満福寺 北区日進町2-1003[地図]
日進駅南口から駅前通りを南に進むと、600mほど先、左手に日進小学校、その向かいに満福寺の山門が立っていた。山門右脇に大きな寺標、左脇には六地蔵塔が並ぶが、こちらは新しい。10年前に訪問したときには、山門脇の塀の裏に庚申塔があって記事にしたのだが、何年か経って再訪したときには見当たらず、本堂の裏の墓地まで探したがどうしてもみつからなかった。その後、「庚申塔ハンター」TATSUさんから移動先について情報をいただき、やっと今回再会することができた。(TATSUさんのブログはこちら)
満福寺の墓地は本堂左側から始まって、本堂の裏一帯、さらに本堂の右奥まで、本堂を取り囲むように三方に広がっていた。本堂の右奥、庫裏の裏側に石碑が祀られた塚があって、その前に二基の大きな丸彫りの地蔵菩薩塔が立っている。向かって右の地蔵菩薩塔の近くに石塔が立っていた。
庚申塔 宝暦10(1760)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像
剣・ショケラ持ち六臂。頭上で日天月天は瑞雲でつながっている。
青面金剛の髪の間に見える「こぶこぶ」は何だろう?十一面観音の頭上の仏面に似ているような気もするが気のせいか・・・ショケラは足を深く折り曲げ合掌していた。四臂の持物は矛・法輪・弓・矢。全体に白カビが多い。
足の両脇に二鶏を半浮き彫り。足元の邪鬼の姿勢がちょっとユニーク。いままで見た限り、腹ばいで腰と肩を踏まれていても、両手を張って顔だけ上げて、できたら正面をにらむ、そんな邪鬼が多かった、この邪鬼は右手があごの下にあり、両手を張って顔を上げることもせず、顔を横にして地面に伏せる、なんとも弱気な姿。体だけは大きく立派なのだが・・・その下に三猿。中央の正面向きの言わ猿は高い位置に、両脇の内を向いて座る見猿・聞か猿はやや低い位置に彫られ、ほぼ正三角形の構図になっていた。
塔の右側面に造立年月日。このアングルから見るとショケラも立体的で様子がわかりやすい。
左側面に奈良瀬戸村講中三十二人。その下に願主一名の名前。奈良瀬戸村と言えば現在の宮原駅の西あたりのはず。どういった経緯でここに移されてきたのだろうか?
塚の前に並ぶ二基の丸彫りの地蔵菩薩塔。両者同じような規模で構造も同じ、バランスも良く「お前立ち」としてセットのように見える。
左 法華千部供養塔
享保16(1731)反花付き台の上の角柱型の石塔に蓮台付きの地蔵菩薩塔を載せて全高3mほど、やはり享保期の大地蔵菩薩塔である。丸彫りであるが錫杖・宝珠ともに健在、白カビも少ない。
角柱型の石塔の正面
梵字「ア」の下に二つの戒名。左側面に延命地蔵菩薩経の偈文。
右側面中央に「奉讀誦法華千部供養塔」右脇に法印権大僧都賢宥、左脇に法印権大僧都賢秀と刻まれていた。法華経千部を二人の僧が読誦したのだろう。
塔の裏面に造立年月日。続いて武州足立郡加村
東光寺住□□代。東光寺は満福寺の末寺だった寺院らしい。
右 地蔵菩薩塔
享保16(1731)左の地蔵菩薩塔と同年の造立である。全体の構造も同じで、やはり大きな欠損はないが、こちらは像にカビがうっすらと掛かり白くなっていた。
角柱型の石塔の正面に延命地蔵菩薩経の偈文。左側面に回向文。
塔の右側面に造立年月日。続いて武州足立郡上加村念佛講中と刻まれている。あるいはこちらは念仏供養塔とするべきか?偈文、紀年銘の文字を比べるとよく似ていて、造立年も同じことを考えると、この二基はやはりセットとして造立されたもののような気がするがどうだろうか?
日進小学校南路傍 北区日進町2-942南[地図]
満福寺の山門あたりから300mほど南に進むと、交差点北東の小さな空き地の中に石塔が立っていた。
庚申塔 元禄4(1691)きれいな形の舟形光背に日月雲 青面金剛立像
合掌型六臂。白カビはほとんど見当たらない。
顔はややつぶれている。頭上の髪の中の縄のようなものは蛇だろうか?光背上部、日月の間に「奉造立」右脇に「庚申塔所願成就祈所」左脇に造立年月日。その下に武刕足立郡上加村。
青面金剛の足の両脇に二鶏を浮き彫り。雄鶏と牝鶏が同じように右を向いているのは珍しい。足元の磐座、遠目に邪鬼の頭のように見えたがただの「こぶ」だった。その下に正面向きに並んで座る三猿。
三猿の下の部分、右のほうに願主とあり、続いて十名の名前が刻まれている。
氷川神社 北区日進町1-556[地図]
自衛隊大宮駐屯地の北東の角、日進一丁目交差点は五差路になっている。この信号交差点からまっすぐ北へ向かう道は「与野道」で「加村往還」とも呼ばれる古道らしい。200mほど北、信号交差点の少し手前の交差点を左折して路地を西に進むと右手に氷川神社があった。境内の右手前、道路沿いに小堂が立っている。
小堂の中 山王大権現塔
延宝8(1680)四角い台の上に唐破風笠付き角柱型の石塔。銘は極めて薄く、何回挑戦してみても完全に読み取ることはできなかった。
塔の正面
梵字「アーンク」の下に「奉造立山王大権現塔□□□□□」両脇に造立年月日。
下部に蓮華が彫られ、そのすぐ下に大きな断裂跡が残る、さらに最下部には両脇の二猿が内を向く構図の三猿が彫られていた。三猿の存在=庚申塔という見方もできるが、神仏習合によって山王権現と呼ばれる山王はもともと日吉大社の神で、その日吉大社では猿を神使いとするらしい。猿田彦大神塔とともに庚申信仰との関わりが考えられるが、銘の中に「庚申」とある場合は別にしても、そのあたりのとらえ方は難しい問題だと思う。
塔の右側面中央に「南無阿弥陀佛」その下に六名の名前。なぜ、ここで「南無阿弥陀佛」まで出てくるのかよくわからない。左側面も全く同じ、ただ彫りが薄く目視はできるが写真は撮れなかった。
金剛院 北区日進町1-758[地図]
日進一丁目交差点の400mほど北、信号交差点を左折して西へ進むと住宅街の中に金剛院がある。新しい山門からよく整備された境内に入ると、イチョウ、カヤノキ、シイノキ、タブノキの大木が並んでいた。いずれも樹齢300年を超える古木だという。
本堂の左側が墓地になっていて、その入り口近く、塀の前に石塔が並んでいた。
右から2番目 庚申塔
延享5(1748)四角い台の上に背の高い板駒型の石塔、下部に三猿。
塔の正面を彫りくぼめた中、日月雲 梵字「ウーン」の下に「青面金剛供養塔」上部両脇に天下
泰平。続いて両脇に造立年月日。
右下に講中 十六人 惣村中。左下に下加村導師金剛院。
下部の三猿は満福寺の庚申塔に続いてほぼ正三角形の構図。左の聞か猿は右足を折り曲げ左足を投げ出してやや内を向いて腰掛け、右の見猿は内を向いて体育座り、ちょっと変化をつけていて面白い。
地蔵堂 北区日進町2-1623[地図]
JR川越線を越えて北へ進む。最初の交差点を右折すると日進駅北口へ、次の交差点を右折してしばらく先、左手の住宅の間の路地の先に地蔵堂の入口があった。
境内に入ると参道右側に小堂が立ち、その周辺に石塔が並んでいる。
手前 百観音霊場供養塔
文化12(1815)願主は個人の名前が刻まれていた。
小堂の中 地蔵菩薩塔
享保11(1727)反花付きの台の上の角柱型の石塔に、大きな蓮台に座る地蔵菩薩像。石塔の正面に童子戒名が刻まれていて、こちらも個人の墓石らしい。村の有力な家のものだろう。
その隣 大乗妙典供養塔
享保8(1724)四角い台の上の角柱型の石塔の正面に「奉納大乗妙典六十六部供養塔」上部両脇に天下泰平 日月清明。右下に造立年月日。左下に武刕足立郡上加村願主とあり一名の名前。
塔の左側面に「三界萬霊平等利益」右側面に「十方諸天善神三宝供養」裏面に「南無阿弥陀佛」と刻まれていた。
お堂の左の墓地の入口に奇妙な形の石塔が立っている。
筆子塔
明治35(1902)鋭角的なフォルムの片岩の正面に「菅原神社前神主安田蔵人霊」
下の角柱型の石塔の正面に「筆子中」両側面にそれぞれ十数名の名前が刻まれていた。恩師供養のために造立された「筆子塔」である。江戸時代、多くの寺で寺子屋が開かれ、村人たちに読み書きソロバンを教えたようだ、いろいろなところで亡くなった先生のために造立された「筆子塔」を見かけるが、お寺の住職が先生というのが普通で神主の先生というのは珍しい。
右側面に明治三庚午天四月朔日没 享年五十一才。
左側面に造立年月日。祭主
安田□□。お孫さんだろうか。
入口右脇の扉の陰に小型の石塔が立っていた。
六十六部供養塔
寛政4(1792)駒型の石塔の正面に「六十六部供養塔」両脇に造立年月日。
右側面に丹後宮津領岩瀧組之内、
菅河村 願主 小平次。施主
友右衛門。小平次と言えば西区植田谷本村の藤橋を石橋に架け変えた丹後出身の回国行者である。石橋の完成が寛政8年だから、それ以前のこの地に住んでいたことがわかる。藤橋の六部堂に立つ石橋供養塔には助力として百近い村の名前が刻まれていたが、その多くの村を回国行者小平次が托鉢して回ったのだろう。
日進駅北口駐車場前 北区日進町2-1739[地図]
JR川越線日進駅北口前の駐車場の一角に小堂が立っていた。
小堂の中 庚申塔 元禄16(1703)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像
羂索・ショケラ持ち六臂。
目を吊り上げた丸顔の青面金剛の頭上に蛇が首を垂れる。青面金剛は右手に剣の代わりに羂索を持っていた。たぶん初見、大変珍しい。足を折り曲げ青面金剛の腰のあたりにすがりつくショケラが妙に生々しい。胸のあたりに見えるのはドクロ?足元には風神のような?顔立ちの邪鬼が横たわる。
塔の最下部に正面向きに並んで座る三猿。邪鬼と三猿の間に銘。右から「奉造営青面金剛尊像現當
成就所」その横に造立年月日。続いて二段に、上が漢字、下がひらがなで男女合わせて十数名の名前。左端に武刕足立郡上加村庚申講結衆と刻まれていた。
小堂の裏に隠れるように二基の石塔がならんでいる。
左 馬頭観音塔
明治18(1885)駒型の石塔の正面「馬頭觀世音」右脇に造立年月日。左脇に施主は個人名。
右 猿田彦大神塔 明治26(1893)角柱型の石塔の正面
中央に「猿田彦命」右脇に造立年月日。左脇に願主は個人名。
下部に浮き彫りされた正面向きに並ぶ三猿。彫りが細かくリアルでかわいらしい。
日進駅北東路傍 北区日進町2-1821[地図]
日進駅前から東へ進んで「奈良別所通り」を左折、北へ250mほど進むと道路左側に小堂が立っていた。
小堂の中 庚申塔 宝暦4(1754)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像
剣・ショケラ持ち六臂・
風化が進みはっきりしないが青面金剛の頭のこぶこぶは何だろう?顔はつぶれていた。
足の両脇に二鶏を半浮き彫り。こちらもはっきりしない。足元に邪鬼。その下に三猿。両脇の見猿・聞か猿は内を向く。正面の言わ猿は御幣を肩に正面向き。このあたりも風化が著しい。
塔の右側面 武刕足立郡上加村。
下部に 東 はらいち いわつき みち。
塔の左側面中央「奉供養庚申講」その下に廣□邑仲。左脇に造立年月日。さらに願主
法誉浄心と刻まれていた。
下部に南 よの 北 あげを おけがわ
みち。両側面合わせて三方向五地名が刻まれた道標になっている。
日進北小学校西住宅庭先 北区日進町3-257[地図]
日進北小学校の北西の信号交差点から西に進み、宮原駅西口から国道16号線に向かう広い道に出る。その少し先の交差点を左折、100mほど進むと、道路左側の住宅の庭先に三基の石塔が並んでいた。こちらの家の方が大切にされているのだろう、訪問時にはいつも新しい花が供えられていた。
左 庚申塔 元禄14(1701)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像
合掌型六臂。塔全体に白カビが多い。
経年のために摩耗しているが、彫りは力強くしっかりしている。頭上に蛇。像の右脇「奉造立庚申供養現當□成就所」左脇に造立年月日。足の両脇に二鶏を半浮き彫り。足元にはひしゃげた邪鬼が横たわる。
下部に正面向きの三猿。その下の部分にも銘が刻まれていた。右から武州足立郡 西谷村
遍刻□秀□ 善進浄□ 願主九人。銘は薄くなっていて自信はない。
中央 馬頭観音塔 文政8(1825)角柱型の石塔の正面
梵字「カン」の下に「馬頭觀世音菩薩」塔の右側面に造立年月日。
左側面に武州足立郡 西谷村と刻まれていた。
右 庚申塔 明和元年(1764)四角い台の上の駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像
剣・ショケラ持ち六臂。こちらも白カビが多く細部がはっきりしない。
青面金剛の頭上のこぶこぶが気になる。このあたりではこれが普通なのだろうか?白カビにまみれたショケラは深く足を折り曲げ合掌、正面を向いたその顔が笑っているようでなんだかかわいい。
足の両脇に二鶏。足元にはブルドッグのような顔立ちの二匹の邪鬼。左右がお互いにそっぽを向いているようだ。その下の三猿は正面向きに並ぶが、その座り方はまちまち。両脇の言わ猿と見猿は片手をひざに置き、片手で口、目をふさぐ。このあたりの表現はユニークで面白い。
台の正面にも銘が刻まれているが、なかば土に埋もれていて完全には読み取れない。右から武刕足(立郡) 西(谷村)
奉供(養) 庚申(塔) 講(中または衆)あとは□人か?
塔の両側面に造立年月日が刻まれていた。