イオン西路傍 中央区新中里1-5[地図]
イオンの西の出入口前の道を西に進むと、すぐ先の道路右側に小堂が立っていた。
馬頭観音塔
寛政元年(1789)舟形光背に忿怒相六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。光背の縁は欠け、顔はつぶれている。三眼か?頭上の馬頭はくっきり。斧・法輪・剣・数珠を持つ。光背左下に造立年月日。足元の部分に大戸村中と刻まれていた。
弘法尊院 中央区新中里3-5-29[地図]
国道17号線二度栗山交差点を左折、100ほど先の左に弘法尊院がある。その歴史は比較的新しく、明治35年に大師ゆかりの二度栗山霊場後に、信徒を代表して井原氏はじめ七名が連名で埼玉県知事に「寺院創立願」を提出、翌36年廃寺となった大阪の極楽寺を移し「弘法尊院」としたものだという。本堂東に四国移霊場供養塔群、修行姿の弘法大師像を頂点に、周りに四国八十八箇所霊場の供養塔をぐるりと並べたもので、その紀年銘は文久2年から大正5年に渡っていて、慶応3年と4年だけで過半数を占めていた。開山が明治36年なので、他の場所からまとめて移し祀ったものなのだろう。
その近くに二基の大きな石塔が並んでいた。
左 開山塔
大正13(1924)三段の四角い台の上に角柱型の石塔。上部に両界大日如来坐像、その下に弘法大師坐像。その脇に弘法尊院創立開山とあり井原氏の名前が刻まれている。
右 弘法大師供養塔
造立年不明。角柱型の石塔の正面、梵字「カーン」の下に「南無大師遍照金剛」台の正面に「二度栗山」側面に30あまりの村の名前が刻まれていた。
常盤中学校西路傍 中央区新中里5-6[地図]
常盤中学校の西の住宅街の中、電信柱の脇に北向きに石塔が立っていた。アプローチは国道17号線の中里北交差点から東に向かい突き当りの公園前のT字路を左折、すぐ次の交差点をまた左折した先。両脇を壁に挟まれていてうっかり見逃しやすい。
庚申塔 享保5(1720)四角い台の上に角柱型の石塔。上部を駒型にして日月雲
青面金剛坐像 合掌型六臂。新大宮バイパスの上峰交差点によく似た庚申塔がたっている。
頭上に蛇をいただき三眼忿怒相の青面金剛。矛・法輪・鏑矢・弓を持つ後ろの腕が合掌する前の腕よりも短めでややアンバランス。
下部正面中央に「奉造立庚申供養塔」両脇に天下和順・日月清明。下部に三猿、両脇の猿は内を向き足を投げ出して座っていた。
台の正面には、右から中里邑、施主、講中九人と刻まれている。
塔の左側面は壁が迫っていて写真は撮れないが、是より南
うらわみち、右側面に造立年月日。続いて是より北 よの町みち と刻まれていた。
大日堂 中央区新中里4-17-21[地図]
国道17号線の下落合南交差点のすぐ北、道路西側に大日堂の入口がある。階段の向こうに大日堂が立っていた。
階段を上ると参道左側の小堂の中 六地蔵菩薩塔
紀年銘はなく造立年不明。境内は最近整備されたものらしい。丸彫りの六地蔵の尊顔はそろっていて美しい。
よく見ると蓮台から上の部分と下の台の石材が違っていた。台はともかく、像はそれなりに古いものと思われる。
その隣 大日如来坐像
元禄16(1703)四角い台の上に反花付き台、分厚い敷茄子に蓮台を重ね、その上に宝冠をかぶった胎蔵界大日如来坐像。経年のためだろうか、尊顔は損傷がはげしく歪んでいる。
厚い敷茄子の右側面に造立年月日。左側面に念佛講と刻まれていた。
本堂の左手前に小堂が西向きに立っている。
丸彫りの地蔵菩薩立像
造立年不明。台が六地蔵の台と同じ石材で、一緒に補修されたものだろうか。尊顔は穏やかで微笑みを浮かべている。
参道の左側一帯に墓地が広がっていた。国道側の一部は空きスペースになっていて、南側のブロック塀の前に石塔が一列に並んでいる。
右から不明塔。上部に梵字「ア」右脇に勇光□□、中央は剥落のためよみとれず。戒名らしい銘もないので墓石ではなくなにかの供養塔かもしれない。
その隣
千手観音立像?造立年不明。菩薩形で八臂像ということから千手観音か?前手は合掌、後の手は上は軍配に三叉棒?中の両手は開き、下の両手は握る。塔の真ん中に断裂跡。上部に御詠歌がきざまれていた。
続いて丸彫りの地蔵菩薩立像
造立年不明。宝珠を欠き、首に大きな補修跡がある。後補された頭部も破損、ゾンビのようだ。
その隣 念仏供養塔
宝暦3(1753)四角い台の上、舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。全体に白カビが多く顔もはっきりしない。
頭上に梵字「カ」光背右脇に「念佛供養塔」その下に中里村願主。左脇に造立年月日。その下に守僊並(?)講中と刻まれていた。
つづいて光明真言供養塔
明和2(1765)大きな四角い台の上の舟形光背に浮き彫りされた二臂の如意輪観音坐像。
細長い舟形光背の右脇に「光明真言供養塔」左脇に造立年月日。
坐像の下の部分、左右に中里村
施主敬白。中央に治兵衛と刻まれている。続く二基の石塔は墓石。
石仏群の裏、ブロック塀のすぐ近くに石材が積まれていた。ふと見るとその中に六基の角柱型の石塔が並んでいる。どうやらこれらは参道脇にあった六地蔵塔の石塔部らしい。右から「爲現當二世安樂也」「念佛講中」「助力村々」「寛政九丁巳天十一月吉祥日」「武州足立郡中里村」「願主
吉田紋右衛門 領主忠□□」六基ともに大きな破損もなく美しい状態を保っていて、なぜこの石塔部も一緒に再建しなかったのだろうか?不思議だ。