西区土屋

道香院観音堂 西区土屋90[地図]


県道57号線、金山堂から600mほど先、道路左側にある馬宮コミュティーセンターを過ぎてすぐ、ドラッグストアの脇の道を右折してしばらく行くと左手に道香院観音堂があった。お堂の前の階段の左手前に石塔が立っている。


普門品供養塔 天保12(1841)大きな片岩の正面上部、四角の中に「如意輪觀世音」その下に「普門品供養塔」


裏面左上に造立年月日。右のほうに大きく「講中」


続いて不同とあり、その下に細かい字で多くの名前が刻まれている。小さな字ではあるが彫りはクリアで読みやすく、今回は丁寧に確認することができた。銘は三段にわかれ、上の段右から遊馬村とあり10名の名前、次に「田向」(字だろう)から3名、以下東間、本邑、上サ、高木、中野、湯木、内野村、五味貝戸、千駄木、など近隣の村々から多くの人々の名前が続き、土屋村からは14名の名前が刻まれていて総勢50名近い。


さらに下の段の左には遊馬村田向當村女講中とあり二名の名前、続いて發願 永田氏、普門廿九世、導師 高城 十四世などと刻まれていた。

土屋共同墓地 西区土屋180[地図]


県道57号線 馬宮コミュニティーセンターから指扇駅方面へ400mほど進むと、道路右手に墓地があった。入口からのぞくと正面が墓地で、右手に会館、左手に防災倉庫が立っている。こちらは旧薬王寺の墓地らしい。


会館の前に小堂が二つ、丸彫りの大きな地蔵菩薩塔と六地蔵菩薩塔が並んでいた。


右 地蔵菩薩立像 元禄13(1700)六角形の反花付き台の上に丸い敷茄子、蓮台を重ねて丸彫りの地蔵菩薩像。彫りはきれいに残っているが首に補修跡が残る。反花付き台、敷茄子、蓮台の間にも白いセメントで補修した跡が残り、各パーツごとに石の色が違うのもちょっと気になる。


蓮台の正面の花弁に武蔵國足立郡と刻まれていた。


その下の敷茄子の裏に 植田谷領土屋村、両脇に造立年月日。他に銘は見当たらないが、もしかしたら創建時にあった本来の石塔部が欠けているのかもしれない。


その隣の小堂 六地蔵菩薩塔。五体の地蔵菩薩像は同じように首に補修跡があった。右端はあとから補われたものだろう。紀年銘などは見当たらず詳細は不明。


墓地入口左側、防災倉庫裏のコンクリートの台の上に多くの石塔が並んでいる。卵塔など、その多くは墓石だった。


前列左端 大日如来供養塔 寛文11(1671)きれいな形の舟形光背 梵字「バン」の下に智拳印を結ぶ金剛界大日如来立像を浮き彫り。


光背の右脇「奉造立大日如来」その下に土屋村。左脇に造立年月日が刻まれている。


光背右下に施主とあり、続いて左右に渡って十数名の名前が刻まれていた。


左から3番目 普門品供養塔 享和元年(1801)駒型の石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「奉讀誦普門品 三万五千巻 供養塔」両脇に造立年月日。


塔の右側面に武州足立郡土屋村。下部に十数人の名前。左側面下部にも同じように十数人の名前が刻まれている。


右端 雨除けの下に如意輪観音塔 文政3(1820)背の高い角柱型の石塔の上、敷茄子・蓮台に丸彫りの如意輪觀世音菩薩坐像。塔の正面に「如意輪觀音」


柔らかで豊かな像容の二臂の如意輪観音像。欠損はないが、左ひざのあたりの色が変わっていた。


石塔は風化が著しく進み、各面にひび割れが見える。右側面に造立年月日が刻まれているが、上部は大きく剥落。干支から判断して文政3年とわかるものの、あと何年かするとさらに風化が進み判断が難しくなりそうだ。


左側面には武刕足立郡植田谷領 土屋・・・。じつは10年前はもう少し銘が確認できた。

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失われた部分を補うと、土屋村 女、その奥に世話人?「女中」か「女講中」だろう。女人講中が造立する如意輪観音を主尊とする供養塔となると、埼玉県内で多いのは「十九夜塔」か「二十二夜塔」もちろん断定はできないが、こちらの石塔は「月待塔」ではないだろうか。