明花公園北東アパート 南区大谷口5559[地図]
第二産業道路沿いにある明花公園の南を見沼代用水西縁に沿って東へ進んだ先(第二産業道路は渡れないので北の信号交差点まで遠回りしてください)県道1号線の旧道の押しボタン信号交差点の北東角、アパートの外構の中に庚申塔が立っていた。
庚申塔 文化15(1818)大きな四角い台の上の駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像
剣・ショケラ持ち六臂。この時期の石仏としては珍しいことに、白カビも無く、銘も一部を除きクリアに残っていた。小堂に守られているわけでも笠付きでもない状況を考えると、これほど美しい状態を保っているのは本当に不思議な気がする。
彫りは江戸時代後期らしく技巧的・装飾的。隅々まで石工の気持ちのこもった仕事がされていた。日天・月天はたなびく瑞雲に支えれれながら塔をはみ出す。三眼の青面金剛は口をへの字に、右手に剣、左手に合掌するショケラを持つが、残念なことにこのショケラの顔は削れている。頭上には蛇がとぐろを巻き、胸にはドクロの首輪だろうか?手首に腕輪をはめ、その持物は矛・法輪・弓・矢。足の両脇に見事な二鶏が半浮き彫りされていた。
足元に大きな邪鬼が両腕を立てて力強く正面をにらむ。その下の三猿は両脇が内を向く構図。右の言わ猿はなにやら妖艶なポーズ。左手をついて座り右手だけで口を押える「片手使い」左の見猿も「片手使い」のように見える。中央の聞か猿の位置が青面金剛の足と見比べるとやや左にずれていて、見猿の頭は塔の左端からわずかにはみ出していた。
塔の左側面に造立年月日。その下に武刕足立郡 大谷口村 講中。
右側面に和讃「明王威光 衆魔降伏 功通遠近 徳益乾坤」勝手に訳せば(青面金剛明王の威光は衆魔を降伏、その功績は広くその徳は天地に渡る)くらいか。
台の正面下部に講衆だろう、二十名の名前が刻まれている。
台の右側面、ここだけ銘が薄く読みにくいが、右上に願主と見え、下は人の名前が刻まれているようだ。
台の左側面奥には武州豊嶋郡 岩淵宿 石工岩田□内。有名な長野の高遠石工や、近くは岩槻林道町の田中武兵衛など、石工名が刻まれた石仏も時には見られるが、一般的にこの種の石仏に石工名が刻まれることはそれほど多くはない。力のある赤羽岩淵宿の石工さんに仕事を依頼したということなのだろう。それだけの力作だと思う。
福聚院墓地 南区大谷口2295[地図]
武蔵野線が下を走る大谷口陸橋交差点で、第二産業道路と県道1号線の旧道がクロスする。旧道のほうに進むと、道路左側に二つの小堂が立っていた。奥の建物に「福聚院」と書かれた額がかかっているが、今は堂宇ではなく自治会館になっているようだ。その南北両側に墓地がひろがっている。
入口近くの小堂の中 地蔵菩薩立像
寛文7(1667)大きな舟形光背に厚みのある地蔵菩薩像を浮き彫り。時節柄、お地蔵様はマスクをかけている。
光背左脇に造立年月日。右脇に「爲念供養二世安樂也」念仏供養塔ということになるだろうか。
右下に敬白、施主二十五人と刻まれていた。
隣の小堂の中 六地蔵菩薩立像
宝暦10(1760)こちらも揃ってマスクをかけている。
右の三基。両脇の石塔の正面に「施主講中」真ん中の石塔の正面中央に「六地蔵新建立」右脇に施主 當村中、左脇に願主
恵舟信□と刻まれていた。
左の三基。右の二基の石塔の正面に「施主
講中」左の石塔の正面には明治30年の紀年銘。続いて二つの戒名が刻まれている。石塔の銘を見る限り、左端はあとから補われたもので、残りの5基は本来の六地蔵塔と思われる。
6基の石塔の側面には戒名と命日が刻まれている。造立年月日は右から2番目の石塔の右側面に刻まれていた。
旧安楽寺墓地 南区大谷口1827-2南[地図]
福聚院のすぐ南、右折して細い道に入る。少し進むと右手に墓地があった。
墓地の入口近く、ブロック塀の前に大乗妙典供養塔
享保17(1732)立派な宝珠をのせた唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて、その中央に「奉納大乗妙典六十六部塔」蓮台がついて、さらにその下は二段の台となっている。
塔の右側面に造立年月日。左側面には大谷口村
願主とあり、二名の名前が刻まれていた。
墓地の中央付近、雨除けの下に善光寺念仏供養塔
文化10(1813)石塔の上に石仏が乗っている。
石塔の上の阿弥陀三尊立像。来迎印の阿弥陀如来と脇侍の聖観音菩薩、勢至菩薩がそれぞれ狭い蓮台に立つ。
角柱型の石塔の正面中央に「建立供養善光寺念佛」両脇に造立年月日。
塔の左側面に偈文。右側面に講中 四十八人。続いて願主
三人の名前が刻まれていた。さらに左上に三年三月とあるがこの紀年銘はなんだろう?よくわからない。
細い道は下り坂になり、その先は第二産業道路に出る。坂を下り切ったあたり、左側にも墓地があった。入口近く、雨除けの下に石仏が見える。
聖観音菩薩立像
延宝4(1676)板碑型の石塔の正面に六角形の台に敷茄子・蓮台を重ねて、その上に聖観音立像を浮き彫り。塔の下部には大きな蓮華が彫られている。
像の右脇に戒名が刻まれていて、どうやら墓石のようだ。左脇に造立年月日。銘は薄くなっていて、合掌する観音様の尊顔もはっきりしないが、なんとなく微笑んでいるように見えた。
大谷口郵便局南三差路 南区大谷口1740東[地図]
広ケ谷戸バス停付近から県道1号線を南へ進む。大谷口郵便局のすぐ先で、斜め右にやや細い道が分かれてゆく。この三差路は空き地になっていて駒型の石塔が立っていた。
庚申塔
明和7(1770)石塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「ウン」の下に「庚申供養塔」石塔最上部に瑞雲が彫られていて、写真ではうまく見えないが日天、月天を抱いている。
塔の右側面に造立年月日。その横に従是右戸田道。
左側面に木崎領大谷口村
講中廿五人。その横に従是左千住道と刻まれていた。
明花バス停向い 南区大谷口2488南[地図]
県道1号線をさらに南に進むと右手にバスの操車場があって、ここに明花バス停がある。向いの路傍に新しい小堂が立っていた。
小堂の中 庚申塔 正徳4(1714)四角い台の上、唐破風笠付角柱型の石塔の正面 日月雲
青面金剛立像 合掌型六臂。10年前は白日の下に立っていたが、いつのまにか瓦屋根の立派な小堂に収まっていた。
経年のため像の表面は圭角がとれて丸くなっている。青面金剛の顔も今一つはっきりしない。足元の邪鬼も丸みを帯びている。
邪鬼の下に正面向きの三猿。その下の二鶏はかなり大きめ。二鶏の下に願主
講中拾三人と刻まれていた。
塔の右側面に造立年月日。その横、梵字「バク」の下に「奉供養庚申塔諸願成就攸」
左側面
武刕足立郡木崎領大谷口村。その横に是よりあかやまみち。こちらも道標になっていた。
信成院不動堂 南区大谷口2466[地図]
第二産業道路の東浦和駅西交差点から東へ入ってすぐ、道路左側に信成院の入口がある。階段を上った先、不動堂の左脇に二基の石塔が並んでいた、
左 不動明王塔 天保9(1838)駒型の石塔の正面上部を光背の形に彫りくぼめて、剣と羂索を手にした不動明王坐像を浮き彫り。風化のためか、尊顔ははっきりしない。また塔の下部は土埃がこびりついていて銘は確認できなかった。
塔の左側面は無銘。右側面に造立年。施主、願主などの情報はない。
右 庚申塔。駒型の石塔の正面 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち二臂。日天、月天もなくかなり簡略な構成。足元にあおむけに寝そべる邪鬼。三猿が見当たらないが土の中か?銘も全く見当たらない。
裏から見てみると石塔の材質、彫りの様子はよく似ていて、この二つの石塔は同時か、あるいは近い時期に造立されたものではないだろうか。
大谷口向自然緑地北路傍 南区大谷口2404付近[地図]
大谷口陸橋の東、武蔵野線の北に大谷口向自然緑地がある。その北を通る細い道の路傍に小堂が立っていた。写真右の道を下ってゆくと東浦和駅方面へ、左の道を北へ進むと信成院のあたりに出る。
小堂の中は薄暗くうっすらとお地蔵様らしき影がみえる。
華見堂供養塔 元禄14(1701)舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背は一部ギザギザになっていた。堂内が暗く光量が不十分で、シャッタースピードが遅くなりどうしてもクリアな写真は難しい。
光背右脇「奉供養華見堂二世安樂攸」左脇に造立年月日。華見堂(華御堂、花見堂などとも)供養塔はそんなにポピュラーとも言えないが、地域差があるようで、このあたりでは結構見かける。その多くは地蔵菩薩塔で、中尾神社の南の墓地の延宝3年造立の地蔵菩薩塔、中尾小学校南の墓地の中の正徳3年の地蔵菩薩塔(先日訪ねたら大きなマンションが立っていて現在は行方不明)などが思い出される。華御堂については定説はないようだが、「花まつり」というとお釈迦様の誕生を祝う行事だから、それと関連があるのではないだろうか?
光背右下に大谷口村、左下に施主 十六人と刻まれていた。
地蔵堂墓地 南区大谷口3044[地図]
第二産業道路の東浦和駅西交差点から東へ向かい、下り坂を降りきったあたり、道路左側に東中尾公園がある。その裏一帯は高台になっていて、細い道を北西へ進むと、右手階段の上に地蔵堂墓地があった。階段を上り切った左側、板碑型の墓石の横に舟形光背型の石塔が立っている。
阿弥陀如来立像 寛文12(1672)大きな舟形光背に来迎印の阿弥陀如来像を浮き彫り。光背左脇に造立年月日。
光背右脇に念佛講願主 中尾村。右下に権僧都正尊法印・・・・。左下に2つの戒名が刻まれている。
足元の部分に講員だろうか、多くの名前が刻まれていた。
地蔵堂東住宅内 南区大谷口3025[地図]
地蔵堂のすぐ南の交差点を左折し坂道を登ってゆくと、左手の家の敷地の隅に小堂が立っていた。
小堂の中には二基のほぼ同じサイズの駒型の石塔が並んでいる。
左 成田山塔 安政2(1855)フェンス付きのブロック塀に囲まれていて近づくことはできないので、望遠で撮ってみたが側面や塔の下部までは見ることはできない。正面中央に「成田山」両脇に造立年月日が刻まれていた。
右 庚申塔 安政2(1855)正面中央「庚申」右脇に造立年。左脇に此方うらわ?道標になっている。
大谷口中学校西三叉路 南区大谷口941西[地図]
大谷口は県道1号線のバス通りと県道35号線=産業道路の間の地域で、両方の道にはさまれた「谷」になっていて坂道が多い。広ケ谷戸バス停あたりから西に坂道を下った先、大谷口中学校の西の三差路のところ、雨除けの下に石塔が立っていた。写真左の道を北へ進むと日の出通り、坊の在家バス停付近に出る。
庚申塔 寛政元年(1789)二段の台の上、宝珠をのせた唐破風笠付き角柱型の石塔の正面
日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。
口をへの字にどんぐりまなこの青面金剛。頭上にとぐろを巻いた蛇を乗せ、左手にはショケラをつかむ。持物は矛・法輪・弓・矢。像の表面はやや丸みを帯びている。
風化のためだろう、左の足の膝小僧が割れていた。その両脇に二鶏を半浮き彫り。足元の邪鬼は頭が右側で、左手を伸ばして首を斜めに這いつくばっているが、悲壮感はなくふてぶてしい表情を浮かべている。
石塔をのせた台の正面に大ぶりな三猿を浮き彫り。彫りは厚く立体的。中央の聞か猿は正面向きで足を思い切り開いて座る。両脇の見猿と言わ猿は片手を後ろにつき片足を前に投げ出して座っていて、なんだか色っぽいポーズ。似たような三猿はこれまで見たことがない。実にユニークな三猿である。台の色と上の石塔の色が微妙に違っていて、もしかしたらこの台はこの庚申塔の本来の台ではないのかもしれない。
塔の左側面、上部に天下泰平・國土安穏。その下に 左 うらわ道。さらに大谷口村
細野講中と刻まれていた。
塔の右側面に造立年月日。台の上の石塔の継ぎ目はセメントで固められていて、やはり台はあとからつけたものだろうか?
日の出通り坊の在家バス停脇 南区大谷口749[地図]
浦和駅東口の南から東に向かう「日の出通り」は産業道路の太田窪北交差点を通り、さらにその先は大谷口県営住宅交差点で県道1号線に出る。産業道路と県道1号線のちょうど真ん中あたり、道路南側にある坊の在家バス停の右脇に小堂が立っていた。
小堂の中 大日如来立像
延宝6(1678)舟形光背に智拳印を結ぶ大日如来像を浮き彫り。光背は風化のために縁がところどころ欠けている。
像の状態はよいとは言えないが、尊顔は静かな笑みを浮かべていて美しい。光背右脇 行人
法心 覺位 施主。左脇に造立年月日が刻まれていた