緑区道祖土・山崎

三室道路傍 緑区道祖土4-6[地図]


国道463号線バイパスの信号交差点から原山住宅の東を北へ向かう道は古い街道で「三室道」と呼ばれたらしい。バイパスの交差点から350mほど道なりに進んだ先の十字路角、電信柱の脇に石塔が立っていた。


庚申塔 文化13(1816)角柱型の石塔の正面拾部に「庚申塔」両脇に造立年月日。風化が進み摩耗が激しい。


正面下部、右のほうに南 わらび?江戸 道。銘はかなり薄くなっていて読み取りにくい。左のほうに足立郡道祖土村講中と刻まれていた。


塔の右側面 東 みやもと おおさき?道。


左側面 西 大みや ひきまた?道。地名の読みはあまり自信はない。裏面には北とあるが、その下の銘は未確認。四方向八地名が刻まれた本格的な道標だった。

道祖土住宅前 緑区道祖土4-33[地図]


道標庚申塔から北へ進み、80mほど先のT字路交差点を右折、しばらく進むと道路左側の住宅の前に三基の石塔が並んでいた。


左 馬頭観音塔 正徳5(1715)四角い台の上、大きな舟形光背に三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。頭上の梵字は「サク」?観音菩薩を表す「サ」と取り違えたものだろうか。


三面六臂忿怒相の青面金剛。馬口印を結ぶ。頭上の馬頭もくっきり。形の良い舟形光背にバランスの良い佇まいの馬頭観音像。彫りも細かく秀作と言えるだろう。


足下の部分に 武刕足立郡 浦和領 道祖土村 講中廿二人、最後に造立年月日が刻まれていた。


中央 庚申塔 宝永6(1709)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。風化のためやや摩耗が見られる。


大きな日月の間に刻まれた銘は初見。「□目積於」か?持物のうち矛と弓矢は線刻。合掌した手の先は欠けていた。足の両脇には二鶏を半浮き彫り。像の右脇「庚申結講之銭□□石橋三□□□□□□也」石橋供養塔を兼ねたものらしい。左脇に造立年月日。その下に武州足立郡浦和領。


足元の邪鬼は腰を高く上げ右足を伸ばして伏せる。青面金剛に足蹴にされて首がねじれて苦しそうだ。その下に正面向きに並んで座る三猿。三猿の右脇に同行貳十人、左脇に道祖土村講中と刻まれていた。


右 庚申塔  安永9(1780)小さな駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。狭い空間だがしっかりした彫りで濃密な構成。三眼吊り目の青面金剛。右手にはクロスを持ち、左手に法輪を乗せる。足元の邪鬼は腕を組んで寝そべる。その下の三猿はさすがに狭苦しい。


塔の左側面に造立年月日。さらに下部に講中 廿二人。右側面は狭すぎて写真は撮れないが、足立郡道祖土村と刻まれていた。

地蔵堂墓地  緑区道祖土3-8-33[地図]


道標庚申塔から50mほど北を左折、しばらく進んで突き当たりを右折すると道は二つに分かれ、右のほうの道に入るとすぐ先の左手に地蔵堂墓地の入口があった。入口正面が地蔵堂、その先に墓地が広がっている。入口左側に小堂が立っていた。


小堂の中 六地蔵菩薩塔 宝暦3(1753)舟形光背に浮き彫りされた六体の地蔵菩薩像はよく揃っている。普通この種の六地蔵菩薩塔では何人かの施主が故人や先祖の供養のためにそれぞれに地蔵菩薩塔を造立、合わせて六地蔵菩薩塔として奉納され、墓地の入口あたりに並ぶことが多い。ところがこちらの六地蔵菩薩塔は光背に刻まれた戒名、命日、俗名、施主名などが六基とも同じ、つまり、施主大熊氏が、宝暦3年に亡くなった「・・・大姉」の追善供養のために六地蔵菩薩塔を造立したということになる。今までに見たことのない六地蔵である、さらに下の新しい台に「六地蔵尊開眼供養 平成十年」とあり、どう考えたらいいのか難しい。


同じ小堂の中 地蔵菩薩塔 寛文6(1666)鋭角的な舟形光背に錫杖宝珠を手にした地蔵菩薩立像を浮き彫り。彫りは厚く写実的。こちらは墓石だった。


墓地の中ほど、地蔵堂の横あたりに立派な二基の石塔が並んでいる。


右 金剛界大日如来坐像 元禄7(1694)智拳印を結ぶ。舟形光背に信士戒名。墓石に大日如来像は珍しい。


左 胎蔵界大日如来坐像 元禄7(1694)定印を結ぶ。光背に信女戒名。二つの大日如来塔を合わせて考えると、三月に奥さんが先に亡くなり、そのあとを追うように五月にご主人が亡くなり、残されたご遺族が両親の追善供養のために墓石として一対の大日如来塔を造立したものと思われる。ようやく一般に石造墓塔が普及し始めた頃のことで、このような立派な墓石を造立できたのは、豊かな財力のある家だったということだろう。

 

宝蔵院観音堂 緑区山崎1-16[地図]


JR北浦和駅東口から北東に向かう県道65号線、木崎を越えてその先、第二産業道路の山崎交差点の100mほど手前を左折すると宝蔵院観音堂の前にでる。ここは明治初年に廃寺となった真言宗寺院・宝蔵院の跡地で、今は観音堂と墓地だけが残されている。墓地は観音堂へ向かう参道の両側、境内、さらに右側の高台の上まで広がっていた。


観音堂右手前に宝篋印塔 安永3(1774)が立っている。江戸時代中期以降に多い屋根型の笠をもち、宝篋印塔ではあるが銘を見ると「奉造立日本廻國六十六部」とあり、大乗妙典供養塔だった。宝篋印塔と大乗妙典供養塔という組み合わせは相性がいいのか、結構見かける。


観音堂入口手前から右の階段を上ってゆくと高台のほうの墓地にでる。階段を上り切った先に六地蔵の小堂が立ち、その右脇に三基の石塔、左側に卵塔などの石塔が並んでいた。


三基の石塔の右 庚申塔 明和8(1771)駒型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。


髪を大小三つの三角形に結い上げ、中央の大きな髪の束が右に曲がっていた。この形は岩槻の萩原氏一門の青面金剛庚申塔で多く見られた。(2020年7月13日の記事参照) ただし、「萩原庚申塔」は剣・ショケラ持ちが基本で、足元の邪鬼は全身型。萩原氏一門の作品ではないとしたいところだが、造立年が同じ頃でもあり、全く無関係とも思えない。像の右脇「奉造立庚申心待供養像」左脇に造立年月日。その下に願主名が刻まれていた。


足元、どんぐりまなこの邪鬼は正面向き上半身型。両手を合わせた上に大きな顔を乗せる。その下に小型の三猿。両脇が内を向いて座り、三猿の間の空間に二鶏が浮き彫りされている。


その隣 花見堂供養塔 明和2(1765)舟形光背に錫杖と宝珠を手にした地蔵菩薩立像を浮き彫り。足下の部分に三室村 山崎 願主講中と刻まれていた。


光背右脇「奉造立花見堂尊像供養爲二世安樂也」左脇に造立年月日。静かに目を閉じたお地蔵様。凛とした佇まいである。


左 馬頭観音塔 天明8(1788)舟形光背に二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。人差し指を立ててしっかりと馬口印を結ぶ。


光背右脇に「馬頭觀世音」左脇に造立年月日。頭上の馬頭は明快。横から見ると観音様はかすかに顔をしかめている様子で、どうやら忿怒相のようだ。


小堂の中の六地蔵菩薩塔 宝暦12(1762)丸彫りの六体は白カビも少なく美しくそろっている。


六基ともに敷茄子の下の角柱型の石塔の正面に銘が刻まれていた。右端、中央に「奉造立六地蔵菩薩」両脇に願主名。2番目の中央に施主名。


3番目、處々村々志。4番目にも施主名。


5番目、中央に村男女講中。両脇に造立年月日。左端中央にまた村男女講中と刻まれていた。



小堂左の石塔群の中、左から2番目 足立観音霊場供養塔 安政6(1859)四角い台の上の角柱型の石塔の正面「南無足立三十四ヶ所觀世音□」両脇に造立年月日。調べてみると享保8年に創設された足立新秩父三十四ヶ所霊場」さいたま市、上尾市、桶川市に秩父の34の霊場を移し、これを順礼したものらしい。


塔の左側面に向譽求善。こちらが順礼者だろうか?右側面には北 いわつき、南 うらわ 道 とあり道標になっている。


墓地のほうに向かうと、大きな木の下に地蔵菩薩塔 享保2(1717)が立っていた。四角い台の上、丸みを帯びた反花付き台を重ね、分厚い敷茄子・重厚な蓮台に丸彫りの地蔵菩薩立像。2mを優に超す。


像は欠損はないが、風化のためにやや彫りが丸くなっていた。


敷茄子の正面を浅く彫りくぼめた中「奉納大乗妙典 廻國 供養塔」両脇に造立年月日が刻まれている。