旧正福寺跡墓地 岩槻区大口
県道80号線の増長の交差点から南二向かい、少し先を右に入ると先日紹介した薬師堂になる。さらに南に進み細い道を左に入った先に小さな墓地があった。交差点からは300mほどの位置。墓地の南のブロック塀の前に石塔が並んでいる。
右から 宝篋印塔。屋根型の笠を持つ。基礎部の4面に多くの戒名と命日が刻まれていた。
基礎の裏面、その中央に戒名と並んで「宝篋印塔一基」と刻まれている。他の面は戒名と命日だけなのでこの面が本来の正面かもしれない。刻まれた命日は承応2(1653)から宝暦11(1761)までの100年以上にわたり、造立年は宝暦以降ということになるが、紀年銘は見当たらず確定はできない。
下の台の正面 右に施主 大口邑。続いて天下泰平、國土安全。そのあとの数行は薄くなっていてよくわからない。左端には世話人だろうか個人名が刻まれていた。
その隣 宝篋印塔 明和元年(1764)こちらも屋根型の笠を持つ。
基礎の四つの面に梵字がびっしりと刻まれていた。その中で写真右の面の中央、梵字の中に「宝筐印陀羅尼」と見える。この面が正面だろうか。
下の台、ブロック塀に向かって右の面に施主 講中。左には造立年月日が刻まれている。
裏面は銘が見えず、正面には願文。左側面に武州埼玉郡岩附領大口邑、さらに蓮華山正福寺とあり、世話人として三名の名前が刻まれていた。
続いて六地蔵石幢 宝暦2(1752)笠付の六角柱の石塔の各面に地蔵菩薩立像を浮き彫り。下の台は二段になっている。
上の段の正面、資料によるとここに地蔵講中、武州埼玉郡大口村とあり、さらに造立年月日が刻まれているということだが、風化が進んでいるせいか、そこまではっきりと読み取ることはできなかった。残る三つの面にはうっすらとひらがなで多くの名前が刻まれているのが見える。
卵塔をはさんで、その左に地蔵菩薩立像 寛政2(1790)丸彫りの立像で、首のところに補修の跡がある。台は下部が土に埋まり、白カビも多く読みにくいが、正面中央に「過去七世父母六親眷(属)」両脇に多くの戒名、左側面に願文、右側面に造立年月日が刻まれていた。
残る五基の石塔のうち三基が像塔。まず 阿弥陀如来立像 延宝7(1679)舟形の光背の一部が欠けている。光背上部に梵字「キリーク」左脇に造立年月日、右脇に個人の戒名。
ひとつとんで、聖観音菩薩立像 貞享元年(1684)やはり舟形の光背は一部破損し白カビも目立つが、左脇に造立年月日、右脇にはこちらも個人の戒名。
左端に馬頭観音立像 宝暦8(1758)慈悲相。馬口印を結び二臂。像の両脇には造立年月日が刻まれていた。
墓地の前は広場になっていて遊具なども設置されている。その隅にお堂があり、脇に石塔が立っていた。
不動明王坐像 元治2(1865)像の下の部分に「成田山」下の台の正面に大きく「村中」と刻まれていた。
矜羯羅童子と制吒迦童子を従えた不動三尊像。炎の光背の前、右手に剣 左手に羂索を持った不動明王は目を吊り上げて正面をにらむ。
右側面に造立年月日、左側面に武州埼玉郡岩槻領大口村。台の左側面には世話人とあり四名の名前が刻まれていた。
大口香取神社 岩槻区大口251
増長から大戸に向かう道の中間あたり、道路西側に香取神社の朱色の鳥居が立っていた。この付近にはJAや商店などがあり結構にぎやかな地域。鳥居から神社までの長い参道の入口近くに七基の石塔が並んでいる。
右から 庚申塔 安政5(1858)山形角柱型の石塔の正面、日月雲の下「庚申塔」台は二段になっているが、下の段はなかば土に埋もれていて、その正面の文字は「講中」だろう。両側面にたくさんの名前が刻まれていた。
上の段の正面に岩槻では珍しくない片手しか使わない独特な三猿。このタイプの三猿の時代的、地域的分布を調べたら面白いかもしれない。
塔の左側面に「天下泰平 五穀成就」右側面に造立年月日。続いて武州埼玉郡新方領 大口村と刻まれている。
2番目 庚申塔 元文5(1740)塔の正面、日月雲の下を彫り窪めた中に青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。塔は白カビが多いが、なぜか台のほうはきれいで、正面には施主とあり十名の名前が刻まれていた。
足の両脇に薄く二鶏。丸顔の邪鬼は穏やかな顔立ちをしている。三猿は両端の二猿が中を向く形。
塔の左側面に造立年月日。右脇中央に「奉造立青面金剛尊像悉地成就祈所」その右脇に天下泰平 風雨順時、左脇に五穀成就 萬民豊樂と刻まれている。
3番目 庚申塔 寛政12(1800)唐破風笠の正面に日月雲。塔の正面 梵字「ウン」の下、独特な字体で「青面金剛尊」資料では台の正面に三猿が彫られているとのことだが、かなりの部分が土に埋まっていて確認はできなかった。
塔の右側面に造立年月日。その脇に當村庚申講中同志二十六婦女」女性だけの講中のようだ。
左側面には「夫聞庚申修法者・・・」で始まる長い願文が七行に渡って刻まれている。
4番目 庚申塔 寛延2(1749)駒形の石塔の正面を凝った形に彫り窪め、その縁に日月雲、中に合掌型六臂の青面金剛立像を浮き彫り。
足の両脇に二鶏。邪鬼は這いつくばり両手をM字型に張っている。その下に両端が内を向く三猿。このあたりはカビもなくクリアだ。
塔の左側面に造立年月日。右側面は白カビが多く、文字が薄くなっていて読みにくい。中央「奉造立青面金剛尊像悉地成就祈所」その右脇に天下泰平 風雨順時、左脇に五穀成就 萬民豊樂。これは先ほど見た元文5年の庚申塔の右側面と全く同じ内容だ。造立年は9年の隔たりがあるが、同じ石工の可能性もあるか。
5番目 庚申塔 元禄3(1690)ここでは一番古い。駒形の石塔の正面を彫り窪め、その上に日月雲。中に青面金剛立像 合掌型六臂を浮き彫り。上左手にショケラを持つ。
足の両脇に二鶏。邪鬼は正面向きで頭を踏まれている。その下にこれも正面向きの三猿が彫られていた。
6番目 庚申塔 寛延4(1751)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。像のあたりは白カビがこびりついている。塔の左側面に造立年月日。右側面「奉造立青面金剛尊像悉地成就」
足の両脇、比較的高い位置に二鶏。邪鬼は足を折り曲げて頭が左向き、腕はM字型に突っ張る。下の三猿は半ば土に埋もれていた。
左端 猿田彦大神塔 天保11(1840)塔の正面 日月雲「猿田彦大神」神の半分は土の中に埋もれている。
塔の右側面に造立年月日。続いて 此の方 かすかべ道。
左側面は全体を見ることはできないが、南 のじま。その脇に大口村と刻まれていた。
香取神社拝殿右奥 岩槻区大口251
香取神社の拝殿の右奥隅に石塔が並んでいた。資料には香取神社の裏にある「光明院」として紹介されていて、このあたりに寺院、墓地がないか何回か捜したのだがなかなか見つからない。あきらめて帰りかけたところで、ふと神社の拝殿の陰に石塔があることに気が付いた。現場は人通りもなく寂しい所で、写真の数基の石塔だけが残されている。
右奥から不動明王立像 明和7(1770)不動明王坐像はよく見るが立像は意外と少ないような気がする。
たくさんの炎が彫られた光背。不動明王は剣と羂索を持ち、目を吊り上げ睨みつける。
塔の正面中央「法印尊栄不生位」廃寺となった光明院の住職の墓石らしい。両脇に刻まれているのは命日だろう。
さらに住職の墓石が二基続き、その左に丸彫りの八基の地蔵菩薩立像が並んでいた。写真の右端の石地蔵はあきらかにサイズが異なる。いずれも台がなく地面にじかに置かれた状態で、像にも銘が見当たらずはっきりしたことはわからない。
七体のうち、いずれか六体が六地蔵菩薩として建立されたものと思われる。八体すべてのお地蔵さまが頭部を欠き、後から補修されたもののようだ。明治時代初期の廃仏毀釈によるものだろうか。ちょっと寒々しい風景だ。
香取神社南住宅庭 岩槻区大口225
さらに南に200mほど進むと、右手、道路西側の住宅の庭に二基の石塔が並んでいた。
右 馬頭観音塔 昭和18(1943)石塔の正面中央「馬頭観卋音・・」両脇に造立年月日。左脇に施主は個人名。
左 馬頭観世音塔 寛政5(1793)駒形の石塔の正面中央に馬頭観音を浮き彫り。右脇に造立年月日。左脇に施主 個人名。資料によると右側面に かすかべ道、右側面に のじま道と刻まれているらしい。二基の馬頭観音塔の施主は同姓で、その造立年には150年の隔たりがある。このお宅が何代にも渡って馬頭観音をお祀りしてきたということだろう