高曽根公民館 岩槻区高曽根1232
笹久保通りを末田方面に向かい、県道48号線の末田交差点の300mほど手前、左側に薬師堂があり、その脇に多くの石塔が立っていた。写真のお堂の後ろに見える赤い屋根の建物が高曽根公民館。写真の右奥に歩いてゆくと地続きで浄音寺の山門前に出るが、浄音寺のほうは住所が末田になっている。
前列に十三基、後列に十基、合わせて二十三基の石塔。前列左側には卵塔や墓石が集まり、右端の四基が庚申塔の文字塔だった。
四基の駒角型の庚申塔のうち左の三基は造立年が同じで形も大きさも文字もとても良く似ている。惜しいことにいずれも隣の石塔との隙間が狭く、側面の銘が確認できない。左から庚申塔 文久3((1863)塔の正面上部に日月雲。その下に「庚申塔」脇には天下太平・村内安全。ここまでの構成は三基とも全く同一になっている。下部中央に いハつき
一り。両脇に高曽根村講中と刻まれていた。側面の銘は資料による。右側面に造立年月日。その下に戸井 一り、大宮 三り。左側面に第六天七丁、地蔵村 十二丁、こしがや おふさわ 二里。
その隣 庚申塔 文久3(1863)正面上部は隣と同じ構成。下部に戸井 一り、大宮 三りと刻まれている。右側面に造立年月日。その下には高曽根村講中。左側面 第六天八丁、地蔵村 十二丁、こしがや おふさわ 二り。第六天への距離だけが変わっている。
続いて庚申塔 文久3(1863)これも正面の上部は一緒だが、こちらは日月の上半分が欠けていた。下部には大門 一り半、草加 四り、釣上 一り。右側面に造立年月日、高曽根村講中。左側面 いハつき 一り、大六天 十五丁。こちらも大六天だけ距離が変わっている。この三基の庚申塔は高曽根村内にどんな配置で立っていたのだろうか?
右端の庚申塔は他の三基とその高さが違っていて、紀年銘が見当たらなかった。正面上部の構成は三基と同じ。下部中央に高曽根講中。右脇に戸井 一り、大宮三り。右側面 大門へ一り半、草加へ四り。左側面 第六天十丁、地蔵村尊 十二丁、こしがや おふさわ 二り。四基とも道標としてしっかりとその役割を果たしていたのだろうが、里程が微妙に違っているのが面白い。
後列は左から墓石が三基並び、そのあとに四基の庚申塔。左から庚申塔 寛政5(1793)角柱型の石塔の正面を彫り窪めた中に日月雲 青面金剛立像 鈴・ショケラ持ち六臂。塔の右側面に造立年月日。台の正面には當村講中と刻まれていた。
彫りは細かく曲線的。炎のように逆巻く髪の中に見えるのはドクロか?三眼の青面金剛は右手に剣ではなく鈴を持っている。肩のあたりに羽衣のようなものをまとう。衣服の裾が跳ね上がっているのは江戸時代後期の青面金剛像によく見られる特徴だ。
足下に丸い顔の邪鬼。正面向きで両手で青面金剛を支え、両足を前に出して踏ん張っている。その両脇に小さな二鶏。下部の三猿は左の見猿だけ中を向いている。猿のポーズも細かいところにちょっとした変化が見られて面白い。
その隣 庚申塔 享保3(1718)大きな唐破風付の角柱型。正面 日月雲 青面金剛立像 六臂。
丸顔の青面金剛は右手に鈴、左手には数珠のようなものを持っている。二鶏もずいぶん高い位置に彫られ、これも変わっている。
足下の邪鬼も人間のように手足が長く、あまり邪鬼らしく見えない。その下には左右の猿が内を向く構図で大きめな三猿が彫られていた。
塔の右側面「奉造立青面金剛為二世安樂也」その下に造立年月日。
左側面には高曽根村庚申供養講中貮百三十四人と刻まれている。そんなに大きな村とも思えないが、234人という講員数はずいぶんと多い。村を上げての造立ということだろうか?
続いて庚申塔 文化12(1815)角柱型。日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。
高く結い上げた髪は先が右に曲がり、その中にドクロが見える。獅子のような大きな邪鬼を踏み、一番下の両脇に二鶏が彫られていた。
台は二段になっていて、上の台の正面に三猿、下の台に多くの名前が刻まれている。
塔の右側面に造立年月日。左側面は高曾根村講中と刻まれていた。
四基目の庚申塔は三猿付きの文字塔 安政2(1855)角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」両脇に天下泰平・村内安全。上の台の正面に三猿。下の台の正面に當所講中。その両側面には多くの名前が刻まれている。
三猿はハッピ?を着ていて、両端の猿は外を向く。左の見猿は右手に桃を持つ。中央の聞か猿は左手で耳をふさぎ、右手には扇を持っている。右の言わ猿は左手を口にあて右手を前に突き出している。岩槻らしくユニークな三猿が楽しい。
塔の右側面に造立年月日。左側面には武蔵國埼玉郡高曽根邑と刻まれていた。
笹久保通り信号交差点角 岩槻区高曽根997
県道214号線(通称笹久保通り)笹久保交差点から東に1kmほど進むと、道はくねりながら下り坂になる。下りきると両側田園地帯の中を末田交差点までまっすぐな道が続くが、その途中、信号交差点の南西の角の所に小堂が立っていた。
小堂の中 丸彫りの地蔵菩薩立像 享保7(1722)堂の隙間から入る光線のために写真はかなり暗くなる。補正してやっと様子が見えるが、錫杖も宝珠も欠けは無く、古いものの割にはカビなども少ない。
像は大きく厚みがあり、頬、あごなど、全体にふっくらとした印象を受ける。
下の台の正面中央「奉造立地蔵菩薩」右端に武州岩付領高曽根村。その左脇に造立年月日。左側には「為信心檀主二世安樂也。さらに「為二親菩提 施主唯心」左端に願主 修誉西連と刻まれていた。