緑区大門・東大門

緑ヶ丘霊園 緑区大門101[地図]


JR東川口駅の南口ロータリーからまっすぐ西へ向かう道、600mほど先の交差点の北西の角に三基の石塔が立っていた。


右 庚申塔 明和3(1766)四角い台の上の駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


彫りは細かく華やか。頭上にとぐろを巻いた蛇。風化のためか顔ははっきりしない。足元に二匹の邪鬼の頭を踏む。


邪鬼の下の三猿は両脇が内を向き両足を投げ出して座っていた。下の台の正面 右端に講中、左端に大門宿とあり、その下に13名の名前が刻まれていた。


塔の左側面に造立年月日。右側面には白カビの中「奉建立庚申供養」と刻まれていた。


中央 庚申塔 天保11(1840)四角い台の上、凝った作りの四角い敷茄子の上の角柱型の石塔の正面 日月雲「庚申塔」敷茄子の正面に「講中」


台の正面を彫りくぼめた中にユニークな三猿。両脇が内を向き、片足を立てて座る構図。右の見猿は左手だけで目を覆い、右手に御幣を持ち、左の言わ猿も片手で口をふさぎ、空いた手に桃果?を持っていた。台の両側面は全く見ることはできない。


塔の左側面に造立年月日。続いて武州足立郡 大門宿。右側面に天下泰平 國土安全。


左 出羽三山供養塔 文化15(1818)四角い台の上の角柱型の石塔の正面上部、円の中に月山 湯殿山 羽黒山とあり、その下に「供養塔」両脇に天下泰平・五穀成就。台の正面に「講中」と刻まれている。


塔の右側面 羽黒山大先達 大乗院 敬白。


塔の左側面に造立年月日。その横に武州足立郡大門宿。


台の左側面 右上に西方とあり、地名が刻まれているようだがはっきりとはしなかった。


三基の石塔が並ぶ交差点から北へ向かうと、武蔵野線に突き当たる手前、道路左側に緑が丘霊園があった。


墓地に入って南のほうに進むと右手に石碑が立ち、その横に三基の石塔が並んでいる。


右 念仏供養塔 貞享3(1686)四角い台の上の舟形光背に錫杖・宝珠を手にした地蔵菩薩立像を浮き彫り。



光背右脇「奉造立念佛供養諸願成就處結集老若男女願主」左脇に造立年月日が刻まれていた。


中央に明和9(1772)の宝篋印塔。左 虚空蔵菩薩塔 宝暦6(1756)右手に剣。舟形光背、梵字「タラーク」の下に虚空蔵菩薩坐像を浮き彫り。左手の先は破損している。


墓地の南奥に光明真言金剛供養塔 安永8(1779)四角い台の上に唐破風笠付き角柱型の石塔。新しい大きな基壇の上に立っていた。


塔の正面上部に光明真言曼荼羅。その下に「金剛供養塔」両脇に遠近平等・村内安全。


左側面に造立年月日。さらに沙門 恵照造之。


右側面 「自利一門他則普門成道」文。他では見たことがない銘文だが、「修行によって自分が功徳を得るだけでなく他の人達の救済に尽くし、あまねく共に成仏する」というような意味だろうか?

武蔵野線北線路脇空地 緑区大門312近く[地図]


緑ヶ丘墓苑を出て西に進みその先の交差点を右折、武蔵野線を越えてすぐ、
右手の小高くなったあたりにブロックに囲まれてポツンと石塔が立っていた。


庚申塔 寛文10(1670)江戸時代初期によくみられる板碑型の三猿庚申塔。


上部に日天・月天を線刻。中央「奉新造立庚申供養成就処」両脇に造立年月日。


下部に正面向きに並んで座る三猿が彫られていた。素朴で可愛らしい。

春日神社東路傍 緑区大門543南[地図]


武蔵野線を越えて北へ進むと次の交差点から先の道は急に広くなる。さらに100mほど先、道路右側の畑の隅に地蔵菩薩塔が立っていた。


地蔵菩薩塔 宝暦7(1757)四角い台の上、舟形光背に錫杖・宝珠を手にした地蔵菩薩立像を浮き彫り。頭上に梵字「カ」


輪光背を負ったお地蔵様。顔はつぶれている。光背右脇「奉納念佛講中」左脇に造立年月日。右下に施主。左下に□□入合六村。


台の正面に左□□□□ 南 大まき道 右□□道。残念ながら地名がうまく読めなかった。

椚谷墓苑南住宅前 緑区大門547東[地図]


武蔵野線北の交差点から東に進み二つ目の交差点を左折、すぐ先を右折すると道路左側、新築された住宅の空地部分に二基の石塔が並んでいた。10年前は畑の中に並んでいたもので、今回は探すのに苦労した。


左 地蔵菩薩塔 明和9(1772)縦長の舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背右脇「千地蔵供養為二世安楽也」左脇に造立年月日。


足元の部分に施主四名の名前が刻まれている。


右 庚申塔 寛政7(1795)駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 鈴・ショケラ持ち六臂。塔の前に枝葉の豊かな木が立っていて正面から写真は撮れなかった。


右手に鈴、左手に合掌したショケラを持つ。持物は宝珠・法輪・弓矢。


足元の邪鬼は頭を右に、手足を伸ばして寝そべっていた。その下に三猿。両脇が内を向くが、足の構えが三者三様で面白い。


塔の左側面は無銘。右側面上部に天下泰平・國土安全。その下に造立年月日が刻まれていた。

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(10年前の畑の隅の二基の石塔)

 

大門区画整理記念会館 緑区東大門2-8-14[地図]


国道463号線、大門坂下交差点から西へ向かい、150mほど先の交差点を左折、しばらく進むと大門区画整理記念会館があった。駐車場の隅に四基の石塔が並んでいる。


左 普門品供養塔 嘉永2(1849)二段の四角い台の上の角柱型の石塔の正面、梵字「サ」の下に「普門品二万巻餘供養塔」両脇に天下泰平・國土安全。


上の段の正面に「講中」下の段の正面に世話人を含め18名の名前。


塔の右側面に造立年月日。左側面に大門宿 下組と刻まれていた。


その隣 地蔵菩薩塔 享保15(1730)四角い台の上、舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。頭上に梵字「カ」光背右脇「奉造立地蔵菩薩者爲二世求願也」左脇に造立年月日。その下に武州大門 供養導師 大興寺。


足元の蓮台部分、花弁に施主等 四拾一人 敬白と刻まれている。


続いて庚申塔 元文5(1740)四角い台の上の駒形の石塔の正面 梵字「ウン」の下 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


白カビが多く顔はつぶれているが彫りは細かく丁寧。ショケラは青面金剛のもものあたりに縋り付いていた。


足の両脇に二鶏。雄鶏が左、牝鶏が右というのは珍しい。足元の邪鬼は不機嫌な顔でうずくまる。その下に三猿。両脇が内を向き足を投げ出して座っている。台の正面に講中 三拾人。


塔の左側面に造立年月日。右下に武州足立郡、左下に大門町 結衆。


右側面中央「奉造立庚申供養二世安樂所」右下に導師 大興寺、左下に法印永證敬白と刻まれていた。


右 名号塔 宝暦4(1754)四角い台の上の角柱形の石塔の正面「南無阿弥陀佛」上部両脇に天下泰平・日月清明。中ほど両脇に「奉納妙典 廻國供養」右下に願主、左下はうまく読み取れない。


塔の左側面に造立年月日。右側面 □□埼玉郡七左衛門村。ここからほど近く、綾瀬川を越えた東に、越谷市七佐町があり、七左衛門村というとたぶん現在の七佐町だろう。そちらから移されたものか?脇に人名らしき銘が刻まれていた。

大門神社参道 緑区大門2922[地図]
 

国道463号線日光御成道、大門坂を上り切って道は右にカーブ、このあたりから大門宿の中心地に入る。大門宿は古く鎌倉街道に沿って発展した宿場町で中世には市が開かれたりしたという。江戸時代に入り、本陣、脇本陣を備えた日光御成道の宿場として栄えたらしい。大門坂上のカーブから100mほど先、道路右側に大門神社の入口があった。参道を進んでゆくと左側の大木の幹の陰に石塔が立てかけられていた。


庚申塔 天明5(1785)角柱型の石塔の正面 梵字「ウン」の下に「庚申塔」両脇に天下泰平・國土安全。


塔の右側面に造立年月日。左側面に武州大門町 施主?敬白と刻まれている。

大門東裏公園西駐車場 緑区大門2869[地図]


大門神社入口から200mほど進む。美園郵便局の先の路地を右に入りしばらく行くと、左手の駐車場の真ん中あたり、車の陰にポツンと石塔が立っていた。


庚申塔 天明元年(1781)駒形の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


頭にとぐろを巻いた蛇を載せた青面金剛。エキゾチックな顔立ちで、インドの修行僧を思わせる。


足下に両腕を立てて正面を向く上半身型の邪鬼。どんぐり眼で歯をむき出している。その下には両脇が内を向く三猿。


塔の左側面に造立年月日。右側面に「奉造立庚申供養二世安樂所」と刻まれていた。

 

大興寺 緑区大門2583[地図]


日光御成道を北へ進み、東北自動車道を渡る交差点の手前、道路右側に大興寺の入口があった。参道の先に山門が立っている。


山門の先には観音堂が立っていて、そのまわりに駐車場や自治会館があった。山門の左脇から本堂の入口まで、ブロック塀の前に多くの石仏が並んでいる。


山門のすぐ左、南向きに六地蔵菩薩塔と二基の石塔。


舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫りされた六地蔵塔は、像の様子などから創建当時のままのように見える。風化が進み、光背の一部、顔のあたりが破損、光背にも台にも銘は確認できなかった。


二基の石塔の左 六地蔵菩薩供養塔 享保7(1722)四角い蓮台の上の唐破風笠付き角柱型の石塔。下の四角い台は上の面を彫りくぼめて水を張った凝った構造。その正面中央に近村萬人講中と刻まれている。


塔の正面は白カビが厚く覆い、銘を確認できる写真がなかなか撮れずやっと撮れた一枚。右端に「奉造立六地蔵□□宝篋塔碑」続いて7行に渡って「夫六道能化地蔵菩薩者・・・・・願以此功徳烈觀平等普及法界廻施現當利樂者也」約150文字の銘文が刻まれている。ここでいう「六地蔵」は左脇に並ぶ六地蔵菩薩塔のこととと思われるが、確証はない。


塔の左側面に造立年月日。その横に武州大門町之住施主とあり、武家と思われる名前。続いて辞世の句が刻まれていた。


右側面に供養導師 大興寺現住 法印永證。先日見た大門区画整理記念会館の元文5年の庚申塔と同じ供養導師である。


右 順礼供養塔 享保12(1727)舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背の一部が欠け、尊顔には傷があり、左手の宝珠も欠けていた。光背右「奉納万地蔵菩薩順禮二世安樂祈所」光背両脇に造立年。右下に 大門町坂下 、新田、下野田。光背左に供養導師 大興寺現住 永澄和尚。ひょっとすると前後の関係からして法印永證か?その下に願主とあり二名の僧の名前が刻まれている。足元の部分に施主等 西方□ 善男善(女) 貳百□(人)下部が土の中に埋まっていて全体を確認することはできなかったが、大興寺の御住職の呼びかけに応えて、相当多くの人たちがこの石塔の造立に協力したことは間違いない。


続いて東向きに七基の石塔。そのうち四基が庚申塔だった。


左端 庚申塔 宝永7(1710)四角い台の上の角柱形の石塔の正面を彫りくぼめて、外に日月雲、中に 青面金剛立像 合掌型六臂。10年前と比べると風化が進み、白カビも増えていた。


青面金剛の顔ははっきりしない。持物もあいまいだが、上の左手にショケラを吊るす「岩槻型」


邪鬼は上半身型、両腕を張ってその間に顔を出し、頭を青面金剛に踏まれていた。その下に正面向きに並ぶ三猿。さらにその下の部分に12名の名前が刻まれている。
 

塔の左側面に造立年月日。右脇に武州足立郡、左脇に大門町結衆。下部に6名の名前があり、正面と合わせて結衆18名か。


右側面 梵字「ウン」の下に「奉造立庚申供養二世安樂所」右下に導師 大興寺、左下に法印永誉敬白と刻まれていた。

2番目 地蔵菩薩塔 明和9(1772)四角い台の上の角柱型の石塔に、蓮台に片足を立てて座る丸彫りの地蔵菩薩像。顔をやや右に傾けている。右手の錫杖はそっくり欠落。塔の正面に「奉造立地蔵大菩薩二世安樂也」 


塔の左側面の奥に造立年月日。手前に導師大興寺住永光。


右側面奥に武刕足立郡大門町願主清四良。手前下に講中廿三人 施人 近郷と刻まれていた。


3番目 庚申塔 天明5(1785)四角い台の上の角柱型の石塔の正面 梵字「ウン」の下に「庚申塔」塔の上部、縁のあたり一部欠けている。


塔の右側面に天下泰平・國土安全。左側面に造立年月日。続いて武州大門町 施主敬白と刻まれていた。


4番目 五逆消滅塔 文政9(1826)二段の四角い台の上の角柱型の石塔の正面 梵字「ア」の下に「五逆消滅」10年前と比べると白カビが驚くほど増えていて、銘は近寄らなくては読むことが難しい。参考までに10年前の写真を再掲しておく。

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恥ずかしいことに10年前には「五逆」を「五道」と読み違えていた。上の段の正面に「女人中」と刻まれている。


塔の右側面には「四國第四十七番写八坂寺」「秩父第四番写荒木寺」四国、秩父二ヶ所の移霊場標石ということになる。台の右側面に「願主」


塔の左側面に御詠歌?台の左側面に「上組」塔の裏面に造立年月日。続いて當山十八世現住 法印永津と刻まれていた。


5番目 聖徳太子供養塔 天保12(1841)二段の四角い台の上、脚付きの薄い台の上の角柱型の石塔の正面「聖徳太子」塔の右側面に造立年月日。上の台の正面右に當所上組□□人、中組□□人、続いて十数名の名前が刻まれている。


台の左側面にも十数名の名前。右側面にも数名の名前が刻まれていて、資料によると施主は一町三村から170名にものぼるという。


6番目 庚申塔 享保14(1729)駒形の石塔の正面を彫りくぼめて、外に日月雲、中に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。下左手にショケラを持つ変則的な岩槻型庚申塔。


風化のためか、顔はつぶれていた。持物は上の両手に弓矢、下左手にショケラ。下右手は?もしかしたら空手かもしれない。


青面金剛は磐座に立ち、邪鬼はいない。下部に正面向きダイヤモンド型の三猿。その下の部分にカタカナで11名の名前が刻まれている。


塔の右側面中央「奉造立庚申像現當安全祈所」下部両脇に供養導師 大興寺。さらにその下の部分にカタカナで11名の名前、中に挟まれるように結衆等と刻まれていた。
 

左側面中央に造立年月日。左脇に武州足立郡大門町。その下両脇に有田利兵衛 敬白。こちら願主または世話人か。その下の部分にカタカナで8名の名前、三面合わせると30名の女人講中になる。


右端 庚申塔 明和2(1765)四角い台の上の駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


彫りは細かく技巧的。頭上に蛇が顔を出す。持物は矛・法輪・弓・矢とノーマルな構成。


青面金剛は二匹の邪鬼の頭を踏む岩槻などでよく見る形。その下に両脇が内を向いて座る構図の三猿。台の正面に卍が彫られていた。


塔の両側面に造立年月日。塔にも台にも施主や地名など、他に銘が見当たらない。下の台が土の中に深く埋もれていて銘が見えないのか、または本来の台ではないのか、どちらかだろう。


本堂への入口左脇には六地蔵菩薩塔と二基の背の高い石塔が並んでいた。


小堂の中の六地蔵菩薩塔 享保4(1719)丸彫りの六体の地蔵尊像、大きな損傷はなく比較的きれいな状態を保っている。右から三基目の像はあきらかに色が違い、後から補われたものと思われる。


右端の像の袈裟の袖の部分に造立年月日。享保は21年までなので、この場合2+2で享保4年だろう。


右から4番目の像に供養導師大興寺住 法印永證。山門脇の六地蔵菩薩供養塔などと同じ名前、この時期に精力的に活動された御住職らしい。


その隣 六字名号塔文化14(1817)大きな基壇に台を重ね、角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に独特な書体で「南無阿弥陀佛」その下に徳本とあり花押が続く。


塔の右側面に御詠歌。左側面上部に紀年銘。さらに留錫化益。右下 當山第十七世法印永津、左下に臨終 念佛講中敬白。紀年銘は命日かもしれない。


台の正面と両側面に講中人たちの名前が刻まれていた。正面には世話人含めて15名、左側面に18名、右側面に16名、合わせて49名。その範囲は大門宿をはじめ、北は岩槻から南は川口の戸塚まで、1宿15ヶ村に渡っている。


右 弘法大師宝塔 天保5(1834)二段の四角い台の上の背の高い角柱型の石塔。上部四面にそれぞれ五文字の梵字が刻まれ、通常見る形ではないが、この部分は五輪塔と同じと考えてもいいのだろうか。正面は五文字の梵字の下に「奉供養高祖弘法大師寶塔一基」と刻まれていた。


五文字の梵字の下の部分、両側面に細かい文字でびっしりと経文が梵字で刻まれている。『郷土の石佛』の酒井さんによると14行×107文字=1498文字、両側面で約3000文字になるという。裏面に造立年月日。その下に供養導師 當山現住法印永㓭代と刻まれていた。


弘法大師宝塔の脇を通り本堂へ向かうと、参道左に小さな倉が立っている。前に設けられた解説板によると、阿弥陀三尊図像板碑が収められているという。図像板碑自体が数少ないもので、こちらは南北朝時代の造立と考えられる貴重なものらしい。倉はしっかりと施錠されていて扉に隙間もなく、残念ながら取材することはできなかった。


山門からまっすぐ東へ進むと、正面に観音堂が立っている。その参道右脇、二本のイチョウの大木に挟まれるように手水舎があった。


水盤 嘉永2(1849)正面に力強く駆ける馬の絵を浮き彫り。右端に歌が刻まれている。


左側面中央「清浄水石盤」右脇に造立年月日。左下に發願主 觀禪。


裏面右端に寄附とあり、戸塚村、間宮村、下野田村はじめ11の村の名前。続いて、八丁堀、日本橋、人形町、當町(大門町)から4名の名前。さらに世話人など15名の名前が続き、左端のほうに惣宿幷 馬持中。表面の馬の絵は馬持中のリクエストだったのだろうか。その下に當所石工 清次郎と刻まれていた。