南区内谷

一乗院 南区内谷3-7[地図]


県道79号線の曲本交差点から南へ200mほど、道路右側に大きな寺標が立ち、ここから西に向かうと一乗院の仁王門の前にでる。寺標と公衆電話ボックスの間に大きな丸彫りの地蔵菩薩塔が立っていた。


地蔵菩薩立像 享保14(1729)四角い台の上に角柱型の石塔。その上に厚い蓮台に立つ地蔵菩薩像。享保時代には各地でこのような2mを超す重制の丸彫り地蔵菩薩塔が多く見られる。


反花付きの角柱型の石塔の正面に「内谷村講中」右側面に造立年月日が刻まれていた。


30mほど進むと、三差路のところにまた丸彫りの地蔵菩薩塔が立っていた。二段の台を含めて全高はやはり2mを超える。


地蔵菩薩立像。紀年銘が見当たらず、残念ながら造立年は分からない。まゆを吊り上げたお地蔵様は厳しい表情を浮かべている。


大きな四角い台の正面、中央におおきく内谷村とあり、その両脇に松本村、沼影村、曲本村、大野新田、美女木村、下笹目村、早瀬、惣右衛門村と刻まれていた。近隣と合わせて九つの村が中心になって造立されたものらしい。


台の右側面、上段に13村、下段に2町10村。田嶋、西堀、新開、町谷、本宿、西蓮寺、大久保、五関、塚本、千田、中嶋の現桜区の各村。与野、浦和、2町。大戸、白幡、岸、根岸、大谷場、辻の各村の名前が刻まれている。


左側面は上段13村、下段に12村。新曽、上戸田、下戸田、横曽根、柳崎、前川、芝、引又、宗岡?水子、舘、大久保、内万木、臺根岸、宮戸、岡、八嶋、高嶋、古市場、老袋の各村。三面合わせると2町57ヶ村になる。南区、桜区、浦和区、中央区、川越市、志木市、朝霞市、川口市と、実に広い地域の人たちがこのお地蔵様の建立にかかわっていたことがわかる。それにしてもこの広域にわたるネットワーク、この時代に各地の寺院がそれだけの力とつながりを持っていたということなのだろう。


さらに進むと明和5年(1768)建立の朱塗りの仁王門がたっていた。左脇の小堂の中に六地蔵が祀られている。


丸彫りの六地蔵菩薩塔 寛政6(1794)像のサイズ、顔の表情などはよく似かよっている。


台の銘は、右から2番目に願主 曲本村 一名の名前。3番目に「法界萬霊」


右から4番目 寄付金一兩 下笹目村 一名の名前。左端に造立年月日が刻まれていた。


仁王門をくぐって左側の裏の空間に欠けた板碑が集められている。


右の壁の前 阿弥陀三尊図像板碑 明応4(1492)上部が欠けていて不完全だが、中央に阿弥陀如来、その下に観音菩薩と勢至菩薩を線刻。兩脇侍の間に「月待供養」と刻まれていた、。


仁王門をくぐってすぐ、参道右脇に石灯篭が立っている。


石灯籠 享保13(1727)四角い竿の正面に「燈架一基」右側面に十方施主。左側面に造立年月日。裏面に願主 順廻と刻まれていた。


参道の左脇に宝篋印塔 享保13(1727)が立っている。


基礎の正面に「寶篋印塔一基」その造立の趣旨は大乗妙典六十六部納經廻國供養のためと記されていた。最後に建立願主 下笹目村 □應順廻法師。石灯籠に刻まれた同じ名前、造立年も一緒で、こちらは当時の御住職だろう。


基礎の右側面 天下泰平 國土安全。開眼供養導師などが記され、左端に造立年月日。あとの二面には偈文が刻まれている。


墓地に入って奥のほうに進むと石塔が集められていた。ほとんどが墓石なのだが・・・


一番後ろ 地蔵菩薩立像 安永5(1776)宝珠は健在、錫杖は大部分が欠けていて、像容もはっきりしない。光背右脇に紀年銘が見えるが、最後が「吉日」となっていた。墓石ではないとすると供養塔か?光背の左のほうは下部が厚く銘を読み取るのは難しい。


前の石塔の上から足元の部分をのぞいてみると、中央に「念佛講中」とあり、その周りにいくつか名前が刻まれていた。どうやらこの地蔵菩薩塔は「念仏供養塔」のようだ。地蔵菩薩、聖観音菩薩、如意輪観音菩薩などは墓石としてよく使われ墓地では多く見られるが、なかにこの念仏供養塔のような講中仏もあることだろう。そのすべてを調べるとなると気が遠くなるが・・・

 

一乗院入口向い路傍 南区内谷4-18[地図]


県道79号線、享保14年の丸彫り地蔵菩薩塔の立っていた一乗院の入口の向い、路地の入口のところに小堂があった。小堂の正面には「猿田彦大神」と書かれた扁額、手前に丸彫りの白いお地蔵様が立っている。


庚申塔 元文2(1737)日月雲の彫られた大きな唐破風笠付きの角柱型の石塔の正面 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


とぐろを巻いた蛇をのせ、三眼吊り目の青面金剛。持物は矛・法輪・弓・矢。ショケラは合掌している。


足元に頭を左に全身型の邪鬼。その下両脇に二鶏を浮き彫り。その下の三猿はそれぞれの方向を向いて座り非対称の構図。ぬいぐるみのようでかわいらしい。


塔の右側面に造立年月日。左側面に内谷村講中十四人と刻まれていた。

大聖不動尊 南区内谷4-2[地図]


上の「猿田彦大神」の小堂のすぐ北、県道79号線から斜め右に分かれてゆく道があって、たぶんこちらは旧道と思われる。100mほど先、道路右側に瓦ぶきのお堂がたっていた。後ろは広い駐車スペースになっている。


お堂の右脇にポツンと丸彫りの地蔵菩薩立像が立っている。他にはなにもない殺風景ななかにあって、新しいお花が供えられていてなんだかホッとする。


本来の台を失っているためか、造立年月日等詳細はわからなかった。風化も進んでいて顔なども表情はうかがえない。それでもよく見てみると、僧衣の細部の彫りも丁寧で、足の指も豊かに力強ささえ感じた。建立時にはきっと立派なお姿だったのではないだろうか。

 

東光寺 南区内谷4-17[地図]


「猿田彦大神」の小堂の前から100mほど東の位置に東光寺がある。


入口から入って左側、手前に多くの無縁仏が積み上げられ、その奥に丸彫りの地蔵菩薩塔、さらに六地蔵、その奥に卵塔などが並んでいた。


雨除けの下 地蔵菩薩立像。四角い台の上、反花付きの台を重ね、蓮台に丸彫りの地蔵菩薩像。


風化のためだろう、錫杖の先が欠けくずれていた。首にも補修跡があり、顔はのっぺらぼう、頭部は本来のものではないのだろう。宝珠とそれを持つ左手はきれいに残っている。


台に紀年銘が見当たらず造立年などは不明。ただ正面に三つの童子、童女戒名が刻まれていた。


小堂の中 六地蔵菩薩。長細い台に丸彫りの地蔵菩薩像が三体づつ乗る。本来の台ではないためかやはり銘が見当たらず詳細は分からない。像のサイズ、彫りの様子はほぼそろっていた。


補修跡が残る頭部はいずれも損傷が甚だしく、顔の様子もはっきりしない。


その奥に 普門品供養塔 明和2(1765)角柱型の石塔の正面上部に蓮台に座る二臂の如意輪観音像を浮き彫り。その下に「奉讀誦普門品一萬巻」


塔の右側面に造立年月日。左側面に内谷村誦者十八人と刻まれていた。

 

普門寺 南区内谷5-16-3[地図]


県道79号線、一乗院の入口から南へ向かい、400mほど先の信号交差点のすぐ手前を左折すると、道路右手に普門寺の入口があった。


入口右のブロック塀の裏、本堂に向かい合うような位置に石塔が並んでいる。うち三基は住職の墓石だった。


東向きに立つ4基のうち、左端に宝篋印塔 安永9(1780)基礎正面に「念佛供養」右側面に二つの戒名。


左側面にも戒名が刻まれていて、こちらも基本的には墓石である。裏面に造立年月日が刻まれていた。


その隣 百万遍供養塔 安永5(1776)舟形光背、梵字「カ」の下に地蔵菩薩立像を浮き彫り。


瞼が腫れたお地蔵様、妙に人間くさいリアルな表情を浮かべている。光背上部両脇に天下泰平 日月清明。続いて右脇には「百万遍供養塔」左脇に造立年月日。百万遍供養というと普通は念仏供養だろう。


さらに右下に美女木村 内谷村 講中。左下に願主 是照。爲先祖菩提とあり一名の名前が刻まれていた。


続いて夏念仏供養塔 延宝5(1677)美しいフォルムの舟形光背の上部に梵字「カ」その下に丸顔の地蔵菩薩立像。彫りは厚く堂々としている。


丸顔ながら尊顔は厳粛。光背右脇「奉行夏念佛爲二世安樂也」左脇に造立年月日。


足元の部分、右から下笹目村、美女木村、曲本村、四谷村、田嶋村、沼影村、鹿手袋村、最後に内谷村と全部で八ヶ村の名前が刻まれていた。「夏念佛」は初見でどんなものかわからないが、こちらの念仏供養塔の造立には多くの人たちがかかわっていたようだ。


墓地の奥に多くの石仏が集められている。紀年銘などを調べてみると、享保期を中心に江戸時代の地蔵菩薩、聖観音菩薩、如意輪観音菩薩など像塔も數多いが、そのほとんどが戒名と命日が刻まれた墓石だった。


前列右端のこの地蔵菩薩塔、光背右脇に「奉納華見堂地蔵菩薩現世安穏後世善處爲」と刻まれていた。華御堂供養塔 元禄9(1696)大谷口、中尾、など東のほうに多く見られ、ここまで南浦和より西では見ることが無かったが、「華御堂供養塔」がここ内谷にもあった。資料にはこの石塔の記載はなく「新発見」だとするとやはりうれしい。彫りが薄くなっているが、うっすらと円形の頭光背が見える。光背左脇に造立年月日。その下も銘が薄く自信はないが道行(=同行か?)五十五人。足元の部分、左は破損していて右端に備景菩提也と刻まれていた。

松本橋東住宅前 南区内谷1-5[地図]


荒川左岸の松本あたりから荒川の土手に平行して排水路が流れている。この通称「さくら川」は笹目橋近く早瀬まで続き、その川沿いの道路は道幅のわりに多くの自動車が行き交う。この排水路に架かる「松本橋」のすぐ東、交差点の住宅の前に庚申塔が立っていた。


庚申塔 天明2(1782)笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて、日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


頭上にとぐろを巻いた蛇。持物は矛・法輪・弓・矢とスタンダードな構成。


足元の邪鬼は正面向きの上半身型。朱塗りの跡が残っていた。両手を張って口をへの字に青面金剛の重さに耐えている。その下に小型の三猿。両脇の猿が内を向く。


塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。さらに内谷村講中十七人、願主一名の名前が刻まれていた。