桜区五関

 

千貫樋水郷公園北路傍 桜区五関456向い[地図]


浦所街道の下大久保交差点から県道57号線を北上、次の信号交差点を過ぎてすぐ先を斜め左に分かれる道は荒川左岸の土手に向かう道である。この道の入口あたり、道路右側の歩道の隅に小堂が立っていた。中には二基の石塔が並んでいる。


右 馬頭観音菩薩塔 享保6(1721)舟形光背に慈悲相二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。光背は一部欠けていた。頭上の梵字は観音菩薩の「サ」ではなく、勢至菩薩の「サク」のように見える。光背右脇に「爲馬菩提也」左脇に造立年月日。江戸時代初期の馬頭観音塔だが、こちらは馬の供養塔である。


光背右下、施主 武州、左下に五関村とあり、二名の名前が刻まれていた。


左 庚申塔 享保201735)舟形光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。石材は比較的粗い。


足元にうずくまる大型ン邪鬼はドングリまなこですごむ。その下に三猿。両脇が内を向く構図だが、両足を投げ出しやや後ろに反るように座っていた。


塔の右側面に造立年月日。その下は銘か石の傷か自信がない。左側面は隙間がせまくうまく読み取れなかった。

浦和北高校グラウンド南 桜区五関557前[地図]


荒川土手に向かう道を進み途中右折して細い道を下った先、浦和北高校のグラウンドの南に石塔が並んでいる。「馬頭観世音菩薩塔」と書かれた柱が立っているが、その右脇の地蔵菩薩塔は墓石だった。


七基の馬頭観音塔は文字塔で施主は個人。右端から明治30(1897)、明治18(1885)、明治25(1892)の紀年銘。馬の命日だろう。


続いて明治19(1886)、次は明治15(1882)と明治22(1889)の二つの紀年銘。施主も二名で、二頭の馬の供養塔を一緒に造立したもののようだ。さらに明治27(1894)六基の馬頭観音塔はいずれも明治時代の造立だった。


左端 雨除けの下に馬頭観音塔 延享3(1746)隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、中央、梵字「ア」の下に「馬頭觀自在菩薩」両脇に造立年月。右下に施主とあり左下に一名の名前。五関村の道々にあった馬頭観音塔が集められたのだろうがこちらだけが江戸時代中期のものだった。

浦和北高校入口北三差路 桜区五関606[地図]


県道57号線に戻り、北へ進むと右手に大久保中学校、左手に浦和北高の入口がある。そのすぐ先に斜め左に入る道があり、その三差路から左に入った角のところに石塔が立っていた。


庚申塔 文化8(1811)四角い台の上、角柱型の石塔の正面「庚申塔」その下に五関村 講中。


塔の右側面に造立年月日。その下に世話人四名の名前が刻まれている。


左側面 東 よのみち、南 はねくら 大山道。道標になっていた。

 

東福寺 桜区五関849[地図]


県道57号線、大泉院通りとの交差点「大久保小歩道橋」の100mほど南、JAさいたまの北の路地を西に入ってゆくと東福寺の入口がある。正面に本堂、右手には五関会館が立っていた。


入口すぐ右脇、五関会館をバックに三基の石塔が南向きに並んでいる。


右 庚申塔 延宝4(1676)大きな駒型の石塔の正面、上部に日月雲。中央を彫りくぼめた中 青面金剛立像 合掌型六臂。塔の下部には蓮の花が彫られていた。


上部の梵字は薄くなっていてわかりにくいが「ウン」か?おとなしげなお顔の青面金剛。持物は矛・法輪・弓・矢。像の右脇「奉供養建立植田谷五関村相供養也」前後に「供養」が入るのは珍しい。あるいは「奉供養建立」でわかれるのだろうか?左脇に造立年月日。その下に願主 東福寺 敬白。


足元に脱力した小ぶりな邪鬼。顔の様子ははっきりしない。その下に正面向きの菱形の三猿が彫られている。


中央 宝篋印塔 宝永2(1705)江戸時代初期、外反する隅飾の笠の上に発達した相輪をのせた宝篋印塔。塔身の四面に四仏を梵字で表す。


基礎の右側面に「宝筐印陀羅尼経曰・・・」ではじまる偈文。


偈文は正面に続き、左のほうに妙法蓮華経壹千部誦と刻まれていた。


基礎の左側面の銘文は光明真言五百萬遍で始まる。左端に造立年月日。


裏面 武□植田谷郷五関村 施主惣檀中。その左、やや小さい字で修補敷石光明真言講中。続いて安永9(1780)年の紀年銘。さらに現住覚栄と刻まれていた。この部分は後刻されたものだろう。1705年に創建された宝篋印塔、光明真言供養塔を兼ねていたものと思われる。桜区新開の真光寺にも同じような宝篋印塔があった。75年後に同じく光明真言講中によって補修されたものということになるのだろうか。


左 石橋供養塔 安永3(1774)二段の四角い台の上、大きな角柱型の石塔の正面、阿弥陀三尊種子の下「石橋供養塔」両脇に造立年月日。これまでも多くの石橋供養塔を見てきたが、これほどの規模の堂々たる石橋供養塔はなかなか見かけない。


塔の右側面 細かい文字でびっしりと銘が刻まれていた。


銘は全部で20段以上にわたり、下大久保村から圓阿弥村、笹目村、遊馬村、二之宮村、嶋根村など二十以上の村名があり、それぞれに寺名や個人名が刻まれていた。石橋の建立にかかわったお寺、村人の数は合わせて100を超す。


右側面上部には勧進邑々とあり、その下に塚本邑、宿邑、在家邑、嶋根邑、三条町邑など近隣から始まって、宝来邑、峯岸邑など西区の北の地域の村の名前も見える。


南に下って、大宮区、中央区、桜区の南部の村々、続いて美女木、笹目など戸田市の村、上宗岡、下宗岡、飯田新田、上下新田など荒川を越えた西の村まで、多くの村の名前が刻まれていた。石橋の建立は木の橋や土橋に比べて費用がかかり、多くの人たちやお寺の協力が必要だったことだろう。また石橋は交通量の多い街道筋に架かっていたために、それを利用するかなり広い範囲の村々もその石橋建立に助力したということだろう。


塔の裏面 梵字三文字「南無遍照金剛」その下に供養導師金剛山林光寺法印覺譽。右脇に武刕足立郡五関村、左脇に個人名。東福寺は林光寺の末寺。並んで刻まれているのは五関村の有力な名主か?


下部に發願主 法喜院本了比丘、密乗院瑞雲秀光法尼。再願主 二名の名前。さらにその脇に並郷中。左下に石工 與野町 平左衛門、川口町 長四良と石工も二名の名前が刻まれていた

 


五関会館の裏、防災倉庫の前に石塔が並んでいた。前列は五基の卵塔、歴代住職の墓石だろう。


後列に六基の石塔。右から見てゆこう。右端 地蔵菩薩立像 寛永17(1640)鋭角的な舟形光背に頭の上まで伸びる長い錫杖を手にした地蔵菩薩像を浮き彫り。光背右脇に法印権大僧都とあり、住職の墓石。


その隣 大日如来立像 貞享4(1687)舟形光背に智拳印を結ぶ金剛界大日如来像を浮き彫り。こちらも光背右脇に法印権大僧都とあり、やはり住職の墓石だった。


続いて庚申塔 安永6(1777)四角い台の上、角柱型の石塔に丸彫りの地蔵菩薩立像。江戸時代初期では地蔵菩薩を主尊とする庚申塔も珍しくはないが・・・


石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「庚申供養塔」右脇に八十八箇所第十一番、左脇に阿波國藤井寺移。願主 郷中。庚申塔であり、四国移霊場標石でもある。


塔の右側面に造立年月日。左側面 中央に當山本尊薬師如来。両脇に瑠璃山 東福寺。こちらは寺標を表す。


裏面に開眼供養導師 金剛山林光寺。続けて傳燈大阿闍梨法印覺譽。前回見た入口近くに立つ石橋供養塔の開眼供養導師と同じ名前である。脇に小さく現住 覺秀代と刻まれていた。


その隣 回国供養塔 文化15(1818)粗彫角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「奉納神社佛閣日本囬国供養塔」右脇に天下泰平 左脇に日月清明。塔全体に白カビが目立つ。右側面に造立年月日。左側面に行者浄念と刻まれている。


続いて 庚申塔 明和元年(1777)四角い台の上、隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「庚申供養塔」両脇に造立年月日。


右下に植田谷領五関村、左下に願主九人と刻まれていた。


左端 道祖神塔 安永3(1774)隅丸角柱型の石塔の正面中央に「道祖神」両脇に造立年月日。左側面に願主 法印権大僧都賢空。


右側面には武州足立郡五関村と刻まれている。

五関会館の裏、防災倉庫の前に石塔が並んでいた。前列は五基の卵塔、歴代住職の墓石だろう。


後列に六基の石塔。右から見てゆこう。右端 地蔵菩薩立像 寛永17(1640)鋭角的な舟形光背に頭の上まで伸びる長い錫杖を手にした地蔵菩薩像を浮き彫り。光背右脇に法印権大僧都とあり、住職の墓石。


その隣 大日如来立像 貞享4(1687)舟形光背に智拳印を結ぶ金剛界大日如来像を浮き彫り。こちらも光背右脇に法印権大僧都とあり、やはり住職の墓石だった。


続いて庚申塔 安永6(1777)四角い台の上、角柱型の石塔に丸彫りの地蔵菩薩立像。江戸時代初期では地蔵菩薩を主尊とする庚申塔も珍しくはないが・・・


石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「庚申供養塔」右脇に八十八箇所第十一番、左脇に阿波國藤井寺移。願主 郷中。庚申塔であり、四国移霊場標石でもある。


塔の右側面に造立年月日。左側面 中央に當山本尊薬師如来。両脇に瑠璃山 東福寺。こちらは寺標を表す。


裏面に開眼供養導師 金剛山林光寺。続けて傳燈大阿闍梨法印覺譽。前回見た入口近くに立つ石橋供養塔の開眼供養導師と同じ名前である。脇に小さく現住 覺秀代と刻まれていた。


その隣 回国供養塔 文化15(1818)粗彫角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「奉納神社佛閣日本囬国供養塔」右脇に天下泰平 左脇に日月清明。塔全体に白カビが目立つ。右側面に造立年月日。左側面に行者浄念と刻まれている。


続いて 庚申塔 明和元年(1777)四角い台の上、隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「庚申供養塔」両脇に造立年月日。


右下に植田谷領五関村、左下に願主九人と刻まれていた。


左端 道祖神塔 安永3(1774)隅丸角柱型の石塔の正面中央に「道祖神」両脇に造立年月日。左側面に願主 法印権大僧都賢空。


右側面には武州足立郡五関村と刻まれている。

 

大久保小学校北三差路 桜区五関38[地図]


県道57号線を北へ進み、大泉院通りとの交差点の先、大久保通りの北から斜め右に入る細い道に入ると、左側路傍に小堂が立っている。


小堂の中 庚申塔 享保8(1723)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。蛇を頭に乗せ、持物は矛・法輪・弓・矢。


足元に邪鬼・二鶏の姿は無く三猿だけが彫られていた。真ん中の聞か猿は足をM字に広げて正面向きに座り、左右の猿は内向き、右の見猿は大きく足を投げ出して座っている。


塔の右側面「奉造立青面金剛庚申供養所」


左側面は小堂の側面の壁板の隙間からのぞく。上部に造立年月日。


下部に五関村講衆女人中敬白と刻まれていた。