緑区北原・間宮

無量寺 緑区北原1602[地図]


国道463号線、浦和民家園あたりから東へ向かい、見沼代用水東縁を越えてすぐ、道路左側に無量寺の入口があった。立派な鐘楼門が立ち、その向こうがお寺の入口になる。


境内に入ると正面に六地蔵塔、その左に角柱型の石塔が立っていた。六地蔵塔は新しい。


六阿弥陀標石 安政10(1798)角柱型の石塔の正面 梵字「キリーク」の下に「足立六阿弥陀三番」右下に北原邑、左下に無量寺。標石になっている。脆い石質のため一部剥落、ヒビも目立つ。六阿弥陀というと江戸六阿弥陀が有名だが、それにならって各地に六阿弥陀が設けられたらしい。越谷市増林の林泉寺では「新六阿弥陀」標石 天明8(1788)を見たが、このころ六阿弥陀参詣が盛んにおこなわれたようだ。


塔の右側面 上部に詠歌とあり、そのしたに二行に渡って歌が刻まれていた。下部に當所發願主とあり、その横に個人の名前。


左側面 上部は欠落、□□苦界ヲ離西方□□、奥には弥陀ノ浄土行ゾウレシキ。下部に願主の名前。塔の裏面に造立年月日が刻まれている。

 

無量寺東国道北路傍 緑区北原1571[地図]


国道463号線、無量寺から300mほど東へ進むと道路左側三差路の角にお堂が立っていた。国道を隔てた南路傍にも庚申塔が立っているが、このあたりはちょうど北原と間宮の村堺で、北は北原、南は間宮になる。


お堂の中 庚申塔 元禄7!1694)駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。それなりに風化が進む。


顔はつぶれていて様子はわからない。頭上に蛇。上右手に法輪、上左手に剣を持つのは珍しい。足の両脇にしっかりとした二鶏。足元の邪鬼は上半身型で、両腕の間から正面をにらみつけている。


邪鬼の下に正面向きに並んで座る三猿。その下の部分、右のほうから施主 敬白 赤山領北原村、そのあとはうまく読めなかった。


お堂の右手、大きな切り株の近くに石灯籠供養塔 寛政7(1793)角柱型の石塔の正面 中央に「奉納石灯籠」その下に北原村。その両脇に、右 大門宿 十一丁、左 大間木 十八丁。道標になっている。


塔の左側面に造立年月日。右側面には「乃みち講中 十一人」と刻まれていた。この「乃みち」普通は地名だろうが、近くに該当する地名が見当たらない。まさか「乃みち」=「野道」ではないと思うが・・・

無量寺東国道南路傍 緑区間宮558西[地図]


上の庚申塔の国道463号線を挟んだ向かい側路傍にも小堂が立っている。


庚申塔 宝永7(1710)板碑型の石塔の正面 日月雲 梵字「ウン」の下に「庚申供養 二世安樂所」両脇に造立年月日。下部に二鶏を半浮彫。その下に正面向きのおおきな三猿。


三猿の下の部分、右に㣺原村とあり5名の名前。左に敬白。台の正面右から北原村、間宮村、中央に講中と刻まれているが、左に安永□ 正月とあって、塔の紀年銘、宝永七と合致せず、どうやら上の庚申塔の本来の台ではないようだ。

 

間宮自治会館 緑区間宮642[地図]


国道463号線、岩槻街道のすぐ西の交差点を南に入り、少し先を右折して細い道を進んでゆくと間宮自治会館の西近くに出る。自治会館の奥は墓地になっていて、自治会館の脇と、墓地の入口あたりに多くの石仏が立っていた。

自治会館脇の三基の石塔の左 庚申塔 享保7(1722)二段の台の上の唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 金剛杵・ショケラ持ち六臂。


丸顔で三眼の青面金剛。右手に金剛杵、左手にショケラを持つ。邪鬼の背中で右足を軽く曲げて立ち、そのまま踊り出しそうな動きのある姿が面白い。


足元には背を丸めた邪鬼がうずくまる。上のほうの台の正面に両脇が内を向いて座る三猿が彫られていた。


塔の左側面「奉造立青面金剛二世安樂祈攸」


右側面手前に造立年月日。奥に講中老若男女結衆敬白。下部に南部領 間宮村。


下の台の正面 白カビが多く銘は読みにくいが、中央に□□講中、左のほうに間宮村とある。ただ右のほうに刻まれた紀年銘が明和七年になっていて、塔の右側面の紀年銘の享保七年とほぼ50年の隔たりがあり一致しない。もとは他の石塔の台だったのだろうか?


中央 庚申塔 文化10(1813)二段の四角い台の上の角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。全体に白カビが多い。


三眼忿怒相、ドクロの首輪をした青面金剛。頭上には蛇。法輪などをよく見ると彫りは結構細かい。


足元にうずくまる大きな邪鬼は白カビに覆われていた。台の正面の三猿がユニーク。右の見猿は左手で目を覆い、右手には御幣を持ち正面を向いて座る。中央の聞か猿と左の言わ猿は向かい合って座り、やはり左手だけ使って耳と口を押え、あいた手で棒のようなものを取り合っている。これは初めて見る構図。


塔の右側面 武刕足立郡 南部領間宮村。台の右側面には講中とあり、七名の名前。


塔の左側面 天下泰平國土安全。台の左側面に十名の名前。左右合わせて講中17名。


塔の裏面に造立年月日。台の裏面に浦和宿の石工の名前が刻まれていた。


右 普門品供養塔 文政3(1820)二段の四角い台の上の角柱型の石塔の正面 梵字「サ」の下に「普門品供養塔」両脇に造立年月日。台の正面に「講中」


台の両側面にはそれぞれ世話人含めて十名ほどの名前が刻まれている。


墓地の入口に多くの石塔が並んでいた。


左 雨除けの下に馬頭観音塔 宝暦6(1756)駒形の石塔の正面 三面六臂 慈悲相の馬頭観音立像を浮き彫り。頭上の馬頭もはっきり。下部両脇に造立年月日。足元の部分に施主馬宮村中、㣺原村中、願主一名の名前が刻まれている。


その隣に三基の馬頭観音文字塔。いずれも塔の正面に「馬頭觀世音」施主は個人。左は明治4年と明治9年の紀年銘。中央は文久元年と明治9年の紀年銘。右は嘉永元年の紀年銘。いずれも馬の供養塔だろう。


小堂の中 六地蔵菩薩塔 享保19(1734)六体の様子はよく揃っているが、石塔の銘は左の三基に集中していた。



その三基の銘が変わった配置になっていて読みにくい。三基の中の真ん中から左へ移って右へ飛んだりまた左へ・・・銘は「奉造立地蔵菩薩像二世安樂祈所」右に造立年月日。続いて間宮村。中央に講中男女等となるだろう。


六地蔵塔の前の三基の丸彫り像。頭部をセメントで補修されているが、異様な顔立ち。地蔵菩薩だろうか?


入口の反対側、六地蔵塔と向き合うように 地蔵菩薩塔 正徳5(1715)角柱型の石塔の上に丸彫りの地蔵菩薩像。とぼけた表情を浮かべてたたずんでいた。


塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「カ」の下に「奉造立 地蔵菩薩像 二世安樂所」右側面手前に造立年月日。奥に武州足立郡間宮村 長福寺 権大僧都法印求如。左側面に数名の名前が刻まれている。


墓地の奥 卵塔の隣に板碑が立っていた。後ろに解説板が設置されている。


板碑 文永7(1270)右下部が欠けているがほぼ完形。上部に梵字「キリーク」下部中央に造立年月日。両脇に偈文が刻まれていた。

 

間宮氷川神社 緑区間宮180[地図]


国道463号線、岩槻街道との交差点のすぐ西の押しボタン信号交差点から南に入り、400mmほど先のT字路交差点を右折、しばらく進むと道路左側に氷川神社があった。鳥居の向こう正面に社殿、その右奥に小堂が立っている。


小堂の中には二基の庚申塔が東向きに並んで立っていた。


左 庚申塔 延享元年(1744)駒型の石塔の正面に日月雲 青面金剛立像 ショケラ・鈴持ち六臂。1700年代にさいたま市、川口市に多く見られる「川口型庚申塔」独特のH型の腕がより強調されている。


青面金剛の左頬のあたりが損傷していて、顔の表情は凄みを増している。髑髏の首輪をつけ、左手に鈴、右手に脱力したショケラを吊るす。足の両脇に二鶏を半浮彫。


足下に背を丸めた不機嫌そうな邪鬼。左足を伸ばしているのは珍しい。その下の三猿は「川口型」の定番の構図。両脇の言わ猿と見猿が内向きに足を投げ出すようにして座っていた。


塔の左側面に造立年月日。その横に間宮村。右側面「奉造立青面金剛二世安樂祈所」その下に講中 講衆 謹言と刻まれている。


右 庚申塔 嘉永7(1854)二段の四角い台の上の角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」上のほうの台の正面に「講中」


塔の左側面の銘は草書体で読みにくいが「天下泰平 五穀成就」だろうか?台の側面に6名の名前。


右側面に造立年月日。台のぼうに7名の名前が刻まれていて、両側面合わせて講中13名になる。