浦和区 常盤

カトリック浦和教会 浦和区常盤6-4-12[地図]


さいたま市役所の西隣、通りに向かってカトリック浦和教会の入口は洒落た作りになっている。丸みを帯びた茶色の塀の中に石塔が立っていた。


キリシタン灯篭 造立年不明。10年前の取材時には市内で二基だけしかなかった希少なもので、織部灯篭ともいい、竿の形が独特。


竿の平らな表面を彫りくぼめた中に西洋風の衣装を着て合掌する人物の立像を浮き彫り。この立像がイエス・キリストであるとかマリア様であるとされ、竿の様子がこの灯篭を「キリシタン灯篭」と見立てる根拠となっているというが、定説とまではいかないようだ。

慈恵稲荷神社 浦和区常盤1-5-19[地図]


旧中山道を北へ進み、仲町交差点を越えて常盤公園の入口の少し先左手に慈恵稲荷神社の入口がある。道路に向かって神社の標石 大正14(1925)が立ち、その横に「浦和宿二・七市場跡」と記された白い標柱が立っていた。


長い参道の途中に 二・七市場定杭 天正18(1590)角柱型の石塔の正面「御免 毎月二七 市場定杭」古くから宿場町として栄えたこの地で、毎月2と7のつく日、合わせて月に6日、市が開かれたことがわかる貴重な石杭で、いままで似たようなものは見たことがない。


さらに進むと稲荷神社の石鳥居の右手前に石塔が立っていた。


庚申塔 天保13(1842)角柱型の石塔。下に二段の台、下の台はかなり土の中に埋まっている。


石塔の正面上部に日月雲と富士山を線刻。その下に大きく「庚申塔」


塔の左側面は無銘。右側面には富士山 大山 引又 道と刻まれていた。


下の台の正面 左側にかすかに文字が残っている。大部分は土の下に隠れているが、施主あるいは講員の名前が並んでいるのだろう。




台の左側面、右のほうに「星」「土」「中」正面同様、こちらの名前の一部、例えば星野、土屋、中村とか。中央に世話人とありその下に星(野)、田中あたり。最後に石工とあるが名前はこちらもすっかり土の中のようだ。

成就院 浦和区常盤1-4-23[地図]


慈恵稲荷神社のすぐ北に成就院の入口があった。舗装された長い参道が続く。


突き当りにお堂が立っていた。手前両脇に石塔が並んでいる。


左脇一番手前に丸彫りの大きな地蔵菩薩立像 享保7(1722)重厚な敷茄子と蓮台に堂々たる立像。下の台も合わせると総高3m近い。やはり享保年間の造立だった。欠損なく彫りもしっかり残っている。


下の台の正面 右に造立年月日。中央に四行「大圎薩道 十方衆生 爲二世行 願造立之」両側面は隙間がなく銘は確認できなかった。


その奥、参道脇に六地蔵庚申六面石幢 元禄7(1694)笠の色が違っていて、あとから補修されたものかもしれない。後ろに大小いくつかの石仏が並んでいる。
 

六面に六地蔵菩薩立像を浮き彫り。多少欠けている部分もあるが、細かい彫りも残っていて保存状態は悪くない。


円柱型の竿の正面を楕円形に彫りくぼめた中「奉造立六地蔵尊像庚申供養一結衆現當悉地所」六地蔵菩薩を主尊とする庚申塔ということになる。下部に武州浦和町とあり12名の名前が刻まれていた。



六面幢の裏 左から馬頭観音塔 造立年不明。駒型の石塔の正面に合掌する馬頭観音立像を浮き彫り。風化のためだろう、顔はつぶれていてはっきりしない。銘はどこにも見当たらなかった。


その隣 庚申塔 元禄9(1696)大きな唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を」彫りくぼめた中、梵字の下に「奉造立庚申供養塔 一結諸衆 二世安樂 之處 敬白」上部両脇に造立年月日。下部両脇に 現住 宥意。塔の下部に蓮華を線刻。塔の両側面にも立派な蓮の華が彫られていた。


一番奥の小堂の中 丸彫りの地蔵菩薩立像 造立年不明。バランスの良い立ち姿で欠損なく美しい。残念ながらこちらも銘は確認できなかった。


お堂の右手前に 六地蔵庚申六面石幢 元禄9(1696)左の六面石幢とほぼ同じ作りで、造立年は2年違うが一対のものと言えるだろう。


六地蔵菩薩が浮き彫りされた六面の石幢部分は、他の部分と色が違っていて、左の六面石幢の笠と同じようにやや黒っぽい。同時に修復されたものだろうか?六体の地蔵像はほとんど風化が見られず美しい状態を保っている。


竿の正面を彫りくぼめた中に「奉造立□庚申供養六地蔵尊現當悉地所」両脇に造立年月日。下部には11名の名前が刻まれていた。

成就院北駐車場隅 浦和区常盤2-10[地図]


旧中山道 成就院のすぐ北の信号交差点を左折、80mほど先を右折して北へ進むと、右手の駐車場の隅に石塔が立っている。


庚申塔 昭和2(1927)自然石の表の面の中央に「庚申塔」左脇に小さく造立年月日。その他の銘は確認できなかった。

国道17号線常盤九丁目交差点 浦和区常盤[地図]


国道17号線の常盤九丁目交差点、南東の歩道脇の植え込みの中に石塔が立っていた。


石橋・道普請供養塔 宝暦12(1762)角柱型の石塔の正面「奉造立石橋幷道普請供養佛」右下に願主 浦和町、左下に個人の名前が刻まれている。


塔の右側面に造立年月日。左側面には是より与の川越道と記され道標となっている。さらに下部にもかなり薄く文字らしきものが見える。近づいてみると、上町世話人施主中勧化村々施主中、石一本施主 白幡村 金子専吉、橋杭施主 椎名孫七と刻まれていた。橋や道の建設などの大きな事業は、周辺の村々の協力も必要だったのだろう。