大谷香取神社 岩槻区大谷415
大口の香取神社から500mほど南、道路西側の二つの工場の間に大谷香取神社の鳥居が立っていた。入り口近く、参道右側にタイプの異なった四基の庚申塔が並んでいる。
右から庚申塔 文化3(1806)角柱型の文字塔。正面は写真で見る通り風化が激しくどうしても文字は確認できなかった。昭和59年発行の資料によるとその当時は「青□□剛」と文字が見えていたらしい。左側面には大谷村 講中二十五人と刻まれている。
右側面に造立年月日。正面と較べると側面はほとんど損傷が見られない。「不幸中の幸い」というべきだろう。
その隣 庚申塔 延宝8(1680)江戸時代初期らしく板碑型の三猿庚申塔。上部に日月雲を彫る。
古いものだけに白カビが多く文字の読み取りはかなり厳しい。正面を二段に彫り窪めた中、梵字「ウン」その下に「奉待庚申□□□二世□・・」両脇には造立年月日。左下に大谷村一結十八人と薄く見える。下部には大きめな三猿がお行儀よく座っていた。
続いて 庚申塔 安政2(1855)角柱型の文字塔で二段の台がついている。塔の正面 日月雲「庚申」左側面に天下泰平・五穀成就。右側面に造立年月日。その下には大谷邑と刻まれていた。
上の台の正面にハッピ?を着た三猿。真ん中は見猿のはずだが、烏帽子?をかぶり、左肩に棒状のものを担ぎ、さらに右手に扇のようなものを持っている。上の台の両側面は無銘。下の台の正面には12名の名前。こちらの両方の側面にも名前があるらしいが、隙間が無く確認できなかった。
左端 庚申塔 寛政4(1792)角柱型の塔の正面を彫り窪めて、日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。
像のあたりは白カビが目立ち、青面金剛の表情もはっきりしない。小さなショケラは足を折り曲げ腰のあたりにしがみつき、足下の邪鬼は両足を揃えて正座?完全に屈服している。
下の台の正面に三猿。右に丸まった言わ猿、中央に行儀悪く寝そべった見猿、左にそっぽを向いた聞か猿。その上にはちょこんと二鶏が彫られていた。なんともユニークで自由な空間。
塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。続いて大谷村と刻まれていた。
大谷自治会館 岩槻区大谷421
香取神社のすぐ北側に大谷自治会館があった。神社の拝殿の右側から、工場の裏を通り抜けて直接行くこともできる。その入口付近に石塔が並んでいた。
右側には六地蔵を中心に馬頭観音塔、不動明王塔、地蔵菩薩塔などが立っている。
右から 馬頭観音塔 大正8(1919)塔の正面中央「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。左側面に施主は個人名が刻まれていた。
その隣、馬頭観音菩薩立像 享和元年(1801)馬口印を結ぶ二臂の馬頭観音菩薩。逆立った髪の真ん中にくっきりと馬の顔が浮かぶ。白カビと苔がグラデーションのようで面白い。右脇に造立年月日。左脇に施主はこちらも個人名。
続いて六地蔵菩薩立像 享保3(1718)丸彫りの地蔵像ではよくあることだが、三基は頭がもげたままで、残る三基も補修の跡がある
資料によると六基のうち三基の台に銘があるという。敷茄子にいくつか戒名は確認できたが紀年銘は見つからなかった。
自治会館の敷地内、会館に向かうように二基の石塔が立っていた。
左 地蔵菩薩立像 安政2(1855)台の上に塔部、その上に敷茄子・蓮台の上に丸彫りの地蔵菩薩立像。合わせると2m近い。
塔の正面中央「奉造立地蔵尊 為念佛講二世安樂也」両脇に造立年月日。さらに天下泰平 國家安全。左下に大谷邑と刻まれている。塔の両側面にはいくつかの戒名と命日。また下の台の正面、両側面にも多くの名前が刻まれているようだが、正面は線香立ての陰で確認できず、側面は土ほこりが厚く覆っていてこちらも見ることはできなかった。
右 不動明王坐像 安政5(1858)塔の上の丸彫りの不動明王は上部を欠いている。塔の正面には大きく「成田山講中」塔の左側面に大谷村。
右側面、上部に造立年月日。その左脇 右 岩月 一里、左 越ケ谷 一里□□。下部はカビが多く彫りも薄くなっていてはっきり読み取れないが、いくつかの名前が刻まれているものと思われる。
入り口の反対側にポツンと地蔵菩薩立像 明和9(1772)先ほどの地蔵菩薩像とほぼ同じようなサイズと構成。お地蔵さまは錫杖を宝珠を持ち静かに微笑んでいる。
塔の各面は白カビがかなり多い。正面中央「奉納立地蔵尊一躰為 西國四國坂東秩父二世安樂也」右上に天下泰平、左上に日月晴明。右下に造立年月日、左下に岩附領大谷村 願主は個人名が刻まれていた。両側面には合わせて七つの戒名と命日。その命日は享保9(1724)から明和8(1771)に渡っている。
大戸自治会館 岩槻区大戸1673
県道325号線沿いにある川通郵便局の50mほど南を左折すると大戸自治会館があった。会館の前は墓地になっている。その墓地の前の道路に面して丸彫りの石地蔵と大きな宝篋印塔が立っていた。
雨除けの下 地蔵菩薩立像 正徳5(1715)年代から考えると驚くほどきれいでカビなどもほとんど見られない。
敷茄子のすぐ下の台の正面に造立年月日。右側面にも銘が見えるがうまく読めなかった。
その後 宝篋印塔 享保13(1728)大きな基壇、三段の台、蓮台、基礎、塔身部、笠、相輪と合わせると3mを越す。
基礎部、道路から見ると裏の面に「奉造立宝篋印塔一基」両脇に造立年月日。どうやらこちらが正面のようだ。下の台の四面にも銘がある。その左側面には大戸村講中 助成諸檀越と刻まれていた。
墓地の右の空き区画に四基の石塔が並んでいる。左の三基はいずれも個人の墓石だった。
右 地蔵菩薩坐像 安永3(1774)角柱型の石塔の上、舟形の光背に錫杖と宝珠を持った地蔵菩薩坐像を浮き彫り。白カビはかなり目立つ。
塔の正面 梵字「カ」の下「奉造立地蔵菩薩尊像一躯為二世能引・・」さらにその横には「奉供養日本回國六十六部納経成就・・・」と刻まれていた。
塔の右側面には願文。左側面には二つの紀年銘が見られる。まずは享保18(1733)続いて「行脚」とあり、安永3(1774)その下に清心 敬白。正面の銘と合わせて考えると、清心という人は大乗妙典六十六部を奉納した順礼修行僧で、農協が成就した安永3年にこの供養塔を造塔したということだろうか?そうなると享保18年は出生年?
自治会館の西側にも墓地があった。こちらは比較的新しいようで、会館とは道路で隔てられている。そのブロック塀の前にも石塔が並んでいるが、左端の合掌型の地蔵菩薩立像は個人の墓石だった。
五基の石祠はいずれも正面に菅原道真の坐像を浮き彫りした天神社。文化7(1810)から天保8(1837)の造立。
右端 庚申塔 元禄2(1689)元禄期あたりまでの江戸時代初期には板碑型の三猿庚申塔の文字塔が多く見られるが、こちらは中央に文字ではなく青面金剛像を浮き彫りしている。
日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。足下は邪鬼ではなく台のようだ。右脇に「奉造立庚申」左脇に造立年月日。
下部中央に施主、両脇に敬白。その下に大きなしっかりした二鶏。さらにその下には素朴な三猿が彫られていた。