明圓寺 浦和区大東1-7-13[地図]
産業道路の浦和領家郵便局のすぐ南の信号交差点から東へ入る。300mほど先に明圓寺があった。入口手前左脇、ブロック塀の前に石塔が見える。
子安地蔵菩薩塔
明治26(1893)右手に宝珠、左手に幼子を抱えた丸彫りの地蔵菩薩坐像、もう一人の幼児がすがりつく姿が切ない。
台の正面に二つの紀年銘。右のほうは脇に童子戒名があり命日、左が造立年月日。願主は個人名が刻まれていた。
境内に入って左側、墓地の入口に無縁塚と小堂が立っている。小堂の中の六地蔵は比較的あたらしいものだった。
多くの墓石が立ち並ぶ中、左端の中ほどに普門品供養塔
文化5(1808)前の石塔が密着していて全体は見えないが正面に「普門品一・・・・」読誦供養塔と思われる。
塔の右側面に造立年月日。左側面に武刕足立郡領家村講中と刻まれていた。
最後列やや右 大日如来塔
寛政5(1793)笠付き角柱型の石塔の正面を深く彫りくぼめた中、上部に智拳印を結ぶ金剛界大日如来坐像を浮き彫り。小さいながらもしっかりとした彫りである。その下に「大日如来」
塔の左側面は無銘。右側面に造立年月日。達筆でにわかには読み取れなかった。
神明神社東住宅 浦和区大東1-29[地図]
明圓寺の北から東へ100mほど進むと道路右手に神明神社がある。その先の大東自治会館の角を右折、すぐ道が左右に分かれるが、斜め左の道に入り、次の交差点を右に曲がった角に小堂が立っていた。
庚申塔
寛政元年(1789)四角い台の上の大きな唐破風笠付き角柱型の庚申塔。台の正面に三猿。
石幢の正面を彫りくぼめた中、梵字「ウン」の下に「庚申供養塔」
塔の右側面に造立年月日。右脇に再建立とある。創建はいつだろう?
左側面に武州足立郡木崎領東領家村。その下に世話人、願主各一名の名前があり、続いて講中廿四人と刻まれていた。
台の正面に彫られた三猿がユニーク。頭部が小さくスマートな三猿。両脇の猿が内を向くが、中腰で宙に浮いているような姿勢、これでは後にひっくり返る。
木崎中学校北三差路 浦和区大東2-4-3[地図]
北宿通り、木崎中学校の東の押しボタン信号交差点から北に入り、狭い道を道なりに300mほど進むと、三差路に小堂が立っていた。小堂の中には四基の石塔が並んでいる。
右から 庚申塔
宝永3(1706)宝珠をのせた唐破風笠付き角柱型の庚申塔。
石塔の正面を二段に彫りくぼめた中、梵字「ア」の下に「奉供養庚申待之塔」右脇に造立年月日。左脇に武刕足立郡木崎領東領家村。下部に蓮華が美しく浮き彫りされていた。
両側面にも蓮華が浮き彫りされ、その間に銘が刻まれている。右側面、右端に施主とあり続いて七名の名前。
左側面に六名の名前、合わせて講中13名になる。
その隣 念仏供養塔
正徳元年(1711)舟形光背に地蔵菩薩坐像を浮き彫り。光背上部が大きく欠け、縁はところどころ破損、ギザギザになっていた。
輪光背を負ったお地蔵様。宝珠を持つはずの左手が欠けている。光背右脇「奉建立念佛講爲二世安樂也」左脇に造立年月日。その下に領家村施主十三人と刻まれていた。
続いて百万遍供養塔
文政8(1825)四角い台の上の角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、舟形光背に来迎印を結ぶ阿弥陀如来立像を浮き彫り。風化が進み塔の中ほどに断裂跡が残っている。足元の台の形が面白い。
塔の右側面に造立年月日。左側面「百万遍供養塔」その下に領家村東組
女人講中二十一人と刻まれていた。
左端 如意輪観音坐像
造立年不明。塔の上部が欠けているが舟形光背か?塔の縁も欠け、如意輪観音は顔が削れている。像、台ともに銘は見当たらず詳細はわからないが、おそらく台が本来のものではないのだろう。
大東不動堂 浦和区大東2-3[地図]北
四基の石塔が並ぶ小堂の三差路の向い側、ブロック塀に囲まれた塚の上にお堂が立っていた。
お堂の中に不動明王坐像
造立年不明。お堂にはしっかりと鍵がかかっていて、扉の格子越しに撮った写真は鮮明というわけにはいかない。火焔の光背の前に剣と羂索を手に座る忿怒相の不動明王。衣装など一部彩色されていた。
台の正面に制吒迦童子と矜羯羅童子。この不動三尊形式は江戸時代中期以降「成田山不動」でよく見られる。紀年銘はないが江戸時代後期の造立か?
石塔の正面に東組 講中と刻まれていた。
不動堂の右脇に小堂が立っている。
小堂の中 大日如来坐像
正徳4(1714)舟形光背に智拳印を結ぶ金剛界大日如来を浮き彫り。顔はつぶれていてのっぺらぼう。光背両脇に造立年月日。右下に領家村、左下に施主とあり個人名が刻まれていた。
大東北児童公園富士塚 浦和区大東3-17[地図]
木崎方面から大東方面に至る県道1号線の支線が赤山通りと合流する交差点に大東北地蔵公園がある。公園内の富士塚の頂上に石塔が立っていた。
フェンスに囲まれクマザサの生い茂る中に庚申塔
文化14(1817)四角い台の上の大きな唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。クマザサのために台はほとんど見えない。
彫りは細部まで丁寧で華やか。三眼の青面金剛の頭上、怒髪の先にのぞいているのは蛇の頭か?腕輪をした前の右手に剣を持ち、左手は合掌するショケラの髪をつかむ。残りの四臂の持物は三叉戟・法輪・弓矢。
足の両脇に小さな二鶏を半浮き彫り。足元の邪鬼はあおむけで、左足は腹部を右足はあごのあたりを踏まれていた。
塔の右側面、上部に諸願成就 郷中安全。下部右に西組助成二十人、中央に瀬ケ﨑 山﨑
講中五人、左に東組講中十八人。
左側面に造立年月日。右脇に武州足立郡領家村。下部に發願とあり二名、願主とあり一名の名前が刻まれている。
三猿は下の四角い台の正面に彫られていた。フェンスとクマザサのために写真は難しい。左端の言わ猿は片手で口を押え、右足を立て左足を投げ出してやや斜め内向きに座り、中央の聞か猿は足を開かずに両足をそろえて正面向きに座る。
右端の見猿は両手で目を覆い、やや外向きに直立、三猿は三者三様の姿勢で個性的だ。
台の左側面に八丁石工
兼左エ門と石工名が刻まれていた。石工名が刻まれた庚申塔は比較的少なく、自信作ということか。それだけの名作と言えるだろう。