浦和太田窪団地南入口 南区太田窪2-6-7[地図]
県道35号線(産業道路)の太田窪北交差点から南へ150mほど進むと、道路右側に太田窪団地がある。そのすぐ南の会社の敷地内、奥へ入る通路の壁の前に小堂が立っていた。
二十三夜供養塔
宝永6(1709)風化のために縁が欠けた舟形光背に勢至菩薩立像を浮き彫り。二十三夜塔の刻像塔の主尊は勢至菩薩が多いという。光背上部に梵字「サク」光背右脇「奉建立廿三夜待二世安樂所」左脇に造立年月日。その下に施主 高野氏の名前が刻まれている。
細野交差点北路傍 南区太田窪4-15[地図]
産業道路と馬場先通りの交差点、細野交差点のすぐ北、道路西側の歩道の脇に小堂が並んでいた。
奥の小堂の中 庚申塔
元禄13(1700)四角い台の上に角柱型の石塔、その上に蓮台に坐す丸彫りの青面金剛像。
三眼の青面金剛は目がつり上がり忿怒相。合掌型六臂だが、合掌手の先はつぶれ、左上手はいちど欠けてあとから新しい手をつけ直したらしい。丸彫り像の場合こういう欠損はよくあるが、つけ直した手の色が違っていて不気味な感じを受ける。
左下手は弓を持っていたのだろうがはっきりしない。新しくつけ直された上手はなにも持たずじゃんけんのグーのようだった。
左下手は2本の矢を持ち、上手は蛇をつかんでいる。これも珍しい。
角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「奉待庚申供養塔」両脇に造立年月日。左側面に細野講中。右側面に木崎領太田窪村と刻まれていた。
手前の小堂の中には二基の石塔が並んでいる。
右 庚申石灯籠
安永2(1773)竿部の上には火袋が無く、中台も本来の置き方と逆になっていて、おそらくこの部分はいちど落ちたのだろう。
四角い竿の正面に「奉待庚申石灯籠供養塔」右側面に造立年月日。
左側面に太田窪村 施主講中と刻まれていた。
左 馬頭観音塔
宝暦5(1755)風化が著しく進んでいる。舟形光背に三面六臂の馬頭観音坐像を浮き彫り。光背両脇に造立年月日。足元の部分に施主 個人名が刻まれていた。
顔はほとんど崩れてしまっているが、どうやら三面らしい。頭上の塊はやはり馬頭なのだろう。
普門寺 南区太田窪4-9-10[地図]
産業道路の細野交差点と太田窪北交差点のちょうど真ん中あたりから細い道を西に進んだ先、浦和競馬場の東の高台に普門寺がある。入口右脇の小堂の中に六地蔵と頭が屋根まで届きそうな大きな丸彫りのお地蔵さまが並んでいた。
小堂の中 六地蔵菩薩立像 昭和15(1940)穏やかなお顔の六体のお地蔵様は太平洋戦争の一年前の造立。村の人たちはその後どんな日々を送ったのだろう。
下の台の正面に昭和の造立年月日とともに、皇紀2600年の銘が刻まれていた。「皇紀」については知識としては知ってはいたが、いままで実際に目にすることはほとんどなかった。
右 地蔵菩薩立像
享保年間造立。像自体も大きいのだが、蓮台、敷茄子、反花付請台、さらにその下に四角い台と充実した構成で、その高さは2mをゆうに超える。
静かに佇むお地蔵様。風化の様子も大きな補修の跡もなく、錫杖、宝珠も健在、彫りもきれいに残っていた。
一番下の台の正面、右端に講中
九十六?台の下部が地面の下に埋まっていて、銘の全体は読めないが、百人近い大きな講である。
台の正面左のほうに「寒念・・」「拾・・」寒念仏供養のための講中が十数人ということだろう。このお地蔵様の造立は、合わせて100人以上の多くの人たちがかかわった大きな事業だったに違いない。
台の右側面、「享」「八月」と銘が残っていて、造立は享保(1716~1736)か享和(1801~1804)が考えられる。いままで志木、新座、清瀬などで見てきたように、この規模の丸彫りの地蔵菩薩塔はいずれも享保年間造立のものだった。石質もしっかりしていて、享保が有力といえるのではないだろうか。
黒い門扉の入口から入って正面、宝篋印塔の隣、雨除けの下に舟形光背型のお地蔵さまが立っていた。ここから右に曲がると本堂、左が墓地。写真左上に浦和競馬場のスタンドが見えている。
地蔵菩薩立像
明暦2(1656)光背上部に「念佛供養」右脇に武州足立郡太田窪村、左脇に造立年月日。いかにも硬そうな石材が使われている。
くぼんだ光背から抜け出してきそうなお地蔵さまは像の厚みも充分。錫杖の柄はほぼ欠けてしまっていて、かなり上のほうに錫杖の先の部分だけが残されていた。この頭の上まで伸びる長い錫杖は江戸時代初期、特に万治年間のお地蔵様でよく見かけたもので、元禄期あたりになるとだいぶ短くなるようだ。光背の下部両脇に敬白と刻まれていた。
右 宝篋印塔
明和6(1769)屋根型の笠を持つ江戸時代中期後期の典型的な宝篋印塔。基礎裏面に先祖代々とあり、こちらはどうやら個人の手によって造立されたもののようだ。
行弘寺 南区太田窪2310[地図]
産業道路の南浦駅入口交差点から川口方面へ300mほど、道路右手に行弘寺の入口があった。坂道を下りすぐ左へ曲がると本堂正面にでる。コンクリート造りのモダンな本堂に続く階段の両脇に、一対の石塔が立っていた。
入口左 不動尊塔
嘉永2(1849)大きな二段の台の上笠付き角柱型の石塔の正面「奉納不動尊」側面に造立年月日。
上のほうの台の正面に八名の名前。その名前の上に寄進額が刻まれている。左側面に當寺現住
星野順栄代。
台の左側面に當村下連中。裏面に四名の名前。続いて願主世話人とあり一名の名前が刻まれていた。
こちら右の石塔。左の石塔と同時に奉納されたものである。台の正面に發願主二名、世話人一名の名前。右側面には八丁石工の名前が刻まれていた。
台の右側面に伊刈村連中。裏面には七名の名前が刻まれている。
本堂の左奥に稲荷神社。その左側、大きな石碑の向こうに角柱型の石塔が立っていた。
足立百不動尊供養塔
安政6(1859)さいたま市域を中心に設定された百不動尊の供養塔である。二段の四角い台の上、角柱型の石塔の正面「足立百不動尊供養塔」両脇に天下泰平・國家豊穣。
塔の右側面に第1番 王林院から始まり第50番、左側面に第51番から第百番
行弘寺まで細かい文字で百不動尊の名前が刻まれていた。
裏面に造立年月日。その下に武州足立郡 太田窪村 龍燈山行弘験寺
大閑院順栄代。本堂前両脇の不動尊塔に刻まれていた同じ、この寺のご住職の名前である。
上のほうの台の正面に再興願主とあり住職順栄をはじめ十八名の名前が刻まれているが、前川村、下戸田村、大間木村、蕨宿、芝村、西新井宿村、与野町、鳩ケ谷宿、新曽村と、かなり遠くの地域の人たちの協力があったようだ。
稲荷神社の右脇 大般若経塔 文政2(1820)二段の四角い台の上
角柱型の石塔の正面に「奉納大般若経」塔の右側面 天下泰平・國家安全、五穀豊穣・萬民豊樂。裏面に造里宇年月日。台の正面に太田窪村とあり、大在家、本村、新田、下組、善前、近隣の字名が刻まれている。
本堂の裏を通ってさらに奥に進むと境内社の近くにいくつか石塔が並んでいた。
手前から百番供養塔 安政2(1855)四角い台の上
隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「サ」の下に「坂東 西國 秩父 百番供養塔」塔の右側面に造立年月日。台の正面に當所とあり九名の名前が刻まれている。
手水鉢を挟んで、その先に庚申塔。丸彫りの青面金剛坐像。本来の台を欠き、紀年銘などは確認できず詳細は不明。邪鬼・二鶏・三猿も見当たらず、首にも補修跡があった。
胸前の合掌手と腰のあたりで弓矢を持つ手、青面金剛の四臂像は珍しい。
その奥に庚申塔
延宝6(1678)上部が大きく欠けているが板碑型の三猿庚申塔と思われる。前回来た時にはここになかったもので、その後移動されてきたのだろう。調べてみても資料に該当する庚申塔は見つからなかった。謎である。風化が進み三猿も摩耗、銘も薄くなっていて、中央に□□佛、右に紀年銘。あとは読み取れない。
三猿の下の部分に数名の名前が刻まれていた。
庚申塔などの向い、産業道路側の斜面に石坂供養塔
文政4(1821)角柱型の石塔の正面「石坂造立」右側面に造立年月日。
正面上部に彫られた石仏は風化のためにはっきりしないが、衣装の様子などからみて観音菩薩坐像だろうか?
太田窪天神社 南区太田窪2236[地図]
行弘寺から住宅街の中を南へ進み、上谷沼調整池近くにある不動入公園の手前を右折して坂道を登り切ったあたりに太田窪天神社がある。敷地内に新田自治会館が立っていた。
社殿右脇の小堂の前に、三基の駒型の石塔が並んでいる。
手前 庚申塔 元治元年(1864)青面金剛立像
合掌型六臂。ところどころ白カビがあるが、彫りは技巧的で細かい。炎付きの輪光背を持ち、髑髏の首飾りをした三眼の青面金剛。持物は矛・法輪・弓・矢。邪鬼の下、塔の一部は土の中に埋まっているように見える。上部には日月雲はなく「藤原庚申」と刻まれているがこれは初見。意味はちょっと分からない。「藤原」は人名か?地名か?
塔の左側面は大きく破損しているが銘はかろうじて確認できた。手前に「奉納三躰造立」その隣に造立年月日。
右側面、足立郡太田窪村 世話人
新田から一名、善前から二名、合わせて三名の名前が刻まれている。
後列左の庚申塔。やはり上部に「藤原庚申」とあり、その下に御幣を肩にした羽織姿の猿の坐像が彫られている。
後列右の庚申塔。左と同じような構成だが、こちらは坐像ではなく駆け出しそうな様子、まるで飛脚のように見えた。前の青面金剛像塔の左側面に「奉納三躰造立」とあり、この三基の庚申塔は1セットと考えていいだろう。
うしろの小堂は扉がしまったまましっかりカギがかかっている。格子の間から覗くようにして写真を撮った。 庚申塔 元禄8(1695)舟形光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。蛇冠・三眼・忿怒相の青面金剛。光背右脇「奉納庚申供養」左脇に造立年月日。持物は矛・法輪・弓・矢。
光背下部両脇に木崎領 太田窪村。その下に二鶏が線刻されている。
足元には邪鬼が平たくうずくまり、その下に正面向きに三猿が並ぶ。風化のために顔はのっぺらぼうになっていた。
産業道路二十三夜バス停脇三差路 南区太田窪2778[地図]
行弘寺付近から産業道路を川淵方面に進み、徐々に下り坂にかかるあたりの道路左側、歩道橋の近くにある「二十三夜」バス停の脇の三差路に角柱型の石塔が立っていた。
二十三夜塔
天保3(1832)大きな基壇の上、二重の台に角柱型の石塔。堂々たる構えを見せている。二十三夜塔は月待塔の中でも最もポピュラーなもので、全国的に分布しているようだ。勢至菩薩を本尊とすることが多いというが、ここでは下のほうの台の正面に観音講中と刻まれていた。
脇に解説板が立っていて、勢至菩薩=月天使が観音経を唱えて安心立命、無事息災を祈願すると説明されている。
角柱型の石塔の正面に「二十三夜塔」両脇に天下泰平・國土安全。
塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日が刻まれていた。
四角い台の左側面の右のほうに太田窪邑下、圓正寺邑。中央に左 うらわ
よの道と刻まれていて道標になっているのだが、銘はごく薄く、うっかりすると見逃してしまいそうだ。
台の右側面の銘もかなり薄く、右 なんぶ
いわつき道と刻まれていた。
氷川神社南東路傍 南区太田窪2767[地図]
二十三夜塔の三差路の右脇の道を北へ進み、100mほど先を右折すると、やがて左手に氷川神社の森が見えてくる。神社の入口を過ぎて坂道を登り切ったT字路の角に庚申塔が立っていた。登り切って突き当たった道は馬の背のように高いところを南北に結ぶ道で「馬坂」というらしい。
雨除けの下 庚申塔
寛文年間。舟形光背に四臂の青面金剛立像を浮き彫り。全体に風化が進み損傷が甚だしい。
光背の縁は一部が欠けていて、像も溶けだしていた。六臂像に見られる合掌手、あるいは剣とショケラを持つ手が無く、上の手も矛と法輪が逆の手で、やはり初期の庚申塔らしいというべきか?光背は破損個所をセメントで補修した跡が残り、銘が一部読み取れない。光背右脇に「爲諸願□□也」左脇に寛文□□□月十五日。
足元に邪鬼・二鶏は見当たらない。下部に正面向きの三猿。その下の台の正面に10名ほどの名前が刻まれているようだが、こちらも不鮮明ではっきりと読み取ることはできなかった。
馬坂西下路傍 南区太田窪3004[地図]
二十三夜塔あたりから産業道路を南に下る。次の信号交差点で道は二つに分かれるが、斜め左のほうの道に入って広い道を下ってゆくと左手に銭湯の煙突が見えてくる。その先の路地を左に入って20mほど、右手の住宅のブロック塀の中に二基の石塔が並んでいた。
右 華御堂供養塔
元禄6(1693)板碑型の石塔の正面を二重に彫りくぼめた中、中央に「奉供養華御堂二世安樂」両脇に造立年月日。先日大谷口のほうで華御堂地蔵塔を見たばかりだが、私の記憶では華御堂というと地蔵菩薩塔が多く、文字塔というのは珍しいのではないだろうか。
下部の銘はいまひとつはっきりしないが、人名だろうか?結衆十数人ということになる。
左 庚申塔 安永3(1774)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像
剣・鈴持ち六臂。川口型庚申塔に鈴もち青面金剛は多いが、それ以外で鈴持ちはあまり見たことがない。
矛・法輪・弓・矢と残りの持物は普通。像は風化のために表面が丸くなっていた。
足元には猫のような風貌の邪鬼が寝そべっている。
その下に三猿、一部土の中に埋もれていた。顔も溶けていて不明瞭だが、なんだか踊っているように見える。
塔の右側面「奉納庚申青面金剛」左側面に造立年月日が刻まれていた。
太田窪観音堂墓地 南区太田窪2994[地図]
上の住宅のところから北へ進み二つ目の角を右折、狭い急坂を登ってゆくと左手に墓地があった。
墓地に入ってすぐ左手に地蔵菩薩塔が並ぶ小堂が立っている。
左 地蔵菩薩立像
明和6(1769)丸彫りの堂々たるお地蔵様。台の正面に禅定門戒名と明和6年の紀年銘。右側面に三つの童子・童女戒名それぞれ宝暦年間の紀年銘。左に施主名。こちらは墓石だった。
中央 丸彫りの六地蔵菩薩塔
文化13(1816)六体の地蔵像は敷茄子・蓮台ともによくそろっている。
右端の石塔の左側面 武刕足立郡 太田久保村 圓正寺村 □□ち
念佛講中。続いて造立年月日が刻まれていた。
右には大小二基の丸彫りの地蔵菩薩塔が並んでいる。
左 地蔵菩薩立像
宝永7(1710)敷茄子はないが蓮台は重厚。風化のためか顔の様子はいまひとつはっきりしない。錫杖の先の部分が欠けていた。
石塔の正面
梵字「カ」の下、右に「奉造立地蔵菩薩」左に「念佛講供養」さらに願主名が刻まれている。
右 地蔵菩薩立像
享保14(1729)正面に紋が彫られた敷茄子厚い蓮台の上に丸彫りの地蔵菩薩像。
ふくよかなお顔のお地蔵様。首に補修跡がなく、錫杖、宝珠ともに欠損はない。
石塔の正面に大きく「地蔵講中」両脇に造立年月日。塔の両側面には偈文が刻まれていた。