岩槻区増長

香取神社 さいたま市岩槻区増長1


県道80号線をさらに東に進み左手に川通中学校を見て、その先400mほど行くと右手に香取神社の入り口がある。ここから奥へ進んでゆくと鳥居の向こう、参道の左脇に石塔が並んでいた。


五基の庚申塔。適当な間隔をあけて、整然と並んでいる。


左端 庚申塔 享保2(1717)駒型角柱石塔の正面 日月雲の下「奉造立庚申供養塔石像一躰所願成就」上部両脇に造立年月日。右下に増長村。左下にも文字が見えるが読み取れない。下部には三猿だけが彫られていた。


2番目 庚申塔 宝永6(1709)ここでは最も古い。唐破風笠付角柱型。


日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。笠付の割には白カビが多く彫りははっきりしない。


足下には邪鬼が横たわり、その下に三猿。二鶏はいないようだ。


塔の右側面「奉造立供養庚申尊像一躰所願成就」


左側面に造立年月日。右下に増長村、左下に同行拾八人と刻まれていた。


3番目 庚申塔 宝暦2(1752)角柱型の石塔の正面を彫り窪めた中に梵字「ウン」その下に「青面金剛尊」両脇に造立年月日。下部に三猿を彫る。下の大きな台には銘は見当たらない。


塔の右側面は無銘。左側面には増長村 講中七人と刻まれていた。


4番目 庚申塔 天明8(1788)角柱型の石塔の正面 日月雲「青面金剛尊」下の台には銘が無く、猿の姿もない。


塔の右側面に造立年月日。左側面には施主 増長村講中と刻まれていた。


右端 庚申塔 安永3(1774)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


像の中心あたりが一番カビが多くショケラなども混沌としている。発達した瑞雲の下、青面金剛は目をむいてにらみつける。


足下に邪鬼、二鶏、三猿だが、やはり風化が進んでいて、おおまかな様子しかわからない。


塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。続いて増長村願主と刻まれていた。

 

薬師堂 岩槻区増長147付近


増長の香取神社から東に進み、すぐ先の交差点を右折して南に向かう。この道は大口、大谷を通り、大戸で県道325号線と交わる道で、この道沿いには多くの石仏があり、いずれ紹介することになる。右折してから二つ目の路地をまた右に曲がり100mほど歩くと突き当りに薬師堂が立っていた。その周りは墓地になっている。廃寺となった旧観秀院の墓地ということらしい。


墓地の手前、左側に多くの石塔が並んでいた。後ろは民間の工場の建物。塀などは無く、地続きになっている。


左端から 敷石供養塔 文化5(1808)正面に「敷石供養塔」両脇に造立年月日。下部に世話人とあり、その下に名前が刻まれているようだが、土に埋まっていて全体を読むことはできなかった。


続いて巡礼供養塔 文久3(1863)下の台に當所 同行とあり十人ほどの名前が刻まれている。


自然石の正面「羽黒山 湯殿山 月山 坂東 西國 秩父 神社佛閣供養塔」背面に造立年月日が刻まれていた。


ここからは同じような角柱型の庚申塔の文字塔が五基続く。まずは庚申塔 元治2(1865)塔の正面 真っ白な中に日月雲。その下に大きく「庚申」


塔の右側面に造立年月日。左側面には武州埼玉郡 岩槻領 増長村。


下の台の正面に三猿。線香立てが邪魔でよく見えないが左右が中を向く形。台の両側面にはそれぞれ七名の名前が刻まれていた。


続いて庚申塔 嘉永3(1850)塔の正面、日月雲の下に読みやすい楷書体で「庚申」下の台の正面に三猿。こちらも全体は見えない。


塔の右側面に造立年月日。左側面には武州埼玉郡増長村。


台の両側面に合わせて17名の名前が刻まれていた。


その隣 庚申塔 天保3(1832)塔の正面 日月雲「庚申祭」下の台の正面にはこちらも三猿が彫られている。


塔の右側面に造立年月日。左側面には武州埼玉郡増長村。基本的にこのあたりはみんな同じ作りになっている。


台の両側面に合わせて21名の名前を刻む。


さらに庚申塔 文化13(1816)塔の正面 日月雲「庚申塔」下の台の正面に三猿。


塔の右側面に造立年月日。左側面には増長村講中。


台の両側面に合わせて26名の名前。正面の三猿は中央の聞か猿が正面向き、左の言わ猿と右の見猿は外を向いている。まるでかくれんぼの鬼のような恰好でかわいい。


最後は庚申塔 文化2(1805)塔の正面、日月雲「青面金剛」下の台の正面を彫り窪めてその中に三猿を彫る。台の側面には銘はない。


塔の右側面に造立年月日。左側面には増長村講中と刻まれていた。

さて、ここに並んでいる五基の庚申塔は、文化2(1805)から元治2(1865)までの江戸時代末期60年間に、いずれも増長村(講中)によって造立されたもので、塔の規模、構成などはほぼ同じといっていいだろう。一番古い文化2年のもの以外には台に名前が刻まれていたのでこちらを調べてみた。四基とも一番多いのが金子姓、次が田中姓、あとは小原姓、三次姓だったが、面白いことに四つの庚申塔に同じ名前は一つもなかった。その造立年は11年から18年離れていて、前の世代の手によって建てられた庚申塔を手本にして、次々と新しい世代によって似たような庚申塔ができていったものと考えられる。

一方、前回見たように香取神社にも増長村講中によって造立された五基の庚申塔があった。造立年は宝永6(1709)から天明8(1788)までの江戸時代後期の約80年間。最後の天明8年のものだけは大きな台の上の角柱型の石塔の正面に「青面金剛」と刻まれた文字塔で、こちらの五基の庚申塔と似た形式になっていたが、あとの四基は青面金剛の像塔だったり、少しづつ様子が違っていた。増長村の十基の庚申塔。今は神社と寺跡に集められているが、当時は村のどんなところにどのように立っていたのだろうか?


薬師堂の周りは墓地になっている。左側の手前にたくさんの石仏が並んでいた。その多くは無縁仏のようだが、左右両端には丸彫りの比較的大きな二つの石仏が立っている。


左端 観音菩薩立像 寛保2(1742)顔のあたりにカビが目立つが丸彫りの割にはきれいだ。合掌する観音様はやわらかい笑みを浮かべていた。


背面に造立年月日。施主は個人名が刻まれている。


その裏 普門品供養塔 明和4(1767)塔の正面上部に馬頭観音菩薩坐像を浮き彫り。その下に「普門品供養塔」塔の右側面に造立年月日。左側面には施主 増長村中と刻まれていた。


六臂の馬頭観音坐像。小さいながらも頭上に馬の頭がはっきりと見え、穏やかな顔立ちで馬口印を結んでいる。


右端 阿弥陀如来立像 寛保2(1743)丸彫りの立像でカビや苔は見えるものの損傷は少ない。左端の観音様と似て、丸みを帯びた穏やかな作風。


背面に造立年月日。施主は個人名が刻まれているが、左端の観音様と同一人物のようだ。造立年月日も同じで、二体はセットで奉納されたものだろう。


薬師堂の左手前 墓地の入口に石仏が並んでいる。


左 地蔵菩薩立像 寛文5(1665)惜しいことに舟形の光背の右上を欠き、また右手に持つ錫杖の先の部分はかなり高い位置に残っているが、柄の途中部分は一部欠けていた。


カビもそれなりに多いが、寛文期の石仏らしく静かで気品あふれるその顔立ちは美しい。光背右脇「奉造立地蔵逆修現世安穏後生善所大菩提也 敬白」左脇に造立年月日。その下に施主とあり個人名。この名前が先ほどの観音菩薩、阿弥陀菩薩の施主と同一だが、その造立年に約80年の隔たりがあり、同一人物とは思えない。旧家に伝わる名跡だろう。


その隣 宝篋印塔 年代不詳。相輪を欠く。反り返った大きな隅飾型の笠、塔身が厚みがあり、比較的古いものではないだろうか。


基礎部は正面の一行目に「宝篋印陀羅尼」と見えるが、すぐその次の行から梵字が続き、他の三面は梵字のみが刻まれていて造立年など詳細はわからなかった。