松木二丁目三差路広場 松木2-18[地図]
三室小学校の南あたりから東へ向かう広い道路は、芝川に架かる見沼大橋を越えて南部領辻方面に至る。東浦和駅前通りから続く大通りとの信号交差点の100mほど西から南に入って200mほど進むと、道路右手の三差路のところに新しく広場ができていた。10年前は雑草の生い茂る空き地で、七基の石塔がたっていたところだ。
現在は広場の西のフェンスの前に八基の石塔が一列に並んでいる。
右端 馬頭観音塔
文久元年(1861)駒形の石塔の正面「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。10年前に見たときは「馬頭觀世音」の下に「講中」と刻まれていたが、今は地中に埋まっていて見えなかった。
2番目 庚申塔
天明3(1783)四角い台の上の唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、日月雲 青面金剛立像
合掌型六臂。こちらは10年前には見られなかった石塔で、新しく広場がつくられた時に移設されたらしい。資料を調べてみると、文珠寺の東の個人の住宅にあった庚申塔で、当時その存在は知っていたがチャンスがなく取材を見送ったもの、10年ぶりに拝見することができた。ずっと気になっていた庚申塔だったのでありがたい。
風化のために像の表面はやや丸くなっていた。てっぺんが扁平な髪形。六臂の形は自然で、矛・法輪・弓矢を持つ。足の両脇に二鶏を半浮彫。足元には上半身型、両腕を張って正面向きに顔を出す邪鬼。
三猿は塔の下の台の正面に彫られていた。こちらも下部がじゃっかん土に埋まっているがギリギリ全体の様子が見える。両脇に猿はうつむき加減に内を向いて座っている。
塔の右側面中央「奉建立青面金剛童子」両脇に天下泰平・國土安穏。
左側面手前に武州足立郡木崎領三室村之内松木村。脇に講中三十二人
馬場四人。奥のほうに造立年月日。その下に願主 三人の名前が刻まれていた。
3番目 庚申塔 享保8(1723)四角い台の上の大きな駒形の石塔の正面 日月雲
青面金剛立像 合掌型六臂。
頂上が扁平っぽい髪形、H型の腕、髑髏の首輪。「川口型庚申塔」である。白カビが多く、顔もはっきりしないが、三眼か?薄くあいた口元から牙が見えていた。
足下に丸くうずくまる邪鬼。その下に両脇が内を向く三猿を三角形に配置して、邪鬼と三猿の間に二鶏が浮き彫りされている。
塔の右側面「奉供養庚申塔爲二世安樂」下部に願主含め七名の名前。
左側面に造立年月日。その横に武州足立郡木崎領松木村。塔の下部にこちらも願主を含めて七名の名前が刻まれていた。
4番目 馬頭観音塔
寛保元年(1741)舟形光背に三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。これも白カビが厚い。
カビに覆われ顔ははっきりしないが慈悲相か?頭上には大きな馬頭がくっきり。腕の付き方はH型。馬口印を結び、宝珠、未敷蓮華、弓矢を持つ。塔の中央、首の下あたりに断裂跡があった。
塔の左側面に造立年月日。右側面「爲千馬」続いて木崎領三室村施主とあり個人名が刻まれている。
5番目 馬頭観音塔
安永9(1776)舟形光背に一面二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。白カビが厚く、顔のあたりは破損。頭上に馬頭がかろうじて確認できる。光背右脇「奉建立馬頭観音」左脇に造立年月日が刻まれていた。
6番目 馬頭観音塔 造理宇年不明。駒形の石塔の正面
忿怒相?二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。
髪の中に小さな馬頭。塔の左側面に松木講中。右側面は荒彫りで無銘。紀年銘は見当たらない。本来あったはずの台を欠いたものだろうか?
6番目 馬頭観音塔
安政5(1858)10年前と比べると白カビが増えて銘が読みにくい。駒形の石塔の正面「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。あと10年もしたら銘はいよいよ読めなくなってしまうかもしれない。
左端 馬頭観音塔
弘化3(1846)駒形の石塔の正面「馬頭觀 」右脇にかすかに造立年を確認。塔の下部は大きく破損していて原型をとどめない。10年前は「馬頭観世 」まで見えていた。
毘沙門堂墓地 緑区松木2-7[地図]
東浦和駅前通りを北へ向かい、国道463号線バイパスの芝原一丁目交差点をを越えて、さらに500mほど先、道路左側にあるスーパーの北の角を左折、西に進むと右手に毘沙門堂墓地の入口があった。
入口から入ってすぐ右側、新しい六地蔵の小堂と入口右脇にフェンスに挟まれたごく狭いスペースに地蔵菩薩塔が立っている。なぜ、こんなところに?
地蔵菩薩塔
享保17(1932)舟形光背に錫杖と宝珠を手にした地蔵菩薩立像を浮き彫り。錫杖の先は欠けていた。光背右脇「奉造立地蔵尊爲二世安樂也」左側面に造立年月日。像は白カビに覆われているが、尊顔はふくよかで優しい。
入口左脇に多くの石塔が並んでいる。墓石もいくつかある中、供養塔が三基あった。
西向きに立つ二基のうち 左 普門品供養塔
文化2(1805)四角い台の上、敷茄子と蓮台付きの角柱型の石塔の正面 梵字「サ」の下に「普門品供養塔」台の正面に松木講中。
塔の左側面に造立年月日。右側面に天下泰平郷中安全と刻まれていた。
右 大乗妙典供養塔
享保9(1724)大きな四角い台の上の角柱型の石塔の正面「奉納大乗妙典六十六部」上部両脇に天下泰平・國土安穏。下部両脇に諸願 成就。
塔の右側面に造立年月日。左側面に大きな字で「佗力本願之施主」佗力本願=他力本願、仏の力によって成仏するを得るという信仰を持つ人たちという意味だろうか。あまり見たことはない。
北向きに並ぶ石塔の左端 大乗妙典供養塔
宝暦元年(1751)角柱型の石塔の正面「奉納大乗妙典六十六部供養塔」両脇に天下泰平・日月清明。右下に三室村松ノ木、左下に願主 善當。
塔の右側面に造立年月日。左側面に生國赤山領領家村
俗名が刻まれ、その右下に村々志之施主。納経回国者=善當(俗名 猪野某)供養塔造立施主=村々の有志ということだろう。
地蔵堂 緑区松木3-18[地図]
毘沙門堂の前から東へ向かい、大通りの信号交差点を越えてさらに200mほど先のT字路交差点を左折、しばらく進むと道路左側に地蔵堂霊園の入口があった。正面に地蔵堂が立ち、左側が墓地になっている。
地蔵堂の右側、六地蔵の小堂の奥に丸彫りの石仏が立っていた。六地蔵塔は紀年銘は見当たらないが比較的新しいもののようだ。
六地蔵塔の脇、ブロック塀の前に善光寺如来供養塔
正徳3(1713)円筒型の石塔の上に来迎印を結ぶ阿弥陀如来立像。
顔は崩れ、両手の先は破損していた。風化のためかもしれないが、衣装の彫は比較的きれいに残っていることから考えると、損傷は人為的なものか?
円筒形の石塔の正面を彫りくぼめた中「信州善光寺如来四十八度」順礼供養塔だろう。左脇に造立年月日。武刕三室村
施主 最心。
右脇に「他力本願供養」あまり見かけない銘だが、毘沙門堂の大乗妙典供養塔に続いて再登場。念仏を唱え、阿弥陀如来の本願によって成仏を成し遂げたいという趣旨と思われる。
三室堂道桜の木の下 緑区松木3-7[地図]北
三室小学校の北を通り東に向かい、東浦和駅前通りから北上する大通りを越えてゆく道は、やがて三室堂(馬場観音堂)へ至り、「三室堂道」と呼ばれた古道らしい。大通りを越えて200mほど先から道はゆっくり左へカーブしてゆくが、ちょうどそのあたり、道路右側の大きな桜の木の下に庚申塔が立っていた。
庚申塔 安永5(1776)四角い台の上の唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中
日月雲 青面金剛立像 鈴・ショケラ持ち六臂。石塔全体に風化が進む。
像も彫りが丸くなっていて、いまひとつ様子がはっきりしない。てっぺんが扁平な髪型、右手に鈴、左手にショケラを持つ鈴・ショケラ持ちは「川口型庚申塔」に多い特徴だが、腕の付き方がH型ではなくごく普通で、これは川口型とは言えないだろう。
足元の邪鬼は正面向き上半身型。その下に三猿。左の猿は右を向き、中央と右の猿が左を向く構図、ほとんど見たことがないユニークな三猿だ。
塔の右側面に「奉造立青面金剛童子」両脇に天下泰平・國土安全。
塔の左側面中央「奉建立庚申」左脇に造立年月日。右下に武州足立郡木崎領
三室村松木講中卅三人。左下に願主の名前が刻まれていた。