、お寺の裏の古利根川土手に立っていたこの石地蔵をこの参道脇に移したものらしい。


光背右脇「奉造立地蔵尊」その下に發起 當山開譽代。左脇に造立年月日。その下に□□萬人講。


台の正面 右に世話人とあり、大きく女講中と刻まれている。


さらに参道を進むと左側にお堂が立っていた。お堂の周りには五輪塔をはじめ古い石塔が多く並んでいる。こちらはこのあたりの有力者、関根家の墓所だそうで、お堂の中にはお地蔵さまが祀られているという。


お堂の真裏の中央付近 聖観音菩薩立像 。大きな美しい舟形の光背上部に梵字「サ」中央に与願印の聖観音菩薩立像を浮き彫り。光背右脇に「三部経百五十部供養塔」残念ながら紀年銘は見当たらなかった。


参道の右側には一般の大きな墓地が広がっている。上の地蔵堂のちょうど向かいの位置に墓地の入り口があり、入ってすぐ左側に二基の石塔が並んでいた。


左 梵字名号塔。板碑型の石塔の正面、上部に阿弥陀三尊種子。その下に梵字で「南無阿弥陀仏」紀年銘は確認できないが江戸時代初期のものだろうか。


右 地蔵菩薩立像 寛文7(1667)寛文期らしい上部に反りのある舟形の光背。梵字「カ」の下に厳粛な面立ちの地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背右脇「奉造立地蔵為菩提也念佛講」左脇に造立年月日。その下には同行二十人と刻まれていた。

 


長い参道の奥、山門の手前両側に石塔が立っていた。


山門の右 名号塔 天明4(1784)角柱型の石塔の正面、独特の書体(利剣文字)で「南無阿弥陀佛」岩槻駅南の願生寺で同じような石塔を見たことがある。右脇から下にかけて細かい文字で「この利剣文字の名号は天変地異、災害、疫病を取り除く」といった内容の願文が刻まれていた。


塔の右側面上部に「子安觀世音」その下に造立年月日。


右側面に新西國三十一番 正觀音正林山。裏面上部に上州 信州 行倒。続いて「為横死流轉忘霊皆蒙解脱也」さらに下部に願主三名の名前。餓鬼施主定使野組中と刻まれている。「横死」「流轉」「忘霊」ただごとではない。


山門の左手前には二基の同じような角柱型の石塔が並んでいた。


右 順礼標石。紀年銘は見当たらない。角柱型の石塔の正面「正観音武州順禮」塔の上部は欠けている。


右側面、増林村 林泉寺。左側面に第三十一番。裏面に「御殿境内」御殿は鷹狩りのときに徳川将軍の利用した休憩所、宿泊所のことだという。


左 新六阿弥陀標石 天明8(1788)角柱型の石塔の正面「新六阿彌陀二番」下部に林泉寺、願主 船渡村 受道。塔の両側面に渡って造立年月日が刻まれていた。


山門を入ると正面が本堂。左側に子安観音を祀る観音堂。右側が墓地になる。墓地の入り口付近に歴代住職の墓地の中、卵塔などが並ぶ奥に大型の像塔が立っていた。


阿弥陀如来立像 寛文5(1665)舟形光背に寛文期らしい堂々とした阿弥陀如来立像を浮き彫り。光背右脇「法界平等利益」続いて林泉寺住持。左脇に造立年月日。その下に開山本譽上人。林泉寺開山本譽上人の墓塔である。


参道左側の植え込みの中に徳本名号塔 文政2(1819)角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に独特の書体で「南無阿弥陀佛」台は二段になる。


裏面には鏡文字で「南無阿弥陀佛」徳本と花押まできれいに刻まれていた。


上の台の正面 念佛講中 千百餘人 並諸精霊 法名等□ 中入之。下の台の正面 右端に造立年月日。続いて武州崎玉郡新方領増林村 當山廿一世恵譽代。さらに念佛講發願主 世話人とあり数名の名前が刻まれていた。


下の台の両側面と裏面には増森村、中嶋村、弥十郎村、大吉村、大沢町、下間久里村、小林村、下赤岩村、下廣嶋村、拾壹軒村、松伏村、上赤岩村、下内川村、花田村という近隣の地名とたくさんの人の名前が刻まれている。


徳本名号塔の裏に特別に設けられた個人の墓地があった。境内に立っている案内板によると越後之国 三田崎城主之墓(関根家先祖)らしい。墓地には同じような大きさと形の五輪塔が二つ並んでいた。


右 五輪塔 万治3(1660)増林の関根氏の始祖となる心光院の供養塔。


地輪の正面に戒名。両側面に造立年月日が刻まれている。


左 五輪塔 延宝8(1680)こちらは心光院の妻である普光院の供養塔。


地輪には同じように戒名と造立年月日が刻まれていた。

 

勝林寺 越谷市増林2687


県道102号線、林泉寺の入り口から増森方面に向かって500mほど先の信号交差点を左折すると、正面突き当りに勝林寺の山門が立っていた。


山門を入ってすぐ右側、墓地の入り口に二基の石塔が並んでいる。左の馬頭観音の文字塔は昭和年間建立のもので新しい。


右 地蔵菩薩坐像 享保16(1731)優しいお顔で伏し目がちに座る。四角い台石の上に塔部、敷茄子、蓮台、坐像と重なると2mほどだろうか。


塔部正面「為五穀成熟地蔵菩薩」「為三界萬霊六親眷属」


左側面に造立年月日。右側面には西國坂東秩父札所 富士山湯殿山立山 右諸願成就供養佛也と刻まれていた。諸国順礼を果たした記念に造立されたものらしい。


山門を入って左側、参道に沿って十数基の石塔が並んでいる。


手前に六基。左端 大乗妙典回国供養塔 享保21(1736)唐破風笠付きの角柱型石塔の正面中央「奉納大乗妙典六十六部日本廻國願成就供養塔」上部両脇に天下泰平・國土安全、なかほど両脇に造立年月日。さらに右下、武州崎玉郡新方領、左下に増林村願主 外傳祖格と刻まれていた。


その隣 普門品供養塔 文政8(1825)駒型の石塔の正面中央を彫りくぼめ、その中に「普門品供養塔」両脇に造立年月日。台の正面に中組 講中と刻まれている。


続く三基の石塔は個人の墓石。右端のこの笠付きの宝筐印塔風の石塔はちょっと変わっている。宝珠を持った相輪の下に梵字が彫られた塔身部?その下に屋根型の笠があってその下は二段の基礎部?


上の段の正面右から「奉納大乗妙典 六十六部施僧 供養之所敬白」さらに願主 國室要廻。大乗妙典供養塔ということになる。左側面に正徳元年(1711)の紀年銘。右側面には須賀氏 俗名吉兵衛。下の段の正面中央「十三佛供養」両脇に明和6(1769)の紀年銘。こちらは十三仏供養塔。ふたつの違った石塔をあとから組み合わせたもののようだ。


奥のほうには六基の石塔。中央の大小三体の石地蔵とその奥の笠付き角柱型の石塔は個人の墓石だった。


左端 大乗妙典供養塔 享保16(1731)唐破風笠付きの角柱型石塔。白カビのために遠くからは文字が見えない。


中央に「奉讀誦大乗妙典一千部衆生□世了脱□所」上部両脇に造立年月日。右下に謹言、左下に當寺九世と刻まれていた。


右端 普門品供養塔 享和3(1803)角柱型の石塔の正面中央「普門品供養」塔の右側面に造立年月日。左側面に當山現住叡山敬建。


下の台の正面、右に二名の名前、世話人だろうか。続いて大川戸村、赤岩村など近隣十村の名前が刻まれている。左側面は隙間が狭く、右側面は多くが土に埋まって完全に読めないが、資料によると三つの面に合わせて26の村名が刻まれているという。当時の勝林寺が現在の越谷市、松伏町、吉川市にまたがる広範囲の地域の人々の信仰を受けていたことがわかる。

 


参道の右、本堂手前に鐘楼があり、その前に板碑と角柱型の石塔が立っていた。


左 十三仏板碑 文明4(1471)山型の頭部、二条線の下に日月。その下中央に天蓋。続いて最上段に虚空蔵菩薩の種子を大きく、その下二列に、残り十二仏を蓮華座に刻む。十二仏の間には月待供養 文明三年 逆修などの銘文が刻まれていた。


右 庚申塔 万延元年(1860)塔の正面に大きく「庚申塔」右側面に造立年月日。左側面には當山現住願主寛山臾


下部正面に足を投げ出した奔放で不ぞろいな三猿。下の台の正面には5名の名前が刻まれている。


参道左側の墓地の裏、ブロック塀の前に石塔が並んでいた。写真左側は石塔ではなくて、その台石。本来一緒にあるべき石塔と離れて積まれている。


右から 庚申塔 文政7(1824)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申」右側面に造立年月日。左側面は隣の庚申塔との隙間が狭く写真は撮れないが、増林村中組講中と刻まれていた。


その隣 庚申塔 寛政10(1798)角柱型の石塔の正面 日月雲「青面金剛」両脇に天下泰平・五穀成就。下部に大きな三猿を彫る。


資料によるとさらにその下に台があったようで、現場の左側の台石が積まれている中を探してみると、左端の横積みになった大きな台がこの庚申塔の台だった。はじめに當所庚申講中とあり十数人の名前が刻まれている。


塔の右側面 わたしバ道。左側面には造立年月日。続いて大きな字でふどう道と刻まれていた。


さらにその隣に庚申塔 天保7(1836)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」右側面に造立年月日。左側面は見えないが資料によると増林中組と刻まれているらしい。


続いて庚申塔 文化4(1807)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申堂?」両側面は隙間がなく全く見ることができない。資料によると両側面に渡って造立年が刻まれているという。また正面に三猿を彫った台がついていたらしいのだが、こちらの台は現場では確認できなかった。


左端 庚申塔 正徳4(1714)横向きに置かれていて、目の前に置かれた台石のために正面からの写真は撮れない。舟形の光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


足の両脇、白カビの中に薄く銘が見える。右脇「奉造立庚申之尊像 諸願成就之処敬白」左脇に願主中組□□とあり、その横に造立年月日が刻まれていた。


正面金剛の足元の邪鬼は正面向きで両腕をM字に張っている。その下の三猿は左右の猿が内向きに足を投げ出して座る。二鶏は見当たらなかった。