浦和区 上木崎

赤山街道北路傍 浦和区上木崎4-11-22[地図]


北浦和から県道164号線、旧中山道を北上して大原陸橋東交差点を右折、細い道を直進して500mほど先で赤山街道に突き当たる。赤山街道に入ってすぐ先を斜め左に入ると、道路左側、ブロックに囲まれて石塔が立っていた。


庚申塔 元禄15(1702)四角い台の上の大きな駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


日月雲は半浮き彫り。頭上にとぐろを巻いた蛇をのせる。像の右脇「奉庚申待二世安樂」左脇に造立年月日。


小さなショケラをかなり低い位置にぶら下げ、その脇あたりに二鶏。足元に白カビにまみれた貧弱な邪鬼が横たわり、その下に正面向きに三猿が並ぶ。三猿の右脇に木崎領、左脇に上木崎村と刻まれていた。

正福寺 浦和区上木崎7-19-1[地図]


県道36号線産業道路の上木崎四丁目交差点から東へ向かう県道1号線の支線に入り次の新五王交差点を左折、200mほど進むと右側に正福寺の入口がある。


境内に入ってすぐ左側、入口近くのブロック塀の前に小型の板碑が集められ、その横に石塔が立っていた。


足立百不動尊標石 明治35(1902)角柱型の石塔の正面上部に不動明王坐像を浮き彫り。


火焔の光背の前に長い剣と羂索を手にした不動明王。江戸時代後期に多くみられる成田山不動明王のような力強さ、躍動感はない。


不動明王像の下、中央に足立百ヶ所之内「第拾貳番 光珠山 正福寺」右脇に字領家 長覺院へ拾三丁。左脇に字北袋 景元寺へ三丁余。百不動尊、前後の霊場への里程標になっている。


塔の右側面に造立年月日。左側面 施主 上木崎村とあり個人の名前が刻まれていた。

相之谷堂 浦和区上木崎7-15-3[地図]


上木崎四丁目交差点から県道1号線の支線を東へ、初めの信号交差点を左折すると正福寺、次の信号交差点を左折して200んほど先、道路右側に相之谷堂の入口がある。


境内に入ってすぐ左、ブロック塀の裏に六地蔵塔 宝暦5(1755)が並んでいた。きれいな舟形光背に浮き乗りされた六体の地蔵菩薩立像は顔もよく揃っていて、いかにも「六地蔵」という感じがする。


光背の銘はほぼ同じ。こちら右の三基だが、右端が基本形。光背右脇に造立年月日。左脇に上木崎村。左の三基の光背の銘はみなこの基本形。右から二番目の銘は上木崎村の下に願主宗心が加わり、三番目は願主の代わりに圎誉となっている。



境内の中頃、本堂の正面に宝珠をのせた大きな笠付き角柱型の地蔵菩薩塔 享保(1722)が立っていた。


正面を舟形に彫りくぼめた中に地蔵菩薩立像を浮き彫り。白カビがびっしりとこびりつき様子が分かりにくいが、地蔵像の両脇に童子、童女戒名が刻まれている。墓石だろうか?


周りを他の石塔に隙間なく囲まれていて側面の銘も見にくい。塔の右側面中央に供養施主萬人講六千三百三十二人。両脇に四つの戒名が並ぶ。「万人講」は以前から目にしていて人数の多い講、広い範囲の人たちで立ち上げた講というように思っていたが、「万人講供養」というのも見たことがあり、本当のところどういう講なのだろう?


左側面中央に武州足立郡木崎領上村。両脇に造立年月日。紀年銘の最後が吉祥日となっているので墓石ではないようだ。ふと気が付くと裏面にも何か銘が刻まれている


裏面を彫りくぼめた中に「奉納大乗三部六十六部・・・・・」両脇に天下泰平・日月清明。こちらが表面ならこの石塔は「大乗妙典供養塔」あるいは「納経供養塔」などと考えられるが、地蔵菩薩像が彫られた面が裏面というのも不自然な気がする。どう考えたらいいのだろう?いずれにしても珍しい石塔である。


その左脇に馬頭観音塔 元禄2(1689)舟形光背に馬口印を結ぶ二臂の馬頭觀世音菩薩立像を浮き彫り。光背右脇に「馬頭観音」左脇に造立年月日。右下に施主、左下に敬白。


馬頭観音像塔としては最も古いものと言えるだろう。白カビはあるものの風化はほとんど見られない。頭上の馬頭も明快。像全体のバランスもよく格調高い立ち姿、尊顔も気品があふれていた。