緑区中尾

大聖不動尊 緑区中尾237[地図]


国道463号線越谷街道の緑区役所北交差点の150mほど西、街道の南裏に大聖不動尊がある。入口はぐるっと回って南に回り込んだ先、正面に本堂が立っていた。


参道左側に小堂が立ち、中に六地蔵と大きな地蔵塔、その右脇に三基の石塔が並んでいる。


小堂の中 六地蔵菩薩塔 寛政10(1798)丸彫りの六体はよく揃っていた。蓮台の下の角柱型の石塔の正面、右から2番目に造立年月日。左から2番目には中尾村 不動谷戸と刻まれていた。


その隣 念仏供養塔 元禄7(1694)大きな蓮台の上に丸彫りの地蔵菩薩立像。江戸時代初期の古い石仏だが白カビはなく風化の様子も見られない。軽くうつむき加減な尊顔は理知的で美しい。


蓮台の右のほうに造立年月日。続いて「奉建立念佛供羪爲二世安樂也」中央上部に梵字「カ」


蓮台左に施主 當村 善男善女と刻まれていた。


小堂の脇の三基の石塔。左 庚申塔 元文5(1740)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


頂上が扁平な髪型、直角に曲がったユニークな二組の腕(H型)さいたま市内では十数基、緑区と見沼区(1基)に限って見られる「川口型庚申塔」である。さいたま市内の川口型庚申塔の造立年は享保4(1719)~宝暦2(1752)の33年の間で、1740年までは合掌型、1742年~1752年は鈴・ショケラ持ちと分かれる。


足元の邪鬼はずんぐりした猫がうずくまるような姿勢、頭が左で首をかしげるようにして正面を向く。その下に三猿。中央が正面向き。両脇は内を向き、足を投げ出すようにして体を後ろに傾ける。邪鬼と三猿の間に二鶏が浮き彫りされていた。


塔の左側面に造立年月日。続いて木崎領中尾不動ヶ谷戸邑。


右側面に「庚申供羪塔」その下に講中拾六人と刻まれている。


中央 出羽三山供養塔 文化12(1815)角柱型の石塔の正面、梵字「アーンク」の下「月山 湯殿山 羽黒山 供養塔」


塔の右側面に造立年月日。左側面に世話人の名前。塔の下の台の正面に「講中」と刻まれていた。


右 庚申塔 元禄9(1696)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、日月雲「奉建立庚申尊像當處安全所」その下に敬白。上部両脇に造立年月日。右下に願主 金剛寺傳海。左下に施主 當村善男善女。


台の正面にぬいぐるみのようなふっくらとした正面向きの三猿が彫られている。


墓地は本堂の裏に広がっているが、右手前の一角にも石塔が並んでいた。その多くは墓石だが、中に二基の月待塔がある。特定の月齢の夜に集まり経などを読み月を拝む「月待行事」を行った記念に建てた石塔で、江戸時代、特に文化文政期のころに全国で流行したという。


写真の右端 二十三夜塔 文化2(1805)角柱型の石塔の正面「廿三夜」右下に志んまち道、左下に者とがや道。志んまち=新町、者とがや=鳩ケ谷。草書体と変体かなで読みにくい。


上部 舟形に彫りくぼめた中に勢至菩薩立像を浮き彫り。狭い中に細かい彫りがされている。


塔の右側面 北 大みや うらわ 道。これは読みやすい。


塔の左側面 南 戸田 王らび 道。王らび=蕨。その下に村々安全 家門長久 子孫冨榮 諸願成就。奥に造立年月日。その下に願主の名前が刻まれていた。


左 二十六夜塔 文化4(1807)角柱型の石塔の正面「廿六夜」右脇にうら王道。うら王=浦和


上部舟形に彫りくぼめた中に六臂の愛染明王坐像。二十六夜塔じたいが珍しい希少塔である。


塔の右側面 南 王らび 戸田 江戸 道。王らび=蕨


左側面 北 大ミや 者らいち 奈んぶ い王つき 道。大ミや=大宮 者らいち=原市 奈んぶ=南部 い王つき=岩槻。


背面 東 八丁 こしがや 者とがや せん志由 道。者とがや=鳩ケ谷 せん志由=千住。続いて造立年月日。さらに武刕足立郡中尾村 不動ヶ谷戸 芦谷と刻まれている。二つの月待塔はいずれも街道の辻に立っていたのだろう、立派な道標になっていた。

 

中尾小学校西路傍 緑区中尾1-1[地図]


中尾小学校の西、マンションの立つ交差点の角、ブロック塀の端に石塔が並んでいた。写真左の道を行くと県道1号線さいたま川口線で、左向いの路傍に先日見た原山4丁目の地蔵菩薩塔の小堂が立っている。


舟形光背型の像塔と駒形の文字塔、どちらも馬頭観音塔だった。


左 馬頭観音塔 享保18(1733)舟形光背に二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。光背上部に梵字「カン」


頭上の馬頭はくっきり。切れ長の目をした観音様はうっすらと微笑みを浮かべた慈悲相。ふっくらと馬口印を結ぶ。光背右脇に「馬頭觀世音菩薩」左脇に造立年月日が刻まれている。


足元の部分に不動谷戸 芦屋と刻まれていた。


右 馬頭観音塔 弘化4(1847)駒型の石塔の正面に「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。塔の左側面に施主 個人名が刻まれている。

中尾小学校南墓地 緑区中尾2432[地図]


日の出通りの大谷口県営住宅交差点から東へ向かう細い道に入り、道なりにしばらく進むと、中尾小学校の南あたり、道路右側に墓地があった。上の馬頭観音から南へ道なりに進むとこの近くで合流することになる。


墓地の南隅、ブロック塀の前に華見堂供養塔 正徳5(1715)舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。


顔をわずかに右に向け静かな表情でたたずむお地蔵様。光背右脇に「華見堂供養」左脇に造立年月日。右下に従是右うら王ミち、左下に従是左江戸ミち。


足元の部分に中尾村 施主敬白 三十三人と刻まれていた。


その右隣 華見堂供養塔 元禄4(1691)板碑型の石塔の正面上部に梵字「カ」


中央に「奉建立華見堂現世安穏後世善處祈所」右脇に造立年月日。左脇に武州足立郡中尾村。


塔の下部中央に施主とあり、二段に二十名の名前が刻まれている。

中尾神社南  緑区中尾2390東向い[地図]


二基の華見堂が並んだ墓地の前の道を南東に進むと第二産業道路に出る。信号交差点を渡り道なりに進むと左側に中尾神社がある。鳥居の立つ入口の南の向いの斜面に石塔が立っていた。


庚申塔 寛政12(1800)大きな四角い台の上の角柱型の石塔の正面に大きく「庚申塔」


台の正面に三猿。両脇の言わ猿と見猿は足をやや伸ばして内向きに座る。


塔の左側面に造立年月日。右脇に武州足立郡木崎領。


右側面上部に従是とあり、その下 南 王らび 戸田 道。西 うらわ 大宮 道。北 なんぶ 岩槻 道。東 八丁 越ケ谷道。四方向八地名が刻まれていて、不動谷戸の大聖不動尊で見た月待塔と同じく本格的な道標になっていた。さらに最下部、中央に「講中」右脇に中尾耕地、左脇に東中尾と刻まれている。

旧玉林院跡墓地 緑区中尾2332[地図]


中尾神社の入口あたりから、細い道を南に向かい道なりに200mほど進むと、カーブのところに駐車場があり、その脇の階段から上がった先に墓地があった。


うっそうとした木々に囲まれて雑然と石塔が並んでいる。その中に舟形光背型の地蔵菩薩塔が立っていた。


花見堂供養塔 延宝3(1675)舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背の上部を一部欠くものの、ほとんど風化が見られず驚くほど美しい状態を保っている。薄暗い中に生き生きとした表情でたたずむ姿は神々しく、ハッとさせられる。


円頂、白毫、福耳を持つお地蔵様。彫りは厚く、まるで丸彫り像のようにも見える。光背右脇「華見堂供養」その下に武州足立郡中尾村 講願主。左脇に造立年月日。さいたま市内に十数基あるという花見堂=華見堂供養塔については、時代的分布、地理的分布など後日まとめてみたいと思う。


足元の蓮台の花弁に細かい字で施主名が刻まれていた。全部で23名。そのうちいくつかはひらがなで、女性も含めた講らしい。

 

中丸桑原堂 緑区中尾1989[地図]


中丸地区を南北に走るバス通りの東は高台になっていて、中丸桑原堂は道路から見上げるようなところにあった。


階段を上がってすぐ左手に三基の石塔が並んでいる。両脇の地蔵菩薩塔はいずれも墓石だった。


中央 回国供養塔 宝暦13(1763)角柱型の石塔の正面「大乗妙典六拾六部日本回國供養塔」


塔の右側面に造立年月日。左側面には武州足立郡中尾村 願主 圓蓮と刻まれている。

中丸薬師堂墓地 緑区中尾1749[地図]


県道463号線にあるプラザイーストの東から南へ400mほど、中丸薬師堂墓地は石垣とブロック塀に囲まれて道路よりかなり高い位置にあった。その南西の角のところ、小堂の中に大きな石塔が祀られている。後ろに見える建物は同じ敷地内にある中丸自治会館。


小堂の中 庚申塔 享保5(1720)二段の四角い台の上に角柱型の石塔。その上に蓮台ではなく四角い磐座に座る丸彫りの青面金剛像。二段の台の上のほうの台の正面には大きな法輪が彫られていた。


頭上にとぐろを巻いた蛇。三眼忿怒相の青面金剛はドクロの首輪をつけて合掌している。丸彫りの青面金剛像は脇の手が破損しやすいが、この像では欠損は上左手だけで、残り三本の手はしっかり残っていて、それぞれ剣?と弓矢を持っていた。ごつごつした岩の台には両腕を張ってブルドッグのような顔の邪鬼と、両脇が内を向いて座る三猿。かなり個性的な庚申塔だが、緑区から浦和区、南区にかけて似たような丸彫りの青面金剛庚申塔は比較的多く見られる。


角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「奉造立庚申供養塔」塔の両側面に造立年月日。右側面紀年銘の横に中丸施主二十人と刻まれていた。


小堂の左脇に風化が進み損傷著しい石塔。正面中央に「申」らしい文字が見えるが庚申塔か?


両側面にも銘は残っていてうまく読めないが地名だろうか?となるとこの石塔は道標なのかもしれない。左側面に願主の名前だけがしっかり残っている。


小堂の右脇 庚申塔 造立年不明。塔の上部が欠けている。こちらは銘は全く見当たらなかった。


小堂の裏 宝篋印塔 文政9(1826)江戸時代後期らしい屋根型笠付きで、塔身、基礎ともに蓮台が付き、基礎と下の台には反花が付く。台の正面に「爲先祖代々・・・」とあり、個人のもののようだ。


宝篋印塔の前に無縁仏が集められていた。江戸時代初期の比較的大きな舟形光背型の石仏が多い。墓石ではあるが今回は二基だけ見ておきたい。


前列左端 阿弥陀如来立像 寛文10(1670)光背上部に梵字「キリーク」この時期の石仏は長い年月の風雨にも耐え、当時の美しい姿をはっきりと現在に残しているものが多い。江戸城築城後に残った強固な石材、耐火性にも優れた安山岩が石仏、石塔の原材料として寛文期あたりから大量に流通したということらしい。逆に江戸時代後期の石仏は比較的脆い凝灰岩が多く、そのために風化が進み剥落などが多く見られる。


前列右端 金剛界大日如来立像 寛文12(1672)武士や僧侶などだけでなく、一般の個人が墓石を建てるようになったのもこの頃からのようだ。墓石としては地蔵菩薩、聖観音菩薩、如意輪観音、阿弥陀如来などが多いなか、大日如来は墓石としてはかなり珍しいのではないだろうか


庚申塔の小堂からフェンス沿いに進むと「中丸薬師堂整備記念」の黒い石碑 平成21(2009)と三基の石仏が並ぶ小堂が立っていた。石碑の右脇に小さな石塔が見える。


馬頭観音塔 弘化2(1845)四角い台の上の駒型の石塔の正面「馬頭觀世音」塔の左側面に故人の名前が刻まれていた。


右端 地蔵菩薩立像 享保8(1723)享保期の地蔵菩薩塔にしてはそれほど大きくないようにも見えるが、分厚い敷茄子の上の部分は充実感がある。もし敷茄子の下に角柱型の石塔があれば、やはり2mを超す大きな地蔵菩薩塔となるはずだ。


丸彫りの地蔵菩薩立像はバランスも良く、錫杖・宝珠ともに欠けることなく、彫りもしっかり残っていた。


厚みのある敷茄子の右脇に造立年月日、左脇に中丸村施主十七人と刻まれている。



中央 念仏供養塔 天明8(1788)ユニークな臼型の台の上に舟形光背を持つ阿弥陀如来立像を載せ、その下に角柱型の石塔と台という構成。


舟形光背に浮き彫りされた阿弥陀如来立像。尊顔は細長く卵型で、螺髪も薄くユニークな阿弥陀如来。全体的にもスマートな印象を受ける。


塔の正面中央に「善光寺念佛三歳三月供養塔」両脇に造立年月日。ときどき見かける「善光寺念仏」善光寺の如来、菩薩を思いながら念仏を3年3か月唱えたものだろうか。


塔の右側面に願主名。左側面には中丸講中廿三人、柳崎□□母、不動ヶ谷戸四人、覺應と刻まれていた。


左 丸彫り重制の地蔵菩薩立像 文化3(1806)塔の正面中央に「奉造立尊像一軀」両脇に造立年月日。塔の右側面に三室村松木産 行年七十三、左側面に権律師浄真とあり、こちらは僧の墓石のようだ。


墓地の奥の中丸自治会館の裏にお堂が立っていた。脇に立つ石碑に、「武州足立百不動尊 第二番 中丸不動堂」とある。


お堂の中 成田山不動明王 造立年不明。二童子を従えた三尊像。江戸時代後期に多く造立された形。右手に剣、左手に羂索を持つ不動明王だが、丸い黒目がお茶目な感じで忿怒相とはほど遠い。

 

吉祥寺 緑区中尾1410[地図]


国道463号線越谷街道の緑区役所北交差点から300mほど東、区役所と図書館を過ぎた次の信号交差点を左折すると吉祥寺の入口があった。長い参道を進むと正面に江戸時代初め頃の建てられたという茅葺屋根の山門が立っている。国道から奥まっているためだろう、あたりは驚くほど静かだった。


山門左手前に二つの小堂。左は六地蔵菩薩塔、右は大きな丸彫りの地蔵菩薩塔が祀られている。


左 丸彫りの労地蔵菩薩塔 文政3(1820)角柱型の石塔の上、蓮台に立つ六体の地蔵菩薩像は顔の様子もよく揃っていてる。それぞれの台に戒名や「爲先祖代々菩提也」「一切精霊菩提也」などの銘が刻まれ、施主も中尾村、芝原などから数人の名前が見える。命日も古くは明和3(1766)から寛政、享和、文政まで、いくつか確認できた。


銘は薄く読みにくい。10年前は右端の石塔の右側面にあった享和元年(1801)を造立年月日としたが、今回見直してみると、左端の石塔の正面に文政3年の紀年銘があり、その下に當所願主として二名の名前が刻まれていた。こちらを造立年月日と考えるべきだろう。それにしても10年前、基本的な確認をおろそかにしたまま記事にしたことは、当時初心者だったとはいえやはり恥ずかしい。


右 地蔵菩薩塔 享保8(1723)2mを超す堂々たる丸彫り大地蔵菩薩立像。静かな表情の尊顔は慈愛に満ちている。


角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「奉造立地蔵菩薩」右側面に造立年月日。


左側面には施主 當寺惣檀中と刻まれていた。


山門から境内に入る。庭木も多く手入れの行き届いた気持ちの良い境内である。参道左側、鐘楼の手前に大きな石塔が立っていた。


徳本名号塔  文政4(1821)四角い台に反花付台を重ね。さらに四角い敷茄子とやはり四角い蓮台。その上の角柱型の石塔の正面に独特の書体で「南無阿弥陀佛」その下に署名と花押。塔の左側面に造立年月日。右側面には歌が刻まれていた。


反花付台の正面中央に「念佛講中」右脇に世話人とあり中尾村、大間木村、大谷口村、大田久保村から各一名の名前。左脇にも世話人とあり井沼方村、付嶋村、領家村、中尾村から各一名の名前。合わせて七ヶ村、八名の世話人の名前が刻まれていた。


その両側面には右端に金百疋とあり、それぞれ十数名の寄進者の名前が刻まれている。


一方、その下の四角い台のほうは、正面は全体が見ていないのではっきりしないが、三面ともに金貳朱とあり、やはり十数名の寄進者の名前が刻まれていた。金額の多寡はともかくとして、相当広い範囲の村々から多くの人たちが協力したものらしい。


本堂の右側に大きな墓地が広がっていた。その中頃にある歴代住職の墓地の中に3mを超す大きな丸彫りの仏像が立っている。阿弥陀如来坐像 元禄元年(1688)大変美しく貴重な石仏だが、現在は関係者以外の墓地への出入りは認められず、こちらを生で見ることは難しそうだ。

駒前公民館 緑区中尾942[地図]


国道463号線バイパスの中尾陸橋下交差点から150mほど東の細い道を南に入ると左手に駒前公民館が立ち、奥が墓地になっていた。


公民館に向かい合うように、敷地の南に石塔が並んでいる。


右 庚申塔 享保2(1717)四角い台の上の笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。笠は新しく補修されたもので不自然な感じを受ける。


やや風化は見られるものの、彫りはしっかり残っていた。持物は矛・法輪・弓・矢。足の両脇に二鶏を半浮き彫り、


足元に頭を右にして、磐座に寝そべる全身型の大きな邪鬼。三猿は四角い台の正面のほうに彫られている。


塔の右側面「奉造立青面金剛尊容一躰爲二世安樂也」


左側面に造立年月日。その下に施主 駒前芦屋 男女三十一人と刻まれていた。


その横に六地蔵菩薩塔 宝暦10(1760)舟形光背の色、形が微妙に違って見えるが、六体の地蔵菩薩像の顔の様子などはよく似ていて統一感はある。


右端の地蔵菩薩は宝珠を持つはずの左手を欠いている。光背右脇に宝暦十年の紀年銘が刻まれていた。

 

吉祥寺東信号交差点北住宅前 緑区中尾1626[地図]


吉祥寺の入り口前の信号交差点から300mほど東、押しボタン信号交差点を左折して北へ向かうと右手の住宅の前に二基の庚申塔が並んでいる。こちらの二基の庚申塔は、以前は信号交差点の南のマンション前にあった。その後現在地に移動されたもので、2023年8月3日の記事で紹介した。目の前の道は北は赤山街道と合流し与野方面へ、南は大北、井沼方を通り川口の柳崎方面に至る古道だったようだ。

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(2014年5月当時の写真)


左 庚申塔 延享5(1748)荒彫り角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて、中央に「奉造立庚申塔」両脇に造立年月日。右下に中尾村中丸、左下に施主とあり個人名が刻まれている。


右 庚申塔 宝永6(1709)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。目の前に照明器具が立ち、正面からの全体写真は撮れなかった。


三眼忿怒相の青面金剛。像の右脇「奉供羪庚申諸願成就」左脇に造立年月日。


右下に木崎領中尾村施主 十二人。足元には磐座にしがみつくような格好の邪鬼。その下に正面向きに並んで座る三猿が彫られていた。

駒形公会堂南駐車場脇 緑区中尾1620[地図]


上の二基の庚申塔のすぐ北、道路右側の駐車場の入口右脇に石塔が立っている。10年前はこちらは後ろのお宅の庭先だった。この道のさらに北に駒形公会堂がある。


庚申塔 延享元年(1744)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 鈴・ショケラ持ち六臂。


頂上が扁平な髪型、H型の二組の腕の青面金剛。緑区で多く見かける「川口型庚申塔」さいたま市でも川口市でも「川口型庚申塔」は剣・ショケラ持ちが一基もなく、合掌型か鈴・ショケラ持ちに限られ、鈴とショケラは右手、左手どちらも見かける。この青面金剛は右手にショケラを吊るしていた。


足元に猫のようにうずくまる邪鬼。その下の三猿は両脇が内を向くタイプで、邪鬼と三猿の間に二鶏が彫られているのも「川口型」の定番と言える。


塔の左側面に造立年月日。右側面 梵字「ウン」の下に「奉造立庚申供養塔」その下に講中中尾村 男女四十六人と刻まれていた。

駒形公会堂
 緑区中尾1389[地図]


庚申塔の並ぶ古道を北に進むと突き当りに駒形公会堂が立っている。その右側、墓地の前に二つの小堂が並んでいた。右の小堂の中には二基の地蔵菩薩塔、左の小堂には六地蔵菩薩塔が祀られている。


右 地蔵菩薩塔 元禄10(1697)四角い台の上に厚い蓮台に立つ丸彫りの地蔵菩薩像。像に欠損は無く、堂々とした重厚な佇まい。石塔部を欠くがそれでも総高2m近い。


蓮台の正面の花弁に施主村中。左右の花弁に造立年月日が刻まれていた。


その隣 地蔵菩薩塔 享保19(1734)四角い台の上に角柱型の石塔を重ね、四角い敷茄子と蓮台に立つ地蔵菩薩像。こちらも丸彫りだが欠損なく美しい。


石塔の正面 権大僧都信海。左側面に生國上刕 行年四十六歳。


裏面に紀年銘。右側面に中尾村福正寺拾四世と刻まれていて、こちらは住職の墓石だった。駒形公会堂は元は吉祥寺の末寺である福正寺という天台宗寺院だったようである。


二つの小堂の間に 善光寺念仏供養塔 文化9(1812)角柱型の石塔野正面を彫りくぼめた中「善光寺念佛 供養塔」このあたりでは「善光寺念仏」が盛んだったのだろうか?他の地域に比べて多く見ることができる。


塔の右側面に造立年月日。左側面に講中廿三人と刻まれていた。


左の小堂の中 六地蔵菩薩塔 明和3(1766)丸彫りの六地蔵塔は像も蓮台も石塔もよく揃っている。六地蔵と二基の地蔵菩薩塔、いずれもきれいなアクセサリを首にかけられ、新しい花が供えられていた。


角柱型の石塔、銘が刻まれているのは右端と、右から3番目。右端の正面「奉建立六地蔵尊」3番目の正面には武刕足立郡中尾村 駒形中。


右端の石塔の右側面に造立年月日が刻まれていた。

国道463号線バイパス南 赤山街道出口向い 緑区中尾1326北[地図]


駒形公会堂の少し東の道を北に進み国道463号線のバイパスにでる手前、道路左側、ブロック塀の前に石塔が立っていた。バイパスに出ると横断歩道がなくその場では渡れないが、バイパスの向い側は赤山街道の出口になっている。


馬頭観音塔 延享元年(1744)駒型の石塔の正面 三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。大型ではないが内容の充実した本格的な馬頭観音塔。彫りは細かく写実的。銘もきれいに残っていた。

頭上の馬頭は耳が垂れていて犬のように見える。三面ともに静かな表情で慈悲相。ふっくらと馬口印を結ぶ。持物は蓮華・宝珠・弓矢。二組の腕の付き方はH型。像の右脇に「馬頭觀世音菩薩」その下に大間木村 施主、左下に個人の名前が刻まれていた。

 

赤山街道T字路付近路傍 緑区中尾1305[地図]


赤山街道は三室の西宿付近から南東に向かい、「さるまん塚」の庚申塔を左手に見てさらに進むと、やがて国道463号線バイパスに出る。この出口から200mほど手前のT字路を右折して南に進む。すぐ先の右側路傍、青いトタンのフェンスのエンド、草木に隠れるように石塔が立っていた。


庚申塔 文化2(1805)角柱型の石塔の正面に「庚申塔」塔の下部は一部土に埋もれているようだ。


塔の左側面下部に足立郡中尾村駒方。その左 此方 八丁 赤山、鳩ケ谷 千住。その下は「道}か?


右側面に造立年月日。その左下に此方 川口 江戸。道標になっている。

芦谷駒前墓地 緑区中尾3603東[地図]


西宿の赤山街道の入口から斜め右に枝道が分かれている。150mほど先、右手に「あしや集会所」が建っていて、その向かいに芦谷駒前墓地があった。この道をさらに南へ進むと国道463号線バイパスの中尾陸橋の東、バイパスを渡ると駒前公会堂の近くに出る。


ツツジの植え込みの間の入口から入ってすぐ右側に多くの石塔が一列に並んでいた。


右 庚申塔 宝暦2(1752)宝珠を乗せた唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中 日月雲 青面金剛立像 鈴・ショケラ持ち六臂。


こちらも「川口型庚申塔」右手に鈴、左手にショケラを持つ。ドクロの首輪をつけている。


足元も川口型のスタンダード。猫のようにうずくまる邪鬼。両脇の猿が足を投げ出し後ろに身を傾ける構図の三猿。邪鬼と三猿の間に二鶏が彫られていた。


塔の左側面に造立年月日。右下に芦谷駒前、左下に講中三十人。


右側面に「奉造立青面金剛庚申塔爲二世安樂」と刻まれている。


その隣 念仏供養塔 享保11(1726)四角い台の上に角柱型の石塔、その上に蓮台に立つ丸彫りの地蔵菩薩像。全体に白カビが多い。台の正面には大きな蓮の花が彫られていた。


角柱型の石塔の正面「奉造立念佛供養所」


塔の両側面に渡って造立年月日。右側面下部に芦谷駒前。


左側面、紀年銘の下に同行三十七人と刻まれていた。


続いて丸彫りの六地蔵菩薩塔 文化4(1807)塔、台、像ともによく揃っているが、右端の一体は他の五体に比べるとやや太っていて、あとから補われたものかもしれない。


右端の角柱型の石塔の正面に「奉建六地蔵尊」


左から2番目の石塔の正面に法華経の偈文。左端の石塔の正面に願主芦谷駒前耕地中。続いて造立年月日が刻まれていた。



最後は誦経供養塔 天明2(1782)四角い台に上に大きな蓮台を乗せ、その上の唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を舟形に彫りくぼめた中に。右手に未敷蓮華を持ち左手は与願印の聖観音菩薩立像を浮き彫り。


塔の右側面に誦經講中二世安樂。誦経(ずきょう)は経典を声を出して読むこと。同じ意味の讀誦(どくじゅ)はいろいろな石塔の銘の中によく見られる。主尊が聖観音菩薩だから、この場合のお経は観音経=普門品だろうか。


左側面に造立年月日。左下に願主 行誉蓮西地刻まれていた。