白幡観音 南区白幡4-14[地図]
国道17号線、武蔵浦和駅入口交差点から東京方面に500mほど、白幡歩道橋のあたりの路地を右に入った先に白幡観音の入口があった。寺標の立つ入口の手前、道路右脇に石塔が立っている。
普門品供養塔
嘉永3(1850)四角い台の上、角柱型の石塔の正面、梵字「サ」の下に「奉讀誦普門品供養塔」両脇に天下泰平・五穀成就。
塔の右側面に「坂東十一番」左側面に造立年月日。続いて「巻數三万七千五百諸願成就所」さらに邑中安全と刻まれていた。
台の正面に「連經講中」右側面は無銘。左側面に世話人一名の名前が刻まれている。
境内に入って右奥に観音堂。左側には観音堂に向き合うように多くの石塔が並んでいた。
まずは丸彫りの六地蔵菩薩立像
正保元年(1644)古仏である。さいたま市内では最も古い六地蔵塔だろう。これまで見た限りでは、江戸時代初期には六面六地蔵石幢や一石六地蔵塔などが多く、続いて舟形光背の六地蔵塔があらわれ、丸彫りの六地蔵塔は江戸時代中期以降に多くなるような気がする。そういう意味からも貴重な六地蔵塔と言えるのではないだろうか。
六体はよくそろっていて尊顔は穏やか。今にも動き出して声をかけてきそうな、生き生きとした雰囲気が漂っていた。
後ろに回ってみると背中に戒名と施主名、六体ともに同じ書体でほぼ同じ内容の銘である。一番奥、右端のお地蔵様の背中に造立年月日が刻まれていた。
その隣 大乗妙典供養塔
天明4(1784)三段の台の上に角柱型の石塔。さらに敷茄子・蓮台を重ねた上に大きな輪光背を負った地蔵菩薩坐像。
石塔の正面「奉納大乗妙典日本廻國」左側面に造立年月日。その横に武州足立郡白幡村。下部に願主、世話人、各一名の名前が刻まれている。
右側面には安永五(1776)常陸國水戸領。さらに左側面とは別の願主の名前が刻まれていた。これはどう考えたらいいのだろう?回国行者が水戸出身?安永5年=発願、天明4年=満願だろうか?
続いて石灯籠供養塔
正保元年(1644)六地蔵塔と同じ造立年である。角柱型の石塔の正面「奉造立石灯籠現當二世成就」
石塔の上の石仏。首がもげていて確認はできないが地蔵菩薩坐像だろうか。胸の前に宝珠?を持っていた。
塔の正面に「奉造立石灯籠現當二世成就所」下部両脇に二名の名前。左側面は無銘。右側面下部に願主
敬白と刻まれている。
右端には小さな板碑を挟んで二基の小型の五輪塔と宝篋印塔。江戸時代初期のものと思われるが銘は確認できなかった。
おしゃびき様 南区白幡4-2[地図]
白幡観音の少し南から国道17号線に並行して細い道がはしっている。この道は六辻交差点あたりで国道と合流するが古道だろうか。その途中の路地を右に入った先に瓦屋根の小堂がたっていた。
小堂の中 おしゃびき様
元禄11(1698)丸彫りの坐像は多くの前掛けを重ねてかけられていて像の様子はわからない。咳止めに効果があるということで信仰されているらしい。前掛けは病気の回復のお礼参りに奉納されるという。前掛けを上げてのぞいて見ると腹の前に三角おにぎり?を持っていた。寶性寺の六地蔵の脇に祀られていた「おしゃびき様」とほぼ同じデザインである。(2023.02.10の記事参照)
どうやら老婆の像らしい。石仏というよりも実在の人物をを彷彿される写実的な表現になっていた。実際に見ることはできなかったが、酒井さんによると背面に造立年月日が刻まれ、さらに施主だろう、白端田村
作兵衛とあるという。おしゃびき=しわぶき=咳とのこと、咳を鎮めるご利益ありと、信仰は今に続くという話だった。
醫王寺 南区白幡2-16[地図]
醫王寺は武蔵浦和駅の東500m程、国道17号線を越えた先の信号交差点の近く、白幡中学校の南にある。境内に入ると正面に大きな鐘楼門が立っていた。
鐘楼門の手前右手、コンクリートでひな壇がもうけられ、三段に石仏が並んでいる。その多くは墓石で、そのまわりにもいくつか石塔が立っていた。
ひな壇前列中央 弘法大師供養塔
天保5(1834)片岩正面「弘法大師一千年忌供養塔」両脇に造立年月日が刻まれている。
前列右端
こちらは寛文4年と延宝8年の命日と二つの戒名が刻まれた墓石だが、きれいな形の舟形光背に二臂の如意輪観音坐像、風化もなくその姿は凛として美しい。
ひな壇の右脇に 石坂供養塔
安政4(1857)正面に「石坂供養塔」下部には十数人の名前。塔の右側面に造立年月日。その下に世話人5名の名前。左側面には當邑中と刻まれていた。
ひな壇の右端、裏に隠れるように石塔が立っている。ひな壇に向いている面がこの石塔の左側面、右に見えているのが裏面でこちらは無銘だった。
風化のために銘は読みにくい。右に天保4年の紀年銘。中央に薄く「光明呪唱・・・・」左脇にも文字らしきものが見えるが読み取れなかった。
ひな壇をぐるっと回ってこちらが正面になる。石塔の上部に光明真言曼荼羅。その下中央に「三百万遍供養塔」右側面の「光明呪唱・・・・」と合わせると(呪=真言)「光明真言三百万遍供養塔」ということになるだろう。下の台に「唱主」とあり、同行四拾貳人と刻まれていた。
こちらは左側面。中央に大きく「弘法大師」その下に白幡村醫王寺。右脇に第四十番伊豫國観自在寺冩、
左脇には四十一番江十八町と刻まれている。(北足立八十八ヶ所霊場の41番は南浦和駅近くにある寶性寺)
鐘楼門をくぐって本堂の前に進むと右手前に大きな板碑が立っていた。
2mを越す大きな板碑
延慶2(1309)上部と下部に欠損があるらしいが、それでもその規模の大きさは群を抜く。上部に薬研彫りされた雄渾な「キリーク」が印象的。市の有形文化財になっている。
鐘楼門の手前左のほう、石の階段の先に薬師堂が立っていた。階段を上り切ったあたり、石灯籠
文政2(1819)や宝篋印塔 寛保3(1743)をはじめ多くの石塔が立っている。
宝篋印塔の手前に珍しい形の石塔があった。緑泥岩の自然石の中央に唱主
廣観直性大法子と刻まれている。
右脇に寛政9(1797)年の紀年銘。左脇には「奉納□□□□□万編誦之」と刻まれていた。肝心な部分は自然石の表面が一部剥落しているため読めないが、鐘楼門右手で見た「光明真言供養塔」と同じように唱主などの銘があり、こちらも「光明真言供養塔」ではないだろうか。
白幡沼南畔 南区白幡2-17[地図]
国道17号線別所下交差点あたりの東に白幡沼がある。沼の周りは遊歩道になっていて、散歩する人も多く見られる。その南岸の道を東に進むと左手に二基の庚申塔が並んでいた。
右 庚申塔 宝永4(1707)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像
合掌型六臂。
とぐろを巻いた蛇を頭に乗せた三眼の青面金剛は目を吊り上げて正面をにらむ。上右手に矛、左手には法輪ではなく蛇を持っていた。像の右脇に「奉造立庚申塔現當爲安穏所」左脇に造立年月日。
足の両脇に二鶏を半浮き彫り。足元の邪鬼は弱弱しく横たわる。その下に正面向きの三猿。丸い目が可愛い。さらにその下の部分に施主とあり、ひらがなで8名の名前が刻まれていた。
左 庚申塔 宝永6(1709)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像
合掌型六臂。
やはり蛇を頭上に乗せた青面金剛、こちらは顔がつぶされてる。像の右脇「奉造立庚申像供養一結講衆現當悉地」左脇に造立年月日。持物は矛・法輪・弓・矢。
足元にひしゃげた邪鬼、その両脇に二鶏。さらに正面向きの三猿。このあたりは隣の庚申塔とよく似ていて、造立年に2年の隔たりがあるが、同じ石工の仕事かもしれない。三猿の下の狭いスペースに11名の名前が刻まれていた。
地蔵堂 南区白幡1-16[地図]
醫王寺の南の信号交差点から南へ進む。一方通行の道を200mほど行くと道路左手の交差点の角に墓地があった。このあたり、道路左側一帯が高台で坂が多く、墓地は急な石階段を上った先に広がっていて、正面には医王寺の境外堂である地蔵堂が立つ。階段下の右手の一角、敷地の角のあたりの雨除けの下にお地蔵様が祀られていた。
地蔵菩薩立像
享保14(1729)風化は少なく、彫りもきれいに残っている。
錫杖・宝珠ともに健在。頭部石材は他の部分に比べて白っぽいもので、こちらはあとから補修されたものらしい。
台の正面に「念佛講
村中」右側面に願主名、左側面には造立年月日が刻まれていた。
地蔵堂へ向かう急な石階段を上り切った左側に二基の石塔が並んでいる。
形も大きさもよく似た二基の石塔。左の石塔には「念佛講中」右の石塔には宝暦7(1757)の紀年銘が刻まれている。2基とも上部に穴があり、もしかしたら石仏が乗っていた跡かもしれない。六地蔵塔の残欠か?はっきりしたことは分からないが・・・
地蔵坂東住宅前 南区白幡1-6[地図]
地蔵堂の右手の急な坂道をのぼり、次のT字路交差点を右折、100mほど進むと道路左手の住宅の前に小堂がたっていた。
小堂の中 庚申塔 享保12(1727)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲
青面金剛立像 合掌型六臂。
忿怒相ではあるが顔は丸くふくよか。持物は上右手に三叉戟、左上手に法輪、下は弓矢。
足元に邪鬼・二鶏の姿は見当たらない。下の台の正面には大型の正面向き三猿が彫られていた。
塔の右側面「奉造立青面金剛諸願成就攸」
左側面に造立年月日。その右脇に白幡村講中十八人と刻まれている。