鷲宮神社 岩槻区末田1966



末田交差点のすぐ東にある鷲宮神社。その東脇を通る細い道に向いて庚申塔 寛延3(1750)が立っていた。正面上部両脇に日月雲。青面金剛立像 合掌型六臂。その表情も立ち姿もどこか穏やかで全体に平板な印象を受ける。足の両脇に二鶏、足下にM字型に腕を張った邪鬼。「岩槻型」では胸から上だけのM字型の邪鬼をよく見かけるが、ここでは下半身も彫られていた。塔は深く埋まっていて、三猿は土の中だろう。



塔の右側面「奉建立庚申供養」続いて天下泰平・國土安全。左側面には造立年月日。その脇に末田中組施主女貮拾六人と刻まれている。

人巻集会所 岩槻区末田1257



しらこばと水上公園の北にある越谷西高校の脇を流れる用水路沿いの道を県道48号線方面に向かう。公園の入口から500mほど先の信号交差点の左角に集会所があり、その前に五基の石塔が並んでいた。左の三基が庚申塔。



左から庚申塔 慶応2(1866)角柱型の石塔の正面、日月雲の下に大きく「庚申」下の台は土の中に深く埋まっていて中央に聞か猿だけが見える。多分その下に残りの猿も彫られているのだろう。また聞か猿の両脇は二鶏のようにも見えるのだが今一つはっきりしない。台の両側面に刻まれている多くの名前も、その上の部分だけが見えていて全体を読むことはできなかった。



塔の右側面に造立年月日。左側面には天下泰平・國土安穏・五穀成就・災厲不起と刻まれている。



その隣 庚申塔 享保6(1721)唐破風笠付の角柱型の石塔。カビも少なく美しい状態を保っている。日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。いかつい顔の青面金剛はドクロの首輪をしていた。



青面金剛の足下、悪相の邪鬼は頭を右向きに這いつくばり、下の台の三猿は半ば土の中に埋まっている。



塔の左側面に造立年月日。その下に四名の名前。右側面には「奉建立庚申供養」こちらも下部に四名の名前が刻まれていた。



続いて庚申塔 享和4(1804)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。頭の後ろに輪光背を負う。足下には頭を右にした丸い邪鬼。下の台の両脇に二鶏。真ん中に見えているのは三猿のうちの中央の猿の頭部だろう。



塔の左側面 中央に「青面金剛」とあり、その下に七名の名前。右側面にも「青面金剛」とあるがこちらはその両脇に造立年月日を刻む。その下に願主、続いてやはり七名の名前が刻まれていた。

 

高曽根公民館 岩槻区高曽根1232



笹久保通りを末田方面に向かい、県道48号線の末田交差点の300mほど手前、左側に薬師堂があり、その脇に多くの石塔が立っていた。



前列に十三基、後列に十基、合わせて二十三基の石塔。前列左側には卵塔や墓石が集まり、右端の四基が庚申塔の文字塔だった。



四基の駒角型の庚申塔のうち左の三基は造立年が同じで形も大きさも文字もとても良く似ている。いずれも隣の石塔との隙間が狭く、側面の銘が確認できない。左から庚申塔 文久3((1863)塔の正面上部に日月雲。その下に「庚申塔」脇には天下太平・村内安全。ここまでの構成は三基とも全く同一になっている。下部中央に いハつき 一り。両脇に高曽根村講中と刻まれていた。側面の銘は資料による。右側面に造立年月日。その下に戸井 一り、大宮 三り。左側面に第六天七丁、地蔵村 十二丁、こしがや おふさわ 二里。



その隣 庚申塔 文久3(1863)正面上部は隣と同じ構成。下部に戸井 一り、大宮 三りと刻まれている。右側面に造立年月日。その下には高曽根村講中。左側面 第六天八丁、地蔵村 十二丁、こしがや おふさわ 二り。第六天への距離だけが変わっている。




続いて庚申塔 文久3(1863)これも正面の上部は一緒だが、こちらは日月の上半分が欠けていた。下部には大門 一り半、草加 四り、釣上 一り。右側面に造立年月日、高曽根村講中。左側面 いハつき 一り、大六天 十五丁。こちらも大六天だけ距離が変わっている。この三基の庚申塔は高曽根村内にどんな配置で立っていたのだろうか?



右端の庚申塔は他の三基とその高さが違っていて、紀年銘が見当たらなかった。正面上部の構成は三基と同じ。下部中央に高曽根講中。右脇に戸井 一り、大宮三り。右側面 大門へ一り半、草加へ四り。左側面 第六天十丁、地蔵村尊 十二丁、こしがや おふさわ 二り。四基とも道標としてしっかりとその役割を果たしていたのだろうが、里程が微妙に違っているのが面白い。



後列は左から墓石が三基並び、そのあとに四基の庚申塔。左から庚申塔 寛政5(1793)角柱型の石塔の正面を彫り窪めた中に日月雲 青面金剛立像 鈴・ショケラ持ち六臂。塔の右側面に造立年月日。台の正面には當村講中と刻まれていた。



彫りは細かく曲線的。炎のように逆巻く髪の中に見えるのはドクロか?三眼の青面金剛は右手に剣ではなく鈴を持っている。肩のあたりに羽衣のようなものをまとう。寛政期らしく衣服の裾が跳ね上がっている。



足下に丸い顔の邪鬼。正面向きで両手で青面金剛を支え、両足を前に出して踏ん張っている。その両脇に小さな二鶏。下部の三猿は左の見猿だけ中を向いていた。



その隣 庚申塔 享保3(1718)大きな唐破風付の角柱型。正面 日月雲 青面金剛立像 六臂。



丸顔の青面金剛は右手に鈴、左手には数珠のようなものを持っている。二鶏もずいぶん高い位置に彫られ、これも変わっている。



足下の邪鬼は人間のように手足が長く、あまり邪鬼らしく見えない。その下には左右の猿が内を向く構図で大きな三猿が彫られていた。



塔の右側面「奉造立青面金剛為二世安樂也」その下に造立年月日。左側面には高曽根村庚申供養講中貮百三十四人と刻まれている。そんなに大きな村とも思えないが、234人という講員数はずいぶんと多い。



続いて庚申塔 文化12(1815)角柱型。日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。江戸時代後期の細密な彫りの青面金剛。



高く結い上げた髪は先が右に曲がり、その中にドクロが見える。獅子のような大きな邪鬼を踏み、一番下の両脇に二鶏が彫られていた。


  
台は二段になっていて、上の台の正面に三猿、下の台に多くの名前が刻まれている。



塔の右側面に造立年月日。左側面は高曾根村講中と刻まれていた。



四基目の庚申塔は三猿付きの文字塔 安政2(1855)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」両脇に天下泰平・村内安全。上の台の正面に三猿。下の台の正面に當所講中。その両側面には多くの名前が刻まれている。



三猿はハッピ?を着ていて、両端の猿は外を向く。左の見猿は右手に桃を持ち、中央の聞か猿は左手で耳をふさぎ、右手には扇を持つ。右の言わ猿は左手を口にあて右手を前に突き出している。岩槻らしくユニークな三猿が楽しい。



塔の右側面に造立年月日。左側面には武蔵國埼玉郡高曽根邑と刻まれていた。



薬師堂から隣の浄音寺に向かう途中に小堂が立っていた。



小堂の中 庚申塔 正徳5(1715)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。後上の左手にショケラを掲げる「岩槻型」。頭上には蛇。光背右「奉供養青面金剛二世安樂所也」光背左脇に造立年月日。その下に願主敬白。



足下に正面向きの邪鬼と三猿。賽銭箱のために見えないが、三猿の下に二鶏がいて、その両脇に高曾根村上曾、講中二十五(人)と刻まれていた。

 

野孫神社 岩槻区野孫623



しらこばと水上公園の西400mほど、まわりは見渡す限り水田が広がる田園地帯。ぽつぽつと住宅が集まるあたりに野孫神社があった。



拝殿の右側から奥に進むと拝殿裏には石祠などが立っていて、その一角に四基の庚申塔が並んでいる。


左から庚申塔 嘉永7(1854)角柱型の石塔の正面、日月雲「庚申塔」両脇に天下泰平・國土安全。




塔の右側面に造立年月日。左側面上部に講中とあり、その下に野嶋村 孫十郎村。



下の台は二段になっているが下の台の正面に三十人ほどの名前、左側面に野嶋村世話人三名の名前が刻まれていた。



その隣 庚申塔 文化9(1812)角柱型の石塔の正面、やはり日月雲の下「庚申塔」両脇に天下泰平・日月晴明。下の台の正面に三猿が彫られているが左右の猿が外を向く形は少数派だろう。



塔の右側面に造立年月日。左側面 野嶌村 講中 三拾人、孫十良村(講中)五人、さらに世話人 四人とあり、それぞれの氏名が刻まれていた。



下の台の左側面にもいくつか名前らしきものが見える。施主名だろうか。

 

続いて庚申塔 天保2(1831)角柱型の石塔の正面、日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。彫りは細かく写実的。三角形の髪型で、裾の跳ね上がった衣装をまとった力士像のような青面金剛。



足下に狛犬のような顔をした邪鬼。下の台の正面に彫られた三猿は隣の庚申塔の三猿同様、左右の猿が外を向く。



塔の右側面に天下泰平・國土安全。左側面には造立年月日。その脇に野嶋村と刻まれていた。



三猿の彫られた台の両側面、下部に小さな字でそれぞれ十数名の名前が刻まれている。その多くはひらがな二文字で女性が中心の講かもしれない。



右端 庚申塔 宝永5(1708)舟形光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。ここの四基の庚申塔の中では最も古く、中央部は白カビが目立つ。



顔をつぶされた青面金剛、上左手にショケラをかかげる「岩槻型」。光背上部両脇に造立年月日、左下に野島方と刻まれていた。両側面の下部にはそれぞれ数名の名前が刻まれている。



足下の邪鬼は正面向き。その下にやはり正面向きの三猿。その両脇に二鶏という「岩槻型」構図。

野孫神社北東の畑 岩槻区野孫936北



野孫神社の前の道を東に進み、すぐの交差点を左に折れて100mほど先、右手の角の畑の中に庚申塔が立っている。



庚申塔 正徳3(1713)駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。路傍にあったためだろう、塔は厚く白カビに覆われ、下の台の文字も風化がすすみ読みにくい。



足を折り曲げたショケラ。光背右に「奉納庚申供養」左下に造立年月日。さらにその下に孫十良新田と刻む。邪鬼は大きめ、うずくまりながら様子をうかがっている。その下に正面向きの三猿。二鶏は見当たらなかった。

野孫神社北の細道 岩槻区野孫523付近



 北に歩き道を横切り、少しずれた形でさらに北に向かうと、すぐ右手に石地蔵が立っている。その少し先、右手に入る細い砂利道があり、奥の左側に石塔が立っているのが見えた。



庚申塔 元禄13(1700)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。上左手にショケラを持つ「岩槻型」。青面金剛の頭の上、真ん中に蛇が見えるが、変わった髪型、あるいは被り物か?光背上部両脇に造立年月日。



足の両脇に比較的はっきりとした二鶏。邪鬼は正面向きM字型。青面金剛と同じような顔つき。その下の三猿も正面向き。三猿の下の部分に七名の名前が刻まれていた。