秋葉神社西の塚 西区中釘871南[地図]
県道57号線の道標のあった押しボタン信号交差点から東へ向かい、道なりに進むと秋葉神社の前にでる。その300mほど手前、道路右側に塚があって、塚の上は墓地になっていた。塚の西のふもとに二基の石塔が並んでいる。
左 馬頭観音塔
明治12(1879)駒型の石塔の正面「馬頭觀世音」両脇に造立年月日。
塔の右側面は無銘。左側面には中釘村
施主とあり、二名の名前が刻まれていた。
右 馬頭観音塔
文政4(1821)駒型の石塔の正面「馬頭觀音」両脇に造立年月日。
下部に願主
中釘とあり、左に三名の名前が刻まれている。
塚の南の中腹にポツンと石塔が立っていた。
庚申塔
延宝4(1676)板碑型の三猿庚申塔。峰岸に続いて、このあたりには三猿庚申塔が多いのだろうか?こちらの石塔は風化の様子もあまりなく美しい形を保っている。
中央に「奉成就庚申待之塔」上部両脇に造立年月日。下部に願主 中茎村
敬白。
その下に正面向きに座る三猿。さらにその下の部分、三枚の蓮の花弁にそれぞれ二名の名前が刻まれていた。
秋葉神社 西区中釘818[地図]
塚のあたりから東へ進み、秋葉通りを越えて150mほど進むと秋葉神社の入口。階段を上った先に堂々たる構えの社殿が立っている。
社殿の右脇を進むと稲荷社があり、その前に二対のキツネが並んでいた。左脇には石祠が立っている。
稲荷社の後ろのクマザサの中に二基の庚申塔が立っていた。
右 庚申塔
貞享3(1686)峰岸団地前、西の塚の中腹に続いて、この地域で三基目の板碑型三猿庚申塔。峰岸のほうは造立年不明だったが、西の塚のほうは延宝4(1676)で、造立年も近い。塔の右肩が一部欠損。正面上部中央に「庚申」その下に造立年月日。さらに下部に天渕 立之。
塔の最下部に正面向きの三猿が彫られている。
左 庚申塔
天保12(1841)角柱型の石塔の正面中央に「庚申塔」両脇に造立年月日。
塔の左側面に中釘村とあり、下のほうに願主、セハ人、それぞれ一人の名前。
右側面には講中とあり五名の名前が刻まれていた。
社殿の裏を回って西のほうに進むと、やはりクマザサの中に石塔が立っている。隣の石灯篭の脇には下り階段があって、ここは崖下にある弁財天社の入口らしい。
庚申塔 元禄元年(1688)駒型の石塔の正面 日月雲 三眼忿怒相の青面金剛立像
合掌型六臂。持物は柄の長い矛・法輪・弓・矢。像の右脇「奉造立庚申供養之所」左脇に造立年月日。
足の両脇に
敬白。足元に邪鬼・二鶏は見当たらず、正面向きに並ぶ三猿だけが彫られていた。
永昌寺 西区中釘1698[地図]
秋葉神社の北で秋葉通りは右におおきくカーブして東に向かうが、少し進むと斜め左に分かれてゆく道があった。このやや細い道に入って400mほど先に永昌寺の入口がある。入口から100mほど奥に山門が立ち、両脇に大きな石塔が並んでいた。
左脇 戒壇石
安永4(1775)上部が凝った形の角柱型の石塔の正面「不許葷酒入山門」右側面に造立年月日。左側面に施主北貝戸村の後は個人名だが、最後に「母」とある。
右 観音霊場供養塔 寛政8(1796)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面「西國 秩父 坂東
南無觀世音菩薩」塔の左側面に「百箇所順禮諸願成就皆令満足」右側面に造立年月日。その下に當山十二世良明叟代。さらに回国行者 個人名が刻まれていた。
山門を入ると正面に本堂。参道の両脇に多くの石塔が並んでいる。参道右脇には9基の石塔。
手前から如意輪観音塔
寛政7(1795)四角い台の上、角柱型の石塔に敷茄子・蓮台を重ねた上に如意輪観音半跏坐像。石塔の正面に「爲諸聖霊」両脇に信女、比丘尼ふたつの戒名が刻まれていた。これは個人の墓石ではなく、合わせて諸々の霊のために造立した供養塔ということだろうか
中郷薬師堂、旧法願寺墓地に続いてこの地域で三基目の丸彫りの如意輪観音像である。上の手は右手は頬に、左手に法輪。中の手は右手に宝珠、左手に蓮華。下の手は数珠を持った右手は右足の裏に、左手は左ももの上に置き、三基の持物は同じで、特に旧法願寺墓地の像とよく似ているようだ。
石塔の右側面に造立年月日。その横に當山十二世良明代。このご住職の名前は門前の観音霊場供養塔にもあった。導師としてここに銘があることからも単に個人の墓石ではないような気がする。
左側面には願主とあり、信士1、信女2、童子1の合わせて四つの戒名があり、信士の横に俗名が刻まれている。一家そろって生前戒名を授かった村の有力な檀家さんが願主として造立したのかもしれない。
その隣 馬頭観音塔
文化13(1816)駒型の石塔の正面に三面六臂の馬頭観音立像を浮き彫り、顔はつぶれているが、髪を逆立て忿怒相か?頭上に馬頭。持物は羂索、法輪、独鈷杵、棒。像の前面は損傷が著しい。
塔の右側面に造立年月日。この角度からはやはり忿怒相に見える。
左側面には中釘村
願主とあり、個人の名前が刻まれていた。
続いて大乗妙典供養塔
天明6(1786)上部が丸い角柱型の石塔の正面中央に「奉納大乗妙廻國供養塔」両脇に造立年月日。下の台の右側が大きく欠けている。
塔の右側面 「伏願 十方助力男女各各
現世安穏後生善処」
左側面に武州足立郡差扇領中釘村とあり、その横に現永昌□明□代。その下に願主
自運任□と刻まれていた。
二本の立木をはさんで、その先に馬頭観音塔
明治34(1901)駒型の石塔の正面「馬頭觀世音」塔の右側面に造立年月日。左側面に施主は個人名。
続いて地蔵菩薩塔
宝暦5(1755)四角い台の上の角柱型の石塔に敷茄子・蓮台を重ねて、その上に丸彫りの地蔵菩薩立像。尊顔は穏やかで大きな欠損もない。
塔の正面に造立年月日。その横に施主 中釘村中。
塔の右側面に助力とあり、下部にひらがなで多くの名前が刻まれている。
左側面には願主とあり、こちらの下部にもひらがなで多くの名前、どうやら女性中心の講のようだ。
その隣 地蔵菩薩塔
安永4(1775)二段の四角い台の上に反花付き台を重ねた上に角柱型の石塔。さらに分厚い敷茄子に重厚な蓮台に立つ丸彫りの地蔵菩薩像。総高は約3m、雄大なスケールの地蔵菩薩塔。石塔の正面に「先祖諸精霊」と刻まれていた。
塔の左側面に造立年月日。右側面に施主上野邑とあり、横に個人名が刻まれている。隣村である上尾の上野の檀家さんがご先祖様の供養のためにこの規模の大きな地蔵菩薩塔を個人で造立したということか?江戸時代中期になって、それだけの豊かな経済力を持った富裕層が存在したということになる。
続いて地蔵菩薩図像石碑
大正3(1914)大きな自然石に地蔵菩薩像を線刻。遠目ではほとんど識別できない。
上部に蓮台に座る輪光背を負った地蔵菩薩像。右脇に「四國八十八ヶ所寫」左脇に高野山大地蔵と刻まれていた。曹洞宗寺院である永昌寺に弘法大師ゆかりの石碑が建つのは面白い。
下部には蓮台に立つ六体の地蔵菩薩像を線刻。六地蔵だろうか?
その隣 地蔵菩薩図像石碑
大正2(1913)下部に造立年月日。その下に個人の名前で建之。
近寄って見るとこちらは一尊、やはり輪光背を負った地蔵菩薩立像で、体をやや前に傾けて衆生に語り掛ける姿のように見える。
一番奥、如意輪観音塔。小型の駒型の石塔の正面に六臂の如意輪観音坐像を浮き彫り。顔はつぶれていて、像の一部が摩耗、それでもしっかり六臂の持物は確認できた。銘は見当たらず造立年などの詳細は不明。右端の大きな如意輪観音塔と較べると取るに足らないような規模の如意輪観音塔だが、ここではしっかりとお祀りされている。
参道左には二つの六地蔵の小堂を中心に石塔が並んでいた。
手前から 蔵経塔
寛政8(1796)二段の四角い台の上、隅丸角柱型の石塔の正面「蔵経塔」蔵経=一切経だという。
塔の右側面に造立年月日。左側面に當寺十二世明□建立。門前の観音霊場供養塔と同年の造立で、永昌寺12世の銘があるが、あちらは「良明」で、こちらは「明□」同一人物だと思えるのだが不思議だ。
続いて小堂の中 六地蔵塔
享和3(1803)三基の台にそれぞれ二体の丸彫りの地蔵菩薩像が乗っている。六体は蓮台に立ち、サイズ、顔の様子もよく揃い、いかにも六地蔵らしい。
真ん中の台の右端から「有縁無縁
三界萬霊」続いて造立年月日。この台は風化のために多く剥落が見られるが、さいわいにも大事な銘の部分だけは残っていた。
左右の台には合わせて二十ほどの戒名が刻まれている。
二つの六地蔵の小堂に間、三界万霊塔
安永4(1775)二段の四角い台に反花付き台、角柱型の石塔に分厚い敷茄子と蓮台を乗せ、丸彫りの地蔵菩薩立像。総高約3m。よく見て見ると、こちら前回見た参道右の大地蔵塔とそっくりで造立年も一緒、顔の様子だけが違っていた。
石塔の正面に「三界萬霊」右側面に造立年月日。
左側面に施主 中釘 原 村中。助力
近里遠村。さらに閑遊禅定尼、こちらは願主か?裏面に現永昌寺十一世良榮代と刻まれている。永昌寺は石塔の数が多いので、参道右と参道左の取材を日を分けて別々におこなった。そのために昨日までうかつにも左右の大地蔵菩薩塔の相似に気が付かなかたのだが、今日確認に行ってみたら参道右の大地蔵菩薩塔の裏面にも現永昌寺十一世良榮代と銘があった。どうやらこの二基の地蔵菩薩塔は一対のものらしい。なぜか右は施主が上野村の個人で正面の銘が「先祖諸精霊」、左は施主が中釘村と原村の村中で、正面の銘は「三界萬霊」となっている。そのあたりのいきさつはどうなっているのか興味深いものがある。
その隣 小堂の中に六地蔵菩薩塔
天保6(1835)二つの台の上に丸彫りの地蔵菩薩立像。こちらの六地蔵もよく揃っていた。
台には多くの戒名とその命日が刻まれている。
台の右側面に當山拾五世禅量代。
台の左側面に造立年月日。施主
木野下村とあり個人名が刻まれていた。
続いて小堂の脇に石灯篭 天保6(1835)四角い竿の正面に「奉納
六地蔵尊寶前」
竿の左側面に施主
木野下村とあり、六地蔵の施主と同じ名前が刻まれている。
右側面に造立年月日。六地蔵といっしょに造立されたもののようだ。
右端 万霊塔
文政3(1820)二段の四角い台の上、角柱型の石塔の正面「萬霊塔」両脇に願文。敷茄子、蓮台を重ねた上に合掌する地蔵菩薩坐像。
塔の右側面には四行の偈文。
左側面「依多年志願造立焉」その横に當山十二世圎眼良明叟。さらに十四世良□代。十二世のとき発願、十四世のとき造立ということか。一番奥に造立年月日が刻まれていた。永昌寺にある多くの石塔は十一世から十五世まで歴代住職の銘があり、その時の御住職の呼びかけに、村の人々、また村の有力者が応じて造立されたもののようだ。
松葉堂 西区中釘1421北[地図]
永昌寺の北を通る道を西に向かいその先のT字路を左折、60mほど先を右折して細い道に入りしばらく進むと松葉堂が立っていた。堂の扉には錠がかかっていて中には入れない。
扉の隙間からのぞくと左奥に馬頭観音坐像が見えた。三面八臂?の本格的な馬頭観音だが銘などは確認できない。
右側に舟形光背型の地蔵菩薩立像。これもきれいな形の地蔵菩薩像で江戸時代初期のものと思われる。この松葉堂の石仏についてはごく最近知ったばかりで、いつか近くで見る機会があったら取材したいと思う。
永昌寺北西路傍 西区中釘1998北[地図]
清河寺交差点から北へ上尾の平方方面に向かう県道216号線。市境の手前、角に埼玉運輸支局のある信号交差点を左折、交差点から300mほど先、大きな立体駐車場の脇の細い道を左折して道なりに南へ進むと、路傍に瓦屋根の小堂が立っていた。
小堂の中 庚申塔
昭和17(1942)再建。四角い台の上の駒型の石塔の正面中央に「庚申」右脇に造立年月日。左脇に旧原一同。その下に世話人三名の名前が刻まれている