埼玉会館西路地 浦和区高砂3-7-20[地図]
埼玉会館の西のコンビニのある路地に入り北へ進むと、左手のマンションの脇に小堂が立っていた。
馬頭観音塔
元禄2(1689)馬頭観音としてはかなり古い、貴重なものと言えるだろう。駒型の石塔の正面を深く彫りくぼめた中に二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。上部は唐破風笠風に細工されている。
頭上に馬頭。顔はつぶれていた。観音像らしくふっくらとした下半身で、江戸時代初期らしく素朴な印象。像の両脇に造立年月日。
足元の部分、浦和町
施主とあり個人名が刻まれている。このような市街地に江戸時代最初期の馬頭観音が残されていることは驚きだ。
玉蔵院 浦和区仲町2-13-22[地図]
国道463号線
旧中山道の浦和駅西口交差点から200mほど北を西に入ると、正面に玉蔵院の山門が立っていた。10年前は門を入り取材できたが、今回は柵が閉まっていて、どうやら封鎖されているようだ。
10年前の記事から、山門の先左側に三界万霊塔
享保3(1718)梵字「ア」の下に力強く「三界萬靈」三つの町の講中によって造立されたものだった。
さらに進むと車道の先に本堂に続く門が立っている。
門を入って左に折れると、左手の植木の中、竹垣を背にして大きな石塔が並んでいた。
左 胎蔵界大日如来坐像
宝暦5(1755)下から四角い台、反花付き台、角柱型の石塔、蓮台に坐像。総高250cm。
鋭角的な舟形光背上部に光明真言曼荼羅。その下に定印を結ぶ大日如来坐像を浮き彫り。堂々たるお姿は美しい。
角柱型の石塔の正面
中央に「検校覺明院殿翁了道大僧都」高僧の供養塔だろう。両脇の紀年銘は命日か。塔の右側面に先祖星野氏安藤氏一門 血脈之諸聖靈菩提と刻まれていた。
隣 宝篋印塔
寛延4(1751)外反する隅飾り、宝珠を欠くものの発達した相輪、四仏の種子を塔身の四面に刻み、総高約3mとこちらも雄大なスケールを誇る。
基礎に「經曰・・・」で始まる偈文が刻まれていた。
続いて真言宗八字名号塔
大正3(1914)二段の四角い台の上の角柱型の石塔の正面に「南無大師遍照金剛」上の台の正面に真言宗の法具である五鈷杵が彫られている。
塔の左側面には明治31年に北足立八十八ヶ所が創設された趣旨が刻まれ、有志の賛助を得てこの供養塔を造立したとあり、最後に造立年月日、続いて玉蔵院三十六世
少僧都 朝比奈秀玉と刻まれていた。
最後は拝礼供養塔
享和2(1802)二段の四角い台の上の角柱型の石塔の正面中央に「奉拝禮供養塔」上部に西國 四国 坂東 秩父、右脇に日本名山、左脇に神社佛閣。四国霊場と百観音霊場をあわせてともに順礼成就というのは偉業と言えるだろう。塔の右側面に造立年月日。施主は個人名。左側面に梵字で聖観音菩薩の真言が刻まれている。
その先には地蔵堂が建っていた。右手前に二基の地蔵菩薩塔が並ぶ。
右 寒念仏供養塔
正徳6(1716)経年のため風化が進み、光背の一部は欠け像も彫りの圭角が取れて丸くなっているが、その佇まいはどこか凄みを感じさせる。光背右脇「浦和下町童子四十人憑寒念佛造立之奉」左脇に造立年月日。
左 地蔵菩薩立像
元禄9(1696)右脇に戒名が刻まれていて個人の墓石。この時期にこのようなりっぱな石仏が一般にも造立されたことがわかる。もちろん一部の富裕な家に限られただろうが・・・光背が大きく欠けるが優美な立ち姿は気高い雰囲気を感じる。
門から境内に入って右側の奥、寺務所の手前に小さな石塔が立っていた。
標石
天正19(1591)粗彫り角柱型の石塔の正面「守護侍不入」玉蔵院は平安時代創建と伝えられる古刹で、江戸時代には御朱印状を拝領、真言宗関東十檀林の一つと称されたという。天正19年というとまだ豊臣秀吉の時代、玉蔵院の歴史を感じさせられた。