県道65号線鹿室地区西側路傍
県道65号線は江戸時代は日光街道の脇街道で日光御成道と呼ばれ、岩槻の上野、鹿室を通り、その先は白岡市、宮代町、杉戸町を通り、幸手で日光街道と合流する。土地の人の話では昔は杉並木が見事だったということで、今でもところどころにその名残を留めるように大きな杉の木が立っていた。市境のこの地点まで、何度も自転車で通ううちに道にも慣れて、今では1時間ちょっとで着くようになった。ここから街道沿いに南に歩くと、かなり多くの庚申塔に出会う。これも土地の人に伺ったのだが、このあたりは庚申信仰が盛んで、それぞれの家に庚申塔があったとか、今回見ることができたのは一部で、多くは宅地内にあるらしい。路傍にあって見ることができたものだけでも紹介してゆこう。
市境から50mほど南、道路の西側歩道に面した住宅の庭に庚申塔が立っていた。
庚申塔 平成22(2010)塔の正面、日月雲を線刻、その下に「庚申塔」裏面に造立年月日と施主名が刻まれている。資料ではこのあたりに造立年月日は不明だが、江戸時代の造立と思われる庚申塔の文字塔があるということだったが、破損のために新しく建て直したものだろうか。いずれにしても、私の知る限り、最も最近建立された庚申塔ということになる。
さらに南に50mほど歩くと右手にガソリンスタンドがある。路地を入ると、ガソリンスタンドのブロック塀の裏手、小さな神社の脇に庚申塔が立っていた。
庚申塔 文政2(1819)下部が土中に埋もれているが、正面大きな字で「青面金剛」右側面は狭く確認は難しいが、資料によると造立年月日が刻まれているという。
塔の左側面には鹿室村上講中と刻まれていた。
その向かいの住宅の入り口にも庚申塔が立っている。本当に目と鼻の先だ。
庚申塔 造立年不明。正面、日月雲の下「庚申塔」塔の右側面は無銘。左側面には、このお宅と同じ姓の名前が刻まれている。
さらにまた50mほど南下した県道65号線の鹿室交差点、右手前の角の庭の植え込みの中に小堂が立っていた。
小堂の中 庚申塔 寛保元年(1741)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。全体に風化が進み、像は摩耗のため丸みを帯びている。光背左脇に「奉造立庚申」脇に造立年月日。足の両脇に二鶏、足下に邪鬼。その下の部分は祠の横木に隠れて見えないが、三猿が彫られているのではないだろうか。石塔右下の板に「奉納 猿田彦大神」と書かれていた。
宝国寺 岩槻区鹿室288
鹿室交差点から200mほど南、右側に宝国寺の入り口があった。資料によると正徳年間の舟形光背型の地蔵菩薩立像、やはり正徳年間の一石六地蔵塔、二基の庚申塔の文字塔などがあるということで楽しみにしていたが、最近整備されたらしい境内にはその姿を見つけることができなかった。お寺のかたにお話を伺いたいところだが、なかなかその機会もなく、またの宿題にさせていただきたい。
入り口には不動堂が立っている。こちらにも三基の庚申塔をはじめ数基の石仏があるということだったが、堂の中をのぞいてみると不動明王坐像のみであった。どこに行ったのだろう?
宝国寺東路傍 岩槻区鹿室699付近
宝国寺の少し南、県道から斜め左に枝道が分かれている。枝道に入ってすぐ、細い道を左に入って道なりに歩いてゆくと左側路傍に石仏が立っていた。
不動明王立像 寛政7(1795)風化が進み、かなりな部分に剥落が見られるが、火焔の光背がはっきりと残っており、不動明王像と思われる。
塔の左側面、からくも造立年月日が見える。続けて 鹿室村 新井氏の名前が刻まれていた。
鹿室自治会館
県道65号線の鹿室宿バス停のあたりから斜め左に枝道を進むと、やがて左手に大きな工場が見えてくる。その入り口の向かい側に鹿室自治会館があった。会館の裏に石塔が並んでいる。
道路脇近く 観音菩薩塔 文政11(1828)正面はカビがひどく彫りも薄くなっているが、中央に「観世音菩薩」両脇にも文字が見えるがはっきりしない。右が「かすかへ道」左は「いわつき道」だろうか?
側面のほうは文字が読みやすい。左側面中央に造立年月日。その右脇にさって道三リ、左下に鹿室村と刻まれている。
右側面は彫りが薄いが、すぎと道一り半、その隣は、やまミち?
その奥に浅間大神塔と、手前に二基の石塔が立っていた。
浅間大神塔 文政12(1829)片岩の上部に日月雲を線刻。中央に「浅間大神」その背面に造立年月日、鹿室村と刻まれている。下の台の正面には〇の中に小 講中。右脇に講頭とあり七名の名前。左に龍沢山寶國寺とあり続けて七名の名前が刻まれていた。
台の左側面に二十を越える名前が刻まれている。鹿室村の講中の人びとだろう。
右側面には江ヶ崎村から三名、裏慈恩寺村一名、大田新井村一名、最後に奉納とあり斎藤氏の名前が見える。江ヶ崎村は鹿室の西の地域で現在の蓮田市、大田新井村は北の白岡市、裏慈恩寺村は東の村ということで、周辺の地域の村々の交流の様子がうかがわれる。斎藤氏は台の正面に見える講頭と姓が同じで、村の有力者であることは間違いなく、村の中で特別な扱いを受けるような「ご隠居さん」のような人かもしれない、などと勝手に想像してみる。
浅間大神塔の右手前 石尊大権現塔 嘉永3(1850)正面「小御嶽石尊大権(現)」右脇に造立年月日。左脇に鹿室村中。
左手前 弥勒菩薩塔 嘉永3(1850)正面「弥勒菩薩」右脇に造立年月日。左脇に鹿室村中。この二基は石塔の様子、文字などから同時に奉納されたものと思われるが、後ろの浅間大神塔との関連はないようだ。
隣 馬頭観音坐像 安永5(1776)塔の正面上部を舟形に彫り窪めた中に見事な馬頭観音坐像を浮き彫り。六臂慈悲相、馬口印を結び柔らかな微笑みを浮かべている。下部に「観世音菩薩」左脇に施主 鹿室村中と刻まれていた。
塔の左側面に銘は確認できない。右側面に造立年月日が刻まれている。
一番奥、生垣の中に千手観音坐像 宝暦4(1754)正面上部に千手観音坐像を浮き彫り。その下に「奉造立観音講中施主三十五人」両脇に造立年月日。さらに下部両脇に武州埼玉郡 鹿室村と刻まれていた。
資料に従って千手観音としたが、本当のところはどうだろう?石塔のほうにそれらしい銘は見えず、石像の様子から判断するしかないのだが、頭上に阿弥陀如来の化仏を頂き八臂。持物は戟、法輪、鈴、壺?、弓、矢、前の手は合掌。千手観音は実際に千本の手を表現するのは難しく、十一面四十二臂とするものが一般的であるという。この坐像の観音様の場合、頭上には阿弥陀如来の坐像が見られるが、それ以外の仏面は見当たらない。多臂の観音像となると他には馬頭観音と准胝観音が考えられるが、馬頭観音らしい特徴は見えず、また准胝観音は正面の左右の二手が説法印
を結んでいるのが特徴だということで、合掌しているこの観音様はやはり千手観音ということになるのだろうか。
塔の右側面、庭木のために確認できなかったが、資料によると是より右 じおんじ道とあるらしい。左側面には 是より左かすかべ道と刻まれていた。
鹿室自治会館南住宅 岩槻区鹿室900付近
鹿室自治会館のすぐ先の道を西に曲がって100mほど歩くと、右側の住宅の生垣の中に二基の庚申塔が立っていた。
二基の庚申塔は側面が見えず、造立年月日などは不明。石塔の規模、文字など、非常に良く似ていて、上部に日月雲を線刻。その下に「庚申塔」と彫られている。たまたまこちらのお宅のご主人にお話を聞くことができたが、この集落には全部で八軒のお宅に庚申塔があったということで、そのうちの何軒かは家が途絶えてしまい、その折に庚申塔を預かり一緒にお祀りしているという。
その二軒先のお宅にも二基の庚申塔が立っていた。
近づいて見ると、こちらは「庚申塔」の文字の位置から考えて右の庚申塔のほうが大きく、やはり二基のうちどちらかは預かったものなのだろう。
左の庚申塔は銘が確認できない。右のほうは正面両脇に嘉永4年(1851)の紀年銘が刻まれていた。
県道65号線鹿室バス停付近 岩槻区鹿室932付近
県道65号線に出てまた少し南に歩くと左側、鹿室バス停付近の家の陰に小堂が立っている。
小堂の中 庚申塔 明和8(1771)正面上部に日月雲。その下に「青面金剛」下部には三猿が彫られていた。両側面は隙間が狭くいい写真は撮れなかったが、右側面に造立年月日、左側面には武州埼玉郡 願主 鹿室村郷中と刻まれている。