緑区東浦和

内谷墓地角 緑区東浦和9-7[地図]


国道463号線越谷街道の東浦和駅北交差点から浦和方面に進むと、すぐ先の信号交差点で道は右斜めに曲がって西に向かう。この信号は赤山街道と国道463号線との交差点。ここから右へ折れずに赤山街道と国道の間に新しく広い道が出来ているが、現在はまだ車両通行不可となっていた。歩行者と自転車だけが通行可能なこの道に入り、300m先の信号交差点の角、菱形金網のフェンスに囲まれて六基の石塔が並んでいる。


左端 庚申塔 宝永5(1708)大きな四角い台の上に角柱型の石塔、その上にボート型の台に座る丸彫りの青面金剛像。墓地の塀の高さを越えて2mを優に超す。

髪の中に宝冠のような飾りをつけた丸顔の青面金剛。ちょっと首を傾けるような様子。たぶんもともとは六臂だったのだろうが、丸彫りの石仏は破損しやすく、合掌する二臂だけが残っていた。足元の台の上部にひしゃげた邪鬼。その下に両脇が内を向いて座る三猿が彫られている。


角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「ウン」の下「奉造立青面金剛童子二世安樂之所」右脇に造立年月日。左脇に大間木村庚申待供養施主敬白。


塔の右側面、中央に剥落が見られるが、銘は塔の下のほうに刻まれていて、二段に渡って13名の名前を確認することができた。


左側面は角度が悪く正確な数はわからないが、こちらも二段に渡って十数名の名前。施主は合わせると3人近くになりそうだ。


左から2番目 庚申塔 延享4(1747)四角い台の上の笠付き角柱型の石塔の正面に「庚申供養塔」塔の左側面に造立年月日。右側面に武州足立郡大間木村 施主貳拾五人。


下の台の正面に三猿。両脇が内を向く、このあたりではよく見る構図。位置が悪く金網越しの写真しか撮れなかった。


3番目 花見堂供養塔 享保11(1726)舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。上部に梵字「カ」


左手の宝珠は欠け、白カビに覆われた顔の様子は判然としない。光背右脇「奉建立花見堂講中助爲二世安樂之攸」左脇に造立年月日が刻まれていた。


4番目 念仏供養塔 元禄4(1691)きれいな形の舟形光背、梵字「カ」の下に地蔵菩薩立像を浮き彫り。やはり白カビが多いが、像は欠損は無く比較的美しい。


気品のある顔立ち。光背右脇「奉稱名念佛講二世安樂攸」左脇に造立年月日が刻まれている。


5番目 大乗妙典供養塔 安永6(1777)隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「キリーク」の下に「奉納大乗妙典供養塔」右脇に天下泰平、左脇に日月清明。


塔の右側面に造立年月日。左側面には大間木村 行者□林と刻まれていた。


右端 念仏供養塔 造立年不明。駒型?の石塔の正面、梵字「キリーク」の下に「念佛五百萬遍供養塔」塔の上部と側面が大きく欠けている。塔の左側面上半分は、カビと損傷のために銘は確認できないが、紀年銘はこのあたりに刻まれていたか?下半分、□浄大徳。願主か、行者か、僧が関係していたのだろうか。


右側面に「奉納西國坂東秩父二世安樂」と刻まれていた。観音霊場供養塔も兼ねていたようだ。

尾間木小学校北路傍 緑区東浦和8-10[地図]


内谷墓地の前の信号交差点から南へ150mほど進むと尾間木小学校の北に出る。このT字路交差点を左折してすぐ、道路左側の植え込みの間に石塔が立っていた。植え込みの奥のほうに立っているのでうっかりすると見逃しそうだ。


庚申塔 天明8(1788)四角い台の上の角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、日月雲の下に「庚申供養塔」下の台に正面向きに並んで座る三猿が彫られている。


塔の右側面に造立年月日。左側面には足立郡大間木邑。その下に願主 浄心。講中 十八人と刻まれていた。

 

 

県道235号線梅の郷通り交差点南路傍 緑区東浦和7-6[地図]



尾間木小学校、尾間木中学校の北を通り東へ向かう道は「梅の郷通り」と呼ばれる。県道235号線「駅前通り」との交差点を渡って向いの歩道のすぐ南、ブロック塀の奥に石塔が立っていた。


庚申塔 延享3(1746)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて、外に日月雲、中に青面金剛立像 鈴・ショケラ持ち六臂。「川口型庚申塔」


扁平な髪型、H型の腕、ドクロの首輪。左手に鈴を持ち、右手にぐったりと脱力したショケラを吊るす。このあたり、赤山街道の会梅自治会館筋向いの庚申塚で見た寛保3年の庚申塔とよく似ている。


邪鬼・二鶏・三猿の構図も典型的な「川口型」だった。


両側面ともに空間的な制約があって写真はかなり難しい。塔の右側面「奉造立庚申塔爲二世安樂也」その右脇に武刕木崎領大牧邑。


左側面上部に造立年月日。その下に講中 貳拾二人と刻まれていた。

岡村家墓地 緑区東浦和7-48[地図]


梅の郷通り、駅前通りを東へ渡ってすぐ、道路左側に「岡村家墓地」があった。


墓地の北東奥に二基の庚申塔が並んでいる。


左 庚申塔 寛政12(1800)二段の四角い台の上の角柱型の石塔の正面「庚申塔」


塔の右側面、右に武州足立郡大間木村。中央に會野谷 梅㪽 講中。左に世話人とあり二名の名前が刻まれていた。


塔の左側面に造立年月日。その左下に東野孝保書。上のほうの台に浦和の石工の名前が刻まれている。



右 庚申搭 寛延2(1749)四角い台の上の唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて、外に日月雲、中に青面金剛立像 鈴・ショケラ持ち六臂。こちらも「川口型庚申塔」


扁平な髪型、H型の腕、ドクロの首輪、右手に持ったショケラもぐったり・・・先ほど見た県道235号線の交差点南路傍の庚申塔と酷似している。


足元の邪鬼・二鶏・三猿も基本的には同じだが、この三猿は中央の聞か猿がより高い位置にあって、正三角形に近い構図になっていた。


塔の左側面中央「庚申待供養塔」右下に武蔵國足立郡、左下に見沼領大間木村 講中。


右側面中央、梵字「ウン」の下「奉建立青面金剛童子 祈二世安樂所」両脇に造立年月日が刻まれている。

大牧会館前 緑区東浦和7-29[地図]


梅の郷通りをさらに東へ進み、左手に梅㪽第一公園をみて次の交差点を左折すると、道路右側に大牧会館があって、その入口左隅に石塔が立っていた。

馬頭観音塔 天明元年(1781)舟形光背に三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。光背の縁はところどころ欠けていた。足の下の部分に「六智光本願」


頭上に馬頭。正面の顔は削れているが、左右の顔は慈悲相。持物は矛・法輪・斧・羂索。合掌した手の先もはっきりしない。


塔の右側面「□□觀世音爲二世安樂」

左側面に造立年月日。その左脇に大牧邑施主馬持拾三人。下部に當谷ッ中と刻まれていた。多宝寺霊園 緑区東浦和5-18[地図]西



見沼台通りから富士見坂通りに入ってすぐ、清泰寺の北に二つの墓地があった。東が多宝寺霊園。入口左脇の記念碑を見ると、明治6年に廃寺となった多宝寺跡地の墓地が昭和53年に区画整理のためにこちらに移転整備されたものらしい。


入口から入ると左脇に四基の石塔が東向きに並んでいた。


右から2番目 普門品読誦供養塔 天明6(1786)二段の台の上の角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「サ」の下に「奉讀誦普門品三萬巻供養塔」上の台の正面に大牧村 講中 廿四人。


台の左側面に兩講内 發願十人、さらに世話人一名の名前が刻まれていた。


塔の左側面に造立年月日。右側面 梵字「ソ」の下に「奉待己巳五十箇度供養」講中。巳待供養塔を兼ねたものらしい。

吉場墓地 緑区東浦和5-18[地図]


多宝寺霊園の西隣に吉場墓地の入口があった。二つの墓地の入口は全く同じ仕様の作りになっていて、おそらく同じ時期に移転してきたものだろう。


境内に入り、まっすぐ進むと、右手角に石塔が立っていた。


庚申搭 明和元年(1764)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 鈴・ショケラ持ち六臂。川口型庚申塔である。


扁平な髪型、H型の腕、右手に鈴を持ち、左手に足を折り曲げ正面を向いて合掌するショケラを吊るす。青面金剛の表情は目を閉じていてどこか物憂げ。持物は三叉戟・法輪・弓矢。


足元の邪鬼は他の川口型の邪鬼よりも横長で平たい。その下の三猿も三角形の構図ではなく横並び。邪鬼と両脇に二猿の間に空間の余裕がないためか二鶏は見当たらなかった。


塔の左側面に造立年月日。右側面に「奉建立庚申」


台の正面、右に足立郡大牧村 願主とあり三名の名前。左に勧化中三拾人と刻まれている。

清泰寺 緑区東浦和5-18-9[地図]


二つのぼちのすぐ西の信号交差点を左折すると清泰寺の入口に出る。寺標の左に小堂が立っていた。


寺標と小堂の間に四基の駒型の馬頭観音文字塔。その造立年は前列右が大正12(1923)左は明治45(1912)後列右は明治4(1871)左は昭和50(1975)三つの年号が揃う。


小堂の中 輪光背を負った丸彫りの六地蔵菩薩立像 天保9(1838)全体に美しい。ちょっと前かがみの姿勢は人間臭く親しみが持てる。


台は三つに分かれていて、それぞれに二体のお地蔵様が乗っていた。銘は薄くなっていて読みにくい。右の台の右端に「浄財寄進者?」とあり、金額と名前が細かい字で刻まれている。


2番目の台も同様。左の台の左のほうに造立年月日などが刻まれていた。


六地蔵菩薩塔の左 日待供養塔 元禄9(1696)四角い台の上の分厚い蓮台の上に丸彫りの地蔵菩薩立像。


像だけでも150cmほどの堂々とした体躯。うっすらと微笑みを浮かべるお地蔵様。首に白く補修跡が見える。


蓮台の正面「日待供養之所」両脇に造立年月日。


右脇に大牧村施主欽言とあり、豎者□因法印、以下七名の名前。


左脇には奉加百七十五人とあり、続いて八名の名前が刻まれていた。



六地蔵の立つ入口から東へ進むと、両脇に門柱の立つ山門の前にでる。門柱の左手前に石塔が立っていた。その左側は駐車場で、境目には庚申塔の文字塔が並んでいる。


十一面観世音菩薩塔 安政5(1858)四角い台の上の角柱型の石塔の正面「十一面観世音菩薩」右上に慈覺大師御作。清泰寺の本尊は木造の十一面観音菩薩立像で、慈覚大師=円仁が開山、平安時代初期創建という。右下に足立坂東第六番目、左下に慈了山清泰寺。


台の正面右端に 第七番 柳嵜観音院 十五丁。続いて和歌が刻まれ、左端に 第五番 三室堂 二十六丁。塔の性質としては足立観音霊場の札所、清泰寺の標石ということになるだろう。


塔の右側面「月山 湯殿山 羽黒山 西國坂東秩父供養塔」出羽三山と百観音霊場の順礼供養塔も兼ねている。裏面に造立年月日。続いて施主 大牧村とあり二名の名前が刻まれていた。


境内に入ってすぐ左側、フェンス沿いにスロープの道を進むと本堂の左側の墓地の入口にでる。スロープ左脇の小高くなった一角に多くの石塔。その入口近くに建材のように並んでいるのは庚申塔の文字塔だった。

清泰寺ではあちこちのフェンス沿いに庚申塔の文字塔が並んでいる。これらのおびただしい数の庚申塔は天明3(1783)と万延元年(1860)二度に渡って奉納されたもので、さいたま市の指定有形文化財、その寄進者は市内、県内だけにとどまらず、東京、千葉など、遠くの地域まで広がっていた。

スロープの左側のフェンスの前に二基の石塔。その後ろのフェンスの前にも庚申塔が並んでいる。


左 甲子供養塔 元治元年(1864)片岩の正面に「甲子供養塔」台の正面、銘は薄いが右端に講中、続いて和田 清泰寺とあり数名の名前。背面に造立年月日が刻まれていた。


右 庚申塔 万延元年(1864)自然石の正面に「三百庚申塔」350基の庚申塔のうち万延元年に奉納された300基の庚申塔の「親庚申塔」である。台の正面右から當㪽願主、続いて三名の名前。こちらも背面に造立年月日が刻まれていた。


後のフェンス前の文字庚申塔の列の中に、庚申塔の像塔が立っている。


庚申塔 天明3(1783)塔の上部は破損、日天は欠けている。青面金剛立像 鈴・ショケラ持ち六臂。輪光背を負い三角三つに結い上げた髪型。鈴・ショケラ持ちではあるが「川口型庚申塔」とは程遠い。


足元の邪鬼は両腕を立てて顔を正面に向ける形、岩槻あたりで多く見かけるタイプ。その下に三猿。両脇の見猿と言わ猿は内側の足を立てて外側の足を伸ばして座るユニークなポーズ。


塔の右側面に「奉待庚申五十度供養塔」こちらは50基の庚申塔の「親庚申塔」


左側面に造立年月日。続いて施主一名の名前がきざまれていた。


入口近くに三基の石塔が縦に並んでいる。一番前は墓石だった。


中央 大乗妙典供養塔 安永7(1778)角柱型の石塔の正面「奉納大乗妙典日本回國供養塔」両脇に天下和順・日月清明。


塔の右側面に造立年月日。左側面に武蔵國足立郡  木崎領大牧村とあり行者名が刻まれている。


後 普門品供養塔 嘉永5(1852)塔の正面 梵字「サ」の下に「普門品三萬巻供養塔」右側面に造立年月日。台の正面に十数名の名前が刻まれていた。


本堂の前の鐘楼のすぐ脇に石塔が立っている。


大乗妙典供養塔 宝暦8(1758)四角い台の上に反花付きの台を重ね、角柱型の石塔の上に地蔵菩薩坐像。


舟形の光背は白カビが厚くこびりついている。炎の付いた輪光背を負い、蓮台に片足を立てて座る地蔵菩薩像。右手に持った錫杖が途中で曲がっているのが面白い。


角柱型の石塔の正面、銘の配置が面白いことになっているが主銘は「奉納大乗妙典供養塔」さらに「六十六部日本回國」間に天下和順・日月清明。左端に造立年月日が刻まれていた。


本堂の西の墓地の北東の隅に、埼玉県の指定旧跡である「見性院の墓」があった。見性院は武田信玄の娘で、徳川家康の孫である会津藩主保科正之の養育にあたったという。亡くなった後はその所領地であった大牧村の清泰寺に葬られ、安政5(1858)建立の現在の墓石は、没後230年後に会津藩によって建てられたものらしい。


「見性院の墓」の左隣に清泰寺歴代住職の墓地があり多くの墓石が並んでいた。


後から2列目、右から2番目の墓石の台には「筆子中」と刻まれていて、こちらは筆子塔だった。塔の正面中央「第十四世 三部都法大阿闍梨豎者法印胤體大和尚」塔の右側面に文政7(1824)の命日。


左側面に「第十三世 三部都法大阿闍梨豎者法印圓純和尚」こちらの命日は文化15(1818)建立者は第十九世 現住 孝静となっていた。文化年間には清泰寺に寺子屋があったということがわかる。ちなみにこちらの他の墓石の銘もほぼすべて「三部都法大阿闍梨豎者法印」となっていた。これは特別な行を行うことのできる最高位の僧の位で、他の僧を指導する役目を持った高僧を意味するものらしい。清泰寺の歴代の御住職はそういった最高位の僧侶であったということだろう。


台の左側面 西谷戸 吉場 八丁などから数名の名前が刻まれている。

右側面 奥に和田とあり数名の名前。左には世話人、和田 宮前 吉場から各一名の名前が刻まれていた。

 

西谷自治会館 緑区東浦和5-15-27[地図]


清泰寺入口北の信号交差点を左折して西に進み、東浦和駅前通りの信号交差点の一本手前の道を左に入り50mほど、道路右側に西谷自治会館が立っていた。会館の北と西には墓地が広がっている。


入口から入ってすぐ、会館右手前に二基の石塔。まわりに多くの力石が並んでいた。


右 二神塔 明治18(1885)駒型の石塔の正面に「琴平神社」「天満天神」と刻まれていた。


左 弁才天塔 文化6(1809)片岩の正面に「辯才天」


背面に造立年月日。その下に氏子?社中 勘左と刻まれている。


西の墓地の入口付近に石塔がポツンと立っていた。


庚申塔 安永5(1776)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。小型だが彫りはしっかり残っている。


髪の真ん中はとぐろを巻いた蛇の頭か?持物は矛・法輪・弓・矢。それぞれの手首に腕輪をしていた。


足元の邪鬼は上半身型。両腕の間に大きな頭。その下の三猿はユニーク。左の言わ猿だけ右向き、中央の聞か猿と右の見猿は左向きに座っている。


塔の右側面中央「奉建立庚申」下部両脇に造立年月日。


左側面には見沼領大間木村 西ヶ谷戸 願主 澤野武七母と刻まれていた。

東浦和駅北路地 緑区東浦和5-12-19[地図]


東浦和駅前通り、駅の北の信号交差点を渡って一つ目の路地を右折すると、その先左側に朱塗りの小堂が立っていた。


庚申塔 安永4(1775)四角い台の上の駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


青面金剛は手足が細めで力強さは感じられない。像の右脇に造立年月日。右下に大間木村 講中十六人。左下に願主一名の名前。


足元に全身型の邪鬼。その下に両脇が内を向いて座る三猿が彫られていた。

吉場橋北路傍 緑区東浦和1-15-16[地図]


東浦和駅の南、見沼代用水西縁に架かる吉場橋の北、二つのマンションの間に石塔が立っていた。


花見堂供養塔 享保4(1719)駒型の石塔の正面を彫りくぼめた中に地蔵菩薩坐像を浮き彫り。


舟形光背の形を半浮彫して上部に梵字「カ」その下に合掌して座る地蔵菩薩。彫りは細かい。


下部中央「華見堂供養成就之所」両脇に造立年月日。塔の下部の蓮の花弁に施主 三十七人。


塔の右側面 是よ里右大ミや道。右下に木崎領大牧村。


左側面はブロック塀が迫り、写真はこれが精いっぱい。是よ里 うらわ道と刻まれていて道標になっていた。

 

大北釈迦堂 緑区東浦和3-4[地図]


東浦和駅北の信号交差点を左折して、東浦和駅前北通りを西に向かう。700mほど先の信号交差点を右折するとコンビニの隣に大北釈迦堂の入口があった。前の道を北へ進むと中尾の吉祥寺の東を通って駒形へ、南へ進むと川口の柳崎方面に至る、昔からの街道だったようだ。門柱の間から墓地のフェンス前に石塔が並んでいるのが見える。


もともと日蓮宗の寺院の墓地なので、整然と並ぶこちらの六基の石塔は題目塔と遠忌塔だった。右の五基は遠忌供養塔、左端は読誦供養塔である。


入口左の塀の後ろに庚申塔が立っていた。


庚申塔 寛延4(1751)四角い台の上の笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲の下に「庚申塔」下部に正面向きの三猿が彫られているが、風化のために手や顔など一部が欠けていた。この庚申塔は10年前に取材した時には東浦和3丁目、富士見坂通りの路傍に立っていたもので、その後こちらに移動されたものらしい。

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(2014年4月当時)


塔の右側面に造立年月日。左側面に武刕足立郡大牧村 講中十人と刻まれている。


六基の題目塔・遠忌塔の左端 讀誦法華経供養塔 寛政10(1798)自然石の正面にヒゲ文字で「南無妙法蓮華経五千部成就」ここでは唯一の讀誦供養塔。両脇に造立年月日。下部両脇に「講中」さらに右下に願主三名の名前が刻まれていた。


2番目 日蓮大菩薩五百遠忌塔 天明元年(1781)二段の台の上の角柱型の石塔の正面「南無日蓮大菩薩五百遠忌」上の台の正面に「講中」このあとも50年ごとに遠忌塔は続く。


3番目 題目塔 天保2(1831)正面に「南無妙法蓮華経」右脇に「上行日蓮大菩薩五百五十遠忌」左脇に「無邊行日使大士一百五十遠忌」台の主面に「檀中」


4番目 日蓮大菩薩六百遠忌塔 明治14(1881)四角い台の上の自然石の正面「南無日蓮大菩薩六百遠忌」

5番目 日蓮大菩薩六百五十遠忌塔 昭和6(1931)二段の台の上の石碑の正面「南無日蓮大菩薩六百五十遠忌」台の正面に「講中」


右端 題目塔 昭和56(1981)二段の台の上の石碑の正面「南無妙法蓮華経」右脇に高祖日蓮大菩薩、左脇に第七百遠忌報恩。背面に造立年月日。さらに関係者、協力者合わせて30名の名前が刻まれていた。


墓地に入り突き当りの右、個人の墓所の中、入口近くに像塔が立っていた。


庚申塔 寛政元年(1789)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。講中造立の庚申塔が個人の墓所にあるのは意外だが、世話人としてその造立にかかわって預かることになったものか?風化が進み白カビも厚くこびりついていた。


髪の束が顔から外へいくつも飛び出すようなあまり見たことのない髪型。頭上にこんもりと蛇がとぐろを巻く。顔のあたりに白カビが多くはっきりしないがどうやら三眼のようだ。持物は矛・法輪・弓・矢。こちらは確認できた。


足元に邪鬼が憎々しげに横たわる。台の正面に両脇が内を向く三猿。背中を丸めて座りなんだか元気がない。


塔の右側面は無銘。左側面に造立年月日。その下に木崎領大牧邑 講中八人と刻まれていた。


墓地に入って突き当りから左、やはり個人の墓所の中に江戸時代初期の特徴である相輪が異様に発達した二基の宝篋印塔が並んでいる。


二基の宝篋印塔 慶安2(1649)この二基は双子塔で、墓石だった。それ以前には宝篋印塔は武士や僧侶の墓石としてはいくつか見られたが、慶安あたりの頃になると、このような立派な墓石を一般でも建てるようになったらしい。ただそれも村の最有力者に限られたと考えられる。


頂上の宝珠、相輪の各部分、隅飾の中央にかけて上から「妙」「法」「蓮」「華」


塔身最上部に「經」ここまで「妙法蓮華經」続いて「爲慈天道興□霊位」基礎正面「第十七箇年忌也」両脇に造立年月日。こちらが左塔。


右塔は塔身部に「爲慈母妙法善尼」基礎に「菩提□□一切也」両脇に像立年月日。この両塔はご夫婦の墓石で、左がご主人の17回忌供養塔、右が奥さんの追善供養塔ということだろう。

 

明神神社 緑区東浦和2[地図]


大北釈迦堂の前の道を南に進み、JR武蔵野線を渡ってすぐ、道路右側に明神神社の鳥居が立っていた。鳥居のすぐ先、参道左脇に石塔が見える。


庚申塔 宝暦7(1757)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


風化が進み白カビもところどころに、青面金剛の顔はつぶれていた。持物は矛・法輪・弓・矢。がにまたで邪鬼を踏む。


足元の邪鬼は仰向けに寝ていた。これはほとんど見かけたことがなく珍しい。その下の三猿はそれぞれに自由なポーズ。片足を立てて座ったり寝そべったり、すっかりくつろいでいる。


塔の右側面は無銘。左側面に足立郡井沼形村講中。その横に造立年月日が刻まれていた。

薬師堂墓地 緑区東浦和2-46[地図]


明神神社から南へ進み、東浦和駅南通りを越えてすぐ、道路右手に薬師堂墓地の入口があった。


入口から緩いスロープを進むと右側に多くの石塔が集められている。その多くは無縁仏だった。


石仏群の先。角のところに比較的大きな像塔が並んでいる。写真奥に見えているのが薬師堂。


念仏供養塔 宝永2(1705)大きな舟形光背に錫杖宝珠を手にした地蔵菩薩立像を浮き彫り。白カビは多いが彫りは細かく堂々たる佇まい。光背左脇に造立年月日。


光背右脇「奉造立大菩薩念佛講中為二世安樂也」


左下の部分に木崎領井沼方村と刻まれていた。


薬師堂に向かう道の左の角に二基の大型の石仏が並んでいる。


右 阿弥陀如来坐像 宝永3(1706)大きな四角い台の上、厚い蓮台に丸彫りの阿弥陀如来像。頭、首、胸のあたり、白カビが目立つ。


台の正面に「大和尚」の文字が見え、こちらは高僧の墓石らしい。両脇の紀年銘は命日だろうから、造立年は宝永4年以降ということになる。

左 庚申塔 延宝4(1676)雄大な舟形光背に二臂の青面金剛立像を浮き彫り。全体に動きは少なく素朴な印象を受ける。二臂の青面金剛というのはかなり珍しい。


上部に日月雲は無く、頭の上に「諸願成就」と刻まれていた。髪の中のぐるぐるは蛇だろうか?光背右脇に武州足立郡井沼方村。左脇に造立年月日。


光背右下に導師□□法印□僧□。左下に施主名。右手に羂索を持ち、左手にはショケラを吊るす。さらに虎の頭の前垂れをしていて、このあたりも相当にユニーク。足元に邪鬼と二鶏の姿は無く、最下部に正面向きの三猿だけが彫られていた。江戸時代初期ならではの個性的な庚申塔と言っていいだろう。


墓地は南側にも広がっている。入口近くの大きな個人の墓所の中にとりわけ個性的な石塔が立っていた。


三界万霊塔 寛政5(1793)四角い台に敷茄子・蓮台付きの角柱型の石塔を乗せ、さらにその上の敷茄子・蓮台付きの舟形光背に三体の仏像を浮き彫り。凝った構成になっている。角柱型の石塔の正面に「三界萬霊」その右下に施主名が刻まれていた。


舟形光背に浮き彫りされた三尊像。瑞雲に包まれた蓮台の上に智拳印を結んだ金剛界大日如来坐像、その左下に右手与願印、左手に蓮華を持った聖観音菩薩坐像、右下に三鈷杵を手にした弘法大師坐像。それぞれに気品があり美しい。


塔の右側面に二つの戒名と命日。左側面には施主の俗名と造立年月日。さらに童子戒名が刻まれていた。


裏面に「奉納 秩父 坂東 西國 四國 百八十八ヶ所為二世安樂」両脇に天下泰平・日月清明。順礼供養塔も兼ねている。