久伊豆神社南六差路 岩槻区南下新井971の南
飯塚の法華寺から南に少し歩くと東西に走る比較的広い道に出る。東に向かうと末田の永代橋方面、西に向かうと南下新井に入る。300mほど先の変則的な五差路の角に庚申塔が立っていた。この交差点から右に入り北に向かうと久伊豆神社、左に曲がると笹久保方面になる。
庚申塔 元治2(1865)塔の正面 日月雲の下、中央に「庚申塔」両脇に天下泰平・五穀成就と刻まれている。下の台には正三角形の構図に素朴な三猿。
塔の右側面は風化が進み字が読みにくい。資料によると此方 いわつき二十丁とあるという。中央おぼろげに見えているのは「此方」のようだが、その下は判然としない。
塔の左側面は比較的きれいだ。中央に此方、その下は三つに分かれ、のじま地蔵 二十丁、大戸第六天 拾五丁、越ヶや 二里半。下の台には二十近い名前が刻まれている。
気が付いてみると裏面にも此方 のミち と小さな字で刻まれていた。
庚申塚 岩槻区南下新井999南
文字庚申塔の立つ変則五差路の交差点を西に向かって直進すると。道なりに大きく右にカーブして北へ向かうことになる。すぐ先の道路右側に庚申塚があった。小堂の中に四基の石塔が見える。左端は寛政6年の普門品供養塔 、残りの三基が庚申塔だった。
右から 庚申塔 享保19(1734)二段の台の上に駒形の庚申塔。彫りは深く鮮明だ。
塔の正面を彫り窪め、その上に日月雲、中に青面金剛立像 合掌型六臂。頭頂部が平らな独特の髪型、ドクロの首輪、上下に直角に曲がった後ろの二組の腕などの特徴は、「川口型」だが、後上手に大きなショケラを持ち「岩槻型」の特徴も併せ持っている。さいたま市、川口市で見た「川口型」庚申塔は
享保4(1719)~宝暦11年(1761)の造立だった。この庚申塔はほぼ同時期のものと言える。一方「岩槻型」はこれまで見た中では元禄期あたりの造立が多く、加倉の久伊豆神社の享保13(1728)が最新のものだった。このあたりの事情についてはあとでまとめて考察してみたい。
「岩槻型」ではM字型の正面向きの邪鬼とやはり正面向きの三猿という形が多いが、この庚申塔では足下の邪鬼は頭が左で、その下の三猿は両脇の二猿が内を向き足を投げ出し、邪鬼と三猿の間にしっかりと二鶏が彫られていた。この構図は「川口型」の定番といえる。三猿の下、上の台の正面中央に講中とあり、その下にひらがなで十数個の名前が刻まれていた。
塔の右側面に造立年月日。左側面には「奉造立庚申供養塔」その右下に下新井村と刻まれている。
その隣 庚申塔 明和7(1770)粗削りな仕上げの角柱型庚申塔。台の正面、正確には読み取れないが、数人の名前が刻まれているようだ。
塔の正面中央に「庚申塔」右脇に造立年月日。左脇には武州埼玉郡下新井村と刻まれていた。
続いて 庚申塔 元禄7(1694)高さ1mあまりの比較的大きな角柱型の像塔。石質のためだろうか、表面が丸くあいまいな印象を受ける。中央を凝った形に彫り窪め、上に日月雲、中に青面金剛立像 合掌型六臂。後上左手にショケラを持つ「岩槻型」足下の邪鬼は正面向きのM字型。三猿も正面向き。二鶏は見当たらない。
塔の左側面 上部に「奉祝」その下は二行に渡って「現世安穏・後生善所・地久天長・天下太平」
右側面 中央に「奉供養庚申像諸願成就所」右脇、かなり小さい字で読みにくいが武州埼玉郡岩筑領下新井村、左脇には造立年月日が刻まれていた。
和土小学校東路傍 岩槻区黒谷905向かい
和土小学校の南を通る道を東に150mほど歩くと道路左側、バス停の脇に石塔が立っていた。周りを木々に囲まれ、奥のほうにポツンと立っているので見逃しやすい。
山王大権現塔 宝暦6(1756)塔の正面に「山王大権現」その下両脇に二鶏。さらにその下に三猿を彫る。庚申塔に三猿は一般的だが、山王信仰において猿は神使とされ、このような山王信仰と庚申信仰が結びついた石塔をいろいろなところで見ることができる。
塔の右側面 上部に造立年、その下に施主として六名の名前が刻まれ、左側面にも同じく六名の名前が刻まれていた。
黒谷久伊豆神社 岩槻区黒谷1844
和土小学校の東400mほどの道路左側に久伊豆神社がある。一の鳥居のすぐ手前、参道右脇に石塔が立っていた。
猿田彦大神塔 大正7(1918)脇に「甲申様」と書かれた立て札がある。塔の正面「猿田彦大神」その両脇に文字が見えるがカビの中でうまく読み取れなかった。
下部に「み申 きか申 いハ申」とあり、文字で三猿を表したもののようだ。これも庚申塔の一つのあり方なのだろう。
塔の右側面「和土村指定村社久伊豆大神」左側面には造立年月日。その下に崇敬者中と刻まれていた。裏面にも多く文字が見えるが白カビが多く読み取りにくい。中央に「南埼玉郡和土村大字黒谷」まわりの文字は地名らしい。かすかに三里などと見え、道標の役割を果たしていたのだろう。
光善院 岩槻区黒谷1853
黒谷にある和土小学校の東、久伊豆神社の隣に光善院の墓地がある。入口左のブロック塀の裏に石塔が並んでいた。
入口近く 庚申塔 明治4(1871)塔の正面に大きく「庚申塔」
塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。その下に村中安全と刻まれている。
その右に庚申塔 享保4(1719)角柱型の石塔で上部に笠があった痕跡がある。日月雲に続き正面を彫り窪めた中に合掌型六臂の青面金剛立像 。白カビが多く顔などの様子はよくわからない。足下に邪鬼は頭を左にしてうずくまり、その下に正面向きの三猿。二鶏の姿は見当たらなかった。
塔の左側面に造立年月日。その下 庚申待講中、黒谷邑女中都合三十八人。右側面は状態が悪く判読が難しい。資料によると「奉造立供養青面金剛像一躯為二世安樂也 結主敬白」と刻まれているという。
その奥 庚申塔 宝暦12(1762)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。足下に邪鬼と両側の猿が内を向く構図の三猿。やはり二鶏はいない。
両側面も白カビに覆われていた。左側面、上部に薄く造立年月日。その下は名前のようだがはっきりしない。右側面はさらに厳しい状態で文字らしきものは見えるが判読はできなかった。
野孫神社西の黒谷宅地 岩槻区黒谷2230北
笹久保通りを越えた先も一部は黒谷になる。野孫神社から西に向かって歩いてゆくと小さな川を越え、その先にある用水路の向こうで道は左にカーブしてゆく。このカーブの所にある住宅の庭に庚申塔が立っていた。
庚申塔 元禄14(1701)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。大きな駒形の庚申塔。個人宅にあるものだが風化が少なく彫りもくっきりと残っていて美しい。
しかめ面をした三眼の青面金剛は首にドクロの首輪をかけている。光背右「奉寄進庚申待二世安樂」光背左に造立年月日。
足の両脇にきれいな二鶏。足下にぬらりひょんのような邪鬼。正面向きの三猿は彫りが細かい。三猿の下の部分には「おたけ」から始まり十一人の名前が刻まれていた。
地蔵院 岩槻区笹久保1837
県道214号線の笹久保交差点から県道324号線に入り北へ200mほど行くと道路左側に地蔵院の入り口がある。奥に進むと右手にたくさんの石塔が並んでいた。最前列に五基、その後ろの十基ほどの石仏の中に庚申塔が見える。
庚申塔 正徳4(1714)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。後ろ下の右手に小さなショケラを持つ変則的な構図の「岩槻型」ショケラは足を折り合掌していた。
「岩槻型」の邪鬼はM字型に腕を張った正面向きが定番だが、ここではのっぺりとした邪鬼が頭を左にしてうずくまる姿で彫られている。足下。その両脇は二鶏か?下に正面向きの三猿。さらにその下の部分には施主とあり、六名の名前。左端に笹久保村と刻まれていた。
塔の左側面に造立年月日。その下に数人の名前。右側面「奉造立庚申像一躯為二世安樂也」その下には六名の名前が刻まれている。
地蔵堂 岩槻区笹久保950付近
笹久保交差点から県道324号線を南へみちなりに進むと、道は一度左にゆるくカーブしてその先で今度は右に大きく曲がる。曲がってすぐ、道路右側に地蔵堂がある。石階段を上ると右手に笠付の石塔、左手の墓地の前に二基の像塔が立っていた。
右手 庚申塔 享保8(1723)唐破風笠付きの角柱型。笠の一部が破損しているが、塔全体に白カビなどはほとんど見られず美しい。
日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。上左手にショケラをかかげる。邪鬼は正面向きM字型。その下に正面向きの三猿と二鶏が彫られている。彫りはクリアで驚くほどはっきりしている。
塔の右側面中央に「奉供養庚申像為二世安樂也」両脇に造立年月日。
左側面上部に「自他増進佛道」右に笹久保村願主とあり、その下に得翁願入沙弥。続いて講中三拾四人、村中四拾六人と刻まれていた。
光秀寺西路傍 岩槻区笹久保1付近
県道324号線をさらに美園方面に向かって進む。長い坂道を下りきったあたりで尾ヶ崎に入るが、そのすぐ手前、道路左側の空き地の中に小堂が立っていた。写真左の道路は県道324号線。写真右上、高い所に光秀寺の墓地が見える。
小堂の中には四基の石仏。右から2番目 庚申塔 安永6(1777)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。風化が進み、塔の表面全体に丸みを帯びていて、像の様子も今一つはっきりしない。ブルドッグのような邪鬼の下に三猿。中央の猿は正面向き、両側の猿は中を向いている?邪鬼と三猿の間、両脇が二鶏だろうか?
塔の右側面に造立年月日。左側面に尾ヶ崎村講中と刻まれていた。
塔の右側面に造立年月日。左側面に尾ヶ崎村講中と刻まれていた。