観音寺 桜区宿147[地図]
県道57号線、江川排水路脇の道路との信号交差点の南東に観音寺がある。入口の先に市の指定文化財になっている四脚門、左奥に同じく市の指定文化財かや葺き屋根の「観音堂」がたっていた。
四脚門の左手前 地蔵菩薩立像
天明(1785)二段の台の上に角柱型の石塔、さらに敷茄子蓮台に丸彫りの地蔵菩薩像。3m近い堂々たる地蔵菩薩塔である。
石塔の正面に戒名が二つ。左側面に紀年銘。願主は當所とあり、個人名だった。
向き合うように地蔵菩薩立像
寛政11(1799)向いの地蔵塔とほぼ同じような様子である。
角柱型の石塔の正面中央に戒名。両脇に命日が刻まれ、施主二名の名前が刻まれていた。二基の地蔵菩薩塔、この規模の石仏が個人の造立というのはあまりなく、寺域の入口に立っていることからも、お寺とかかわりの深い家のものなのかもしれない。
山門を入ってすぐ、参道右脇に四基の石塔が並んでいた。右端の水子地蔵塔は昭和33年造立の新しいものである。
右から2番目 地蔵菩薩塔
延享2(1745)大きな四角い台の上、角柱型の石塔に敷茄子、蓮台を重ね、丸彫りの地蔵菩薩立像。こちらも3m近い。白カビはあるものの欠損はなく保存状態はよい。
石塔正面中央に信士戒名、両脇に命日。左側面に武刕植田谷領宿村
観音寺十七世□譽代。やはりお寺にかかわりのある墓石なのだろう。
その隣 雨除けの下に庚申塔
元禄12(1699)大きな宝珠を乗せた唐破風笠付き角柱型の石塔の正面に六臂の青面金剛立像を浮き彫り。六臂といっても体の前の手はなく、三組の腕はいずれも体の横につく珍しいデザインで、合掌型でも剣・ショケラ持ちでもない。
石塔の表面は風化のためかやや粗くなっている。像の右脇の銘はうまく読めなかった。左脇に造立年月日。持物もいたってユニークで上の手は右手に法輪、左手に幅広な矛。一般的なものと左右が逆になっている。
二番目の手には弓と鏑矢。三番目、右手にショケラ、左手に鈴を持つ。青面金剛の足の両脇に二鶏を半浮き彫り。足元に邪鬼の姿は無く、丸っこい三猿だけが彫られていた。このあたりいかにも元禄期の青面金剛像塔らしく個性的だ。
塔の右側面中央に法譽□山
宿村とあり、その下に四名の名前。左側面にもまた四名の名前が刻まれていた。
左端 地蔵菩薩塔
享保6(1721)二段の台の上、厚い敷茄子・蓮台に丸彫りの地蔵菩薩立像。風化が全く見られず、彫りも細かく残っている。眉目秀麗、きりっとした表情の尊顔は美しい。
上の台の正面に宿村 講中
男女。左側面に施主名。右側面に造立年月日が刻まれていた。
さらにそのさきに五基の石塔が並んでいる。延宝、元禄二つの紀年銘のある板碑型墓石。「三經一千部供養三親菩提」と刻まれた明和2年の供養塔。正面中央に「南無阿弥陀佛」と彫られた寛文元年の紀年銘がある大きな唐破風笠付きの円筒形の石塔。中央に「南阿弥陀佛」とあり両脇に法尼、首座と戒名が刻まれた明治19年の自然石の名号塔。側面に戒名が刻まれた地蔵菩薩像塔。いずれもお寺にかかわりのある墓石、供養塔らしい。
参道左には丸彫りの地蔵菩薩立像 明和5(1768)と自然石の名号塔
明治8(1875)が並んでいた。
本堂の前から西へ進むと突き当りに歴代住職の墓地がある。中央に丸彫りの地蔵菩薩塔、周りには卵塔と五基の地蔵菩薩塔が立っていた。
中央 釘念仏供養塔 万治3(1660)二段の台の上
角柱型の石塔に敷茄子、蓮台を重ねてその上に丸彫りの地蔵菩薩塔。3m近い重制の丸彫り地蔵菩薩塔と言えば享保期に多く見られるが、万治年間としてはたぶん最大級と言えるのではないだろうか。
上の台の正面に「釘念佛供養」2013年に見たときから「釘念仏」は私には初見であったが、その後も目にすることはなかった。あらためて調べてみると、「栃木県日光市・旧寂光寺に伝わる念仏。地獄に落ちた亡者は四十九日の間に四十九本の釘を身体に打ち込まれるという。現世に生きている間に、四十九万遍の念仏を称えることによって、釘を打ち込まれる苦しみから逃れられる。」(浄土宗大辞典より)石塔の正面に「當寺開山
霊誉玉念」
塔の両側面に二世-三世上人の名前。裏面に願主として四世上人
寂誉圓暦の名前が刻まれていた。
その後ろに五基の地蔵菩薩塔、いずれも歴代住職の墓石である。左から地蔵菩薩塔
享保12(1727)八世上人の墓石。塔全体に白カビが厚く覆っている。
その隣 地蔵菩薩塔
享保20(1735)丸彫りだが大きな欠損は見られない。石塔の正面に「當寺 七世 用誉上人」右側面に紀年銘が刻まれていた。
続いて 地蔵菩薩塔
正徳3(1713)こちらは六世上人の墓石。舟形光背も鋭角的になる。
右から2番目 地蔵菩薩塔
元禄5(1692)五世上人の墓石。光背左脇、紀年銘の下に武刕足立郡植田谷領宿村と刻まれていた。
右端 地蔵菩薩立像 万治3(1660)墓地中央の釘念仏供養塔の願主
四世寂誉上人の墓石。柄の長い錫杖が目を引く。
本堂の西に広がる墓地の中央あたり、川崎家の墓所の入口に二基の石塔が並んでいた。
左は板碑型の墓石。塔の下部と、下の台の正面に蓮の花が彫られている。
中央
梵字「キリーク」の下に来迎印を結ぶ阿弥陀如来立像を線刻。右脇に法印、左脇に法尼戒名。枠にそれぞれ慶安5(1652)承応2(1653)の命日。さらに下部に施主 宿邑 川崎勘兵衛と刻まれていた。ご夫婦ともに出家、僧籍にあったということだろうか?または川崎家がそういった「家」だったのだろうか?
右 宝篋印塔
寛永18(1641)高さ約2.5m。著しく発達した相輪と外反する隅飾。江戸時代初期の典型的な宝篋印塔。相輪の上部に「空」相輪中央、正面の花弁に「風」隅飾下部正面に「火」塔身正面に「水」基礎正面に「地」と五輪塔のような銘「五大」が刻まれている。
塔身部「水」の右脇に「光明遍照十方世界」左脇に「念仏変□□□不□」
基礎の正面「地」の下に「二世安樂攸」右から関東武蔵州足立郡 大久保郷宿村内 右所志者
爲妙□精霊菩提也。左に紀年銘。さらに河﨑太郎右衛門 □施本願 敬白と刻まれていた。
さて、観音寺に以前あった二基の石仏を、今は見ることができない。
観音堂の西、墓地に向かう途中にたくさんの無縁仏が集められていた。上の写真は2013年12月に撮影されたもの。この無縁仏塚の中に二基の貴重な石仏があった。
こちら善光寺式阿弥陀三尊像 寛延元年(1748)この形で現存しているものはあまり見かけず、貴重な石仏と言えるだろう。2013年当時私はもう一つの石仏を確認できなかったが、酒井 正さんの石仏ノートにその様子がしっかりと残されていた。
大乗妙典供養塔 正徳5(1715)舟形光背に円光背を負った阿弥陀如来立像を浮き彫り。造立年も古く、こちらも貴重な石仏といえる。
数年前に再訪したときには以前あった無縁塔塚は新しく整備されていた。ご住職にお尋ねしたところ、積み上げられていた無縁仏は土の中に埋められたとのこと、お寺にとっては増えてゆく無縁仏をいつまでもほおっておくことはできず、こういった処置も致し方ないことと思う。その姿を見ることができないのは大変残念だが・・・
阿弥陀堂墓地 桜区宿128[地図]
宿の観音寺の約300m南、県道57号線を横切った先の住宅街の中に阿弥陀堂母地がある。狭い路地の先に阿弥陀堂が立ち、その向かいに石塔が並んでいた。
北向きに並ぶ石塔の右端 庚申塔 宝暦6(1756)笠付き角柱型の石塔の正面
青面金剛立像 合掌型六臂。笠は色も違っていて、本来のものではないかもしれない。
白カビが多く風化も進んでいて、顔はつぶれていた。持物は矛・法輪・弓・鏑矢。
足の両脇に二鶏。足元に白カビにまみれた邪鬼が出下座スタイルでうずくまる。その下に三猿。両脇が内を向く構図だが、左の猿は正座、右の猿は足を曲げて腰掛けるというのはユニークだ。
塔の右側面に「石橋供養村内男女」庚申塔の銘としてはこれまで見たことがない。庚申塔が石橋供養塔を兼ねること自体が珍しいというべきか?
左側面に造立年月日。その下に施主とあり名前が刻まれているように見えるが、カビも多くいまひとつはっきりしなかった。
続いて二基の地蔵菩薩塔と六地蔵塔。いずれも白カビが多く状態は良くない。
右 地蔵菩薩塔
宝暦6(1756)舟形光背に錫杖・宝珠を手にした地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背左脇に造立年月日。右脇に「托鉢供養佛」とあるが、「托鉢供養」というのは初めて見る。
その隣
丸彫りの地蔵菩薩立像。風化が進み、全体に破損が著しい。
像の中央、胸から下の部分がすっかり剥落。宝珠を持つ左手も崩れ落ちたらしく、錫杖の先の部分だけがかろうじて残っていた。お地蔵様の尊顔はやさしげで静かな表情、痛々しい。
角柱型の石塔はほぼ原形をとどめず、四面ともに銘は見当たらない。下の台の上に剥落した宝珠が残されていた。
六地蔵塔も銘は確認できず造立年など詳細は不明。六体ともに頭部は補修されたものらしいが、なにかしっくりせず、不釣り合いの感じがする。
阿弥陀堂の左脇、西向きに大きな地蔵菩薩立像
寛政12(1800)四角い台の上に反花付きの台を重ね、角柱型の石塔、敷茄子、蓮台に丸彫りの地蔵菩薩像。合わせると3m近い堂々たる地蔵菩薩塔。保存状態もよく欠損もない。
角柱型の石塔の正面に「先祖代々
一切精霊」敷茄子と台の正面に花が彫られていた。
塔の右側面に造立年月日。左側面に施主當所とあり、個人名が刻まれている。江戸時代も後期とはいえ、これだけの立派な像塔が個人の力で造立されたものだろうか?
大久保神社 桜区宿69[地図]
観音寺から東へ200mほど、大久保神社の東の路傍に石塔が立っていた。
如意輪観音塔。舟形光背に二臂の如意輪観音坐像を浮き彫り。下の大きな四角い台は本来のものではないようで、紀年銘などは見当たらなず詳細は不明。光背は風化のために縁がくずれ、観音様の尊顔は剥落、光背の銘も一部が欠けていた。右脇に(一)佛成道觀見(法界)、左脇に草木國土悉皆成佛。調べてみると「中陰経」というお経の一部らしい。造立年も由来もわからないが、前掛けも新しいものに換えられていて、いまでも大事にされているようだ。