藤橋の六部堂 西区植田谷本66[地図]
鴨川に架かる藤橋の西詰め近くにある「藤橋の六部堂」敷地内に立つ解説板によると、昔、この付近には鴨川にかかる橋が無く、人々は川の両岸に生える藤蔓で編んだつり橋を使っていたが、事故も多く難儀していた。京都生まれの小平次という廻国行者(六部さん)がこの地を訪れたとき、丈夫な橋を造って人々を救いたいと、周辺の九十ヶ村をまわって寄付をつのり、村人たちの協力のもと立派な石橋を完成させたという。小平次の没後、村人たちはその徳を慕ってお堂を建ててこの廻国行者の像を祀ったものらしい。お堂の右のほうに石塔が立っていた。
石橋供養塔
寛政8(1796)四角い台の上に背の高い角柱型の石塔。その正面、阿弥陀三尊種子の下「奉納大乗妙典石橋供養塔」両脇に天下和順・日月清明。右下に願主 丹後國宮津下岩龍組。左下に上沼邑行者小平次と刻まれていた。「奉納大乗妙典」が付くのは廻国行者が六十六ヶ所の霊場をめぐって大乗妙典=法華経を奉納して回ったためだろう。
塔の左側面
江戸、大宮、与野などとあり、人名や寺名が刻まれ、その下に三条町から十名の名前、さらに嶋根村から八名の名前が刻まれている。
続いて与野町から四名、その隣には与野上町講中。その下に側海斗村、本村から合わせて十五人の名前が刻まれていた。
左側面にはたくさんの戒名が刻まれている。中に二つ沙弥の名前も見える。
下部には江戸神田筋違御門外
石工の名前。その横に奈良瀬戸とあり、大工の名前が刻まれている。
塔の裏面に造立年月日。その下に供養導師として・・・
植田谷本の真言宗寺院林光寺と三橋の天台宗寺院慈宝院、二人の法印の名前が刻まれていた。左右両脇に測海斗邑、植田谷本邑。最下部に世話人六名の名前が刻まれている。
下の四角い台の正面中央に助力村々とあり、その両脇に二十八の村の名前。台の左側面には戸田、美女木など、比較的遠い二十五の村の名前。さらに右側面に二十八の村の名前。台の三面合わせただけでも八十一ヶ村、塔のほうも入れると百近いだろうか。
石橋供養塔の裏に三基の石塔が並んでいた。左 念仏供養塔
寛政8(1796)石橋供養塔と同年同月の造立のようだ。大きな四角い台の上の角柱型の石塔の正面、阿弥陀三尊種子の下「念佛供養塔」右下に願主一名の名前。左下に善男女中。下部に蓮華が彫られている。
塔の右側面中央
、梵字「サ」の下に「奉讀誦普門品供養塔」右下に側海斗邑、左下に植田谷本村とあり、その下に三名の名前。
左側面には圓阿弥村、嶋根村とあり、その下に四名の名前が刻まれていた。
裏面中央に造立年月日。右下に下新田、三条町と見えるがその下は剥落があり人名は読み取れない。左側にも「上
」とあり、地名かもしれない。
その右に二基の石塔が同じ台の上に乗っていた。
左 六部堂再建立塔 享和元年(1801)箱型の塔の正面 中央に「六部堂再建立」導師
林光寺□主□助」塔の右上に念佛講村中。左上に造立年月日。下部に数人の名前が刻まれている。
右 不明塔。風化が著しく進み顔の付近が一部剥落、銘も見当たらなかった。腹前に両手で宝珠のようなものを持っているが、これが薬壺なら薬師如来坐像ということになるだろう。
林光寺 西区植田谷本504[地図]
林光寺は鴨川右岸、植水小学校の東にある。今年の四月に訪問したときは10年前と変わらず、入口両脇に石仏が立っていた。(23年4月2日撮影)
ところが8月に再訪してみると、二基の石仏は影も形もない。(23年8月12日撮影)どこに移動したのだろうか?寺標のたつ入口から長い参道の先に朱塗りの仁王門が見える。さらにその先にまた山門が立っていた。
奥の山門をくぐり、境内に入ってすぐ右手に立派な鐘楼がある。その裏に二基の石仏は並んでいた。
手前 地蔵菩薩立像
正徳3(1713)大きな四角い台の上、台形の敷茄子と厚い蓮台に丸彫りの地蔵菩薩立像。欠損はないが尊顔は白カビもありいまひとつはっきりしない。
敷茄子の正面「三界萬霊 有無兩縁」その両脇の銘は薄くなっていてうまく読めなかった。
台の正面に近隣の一町十七村、左側面にも三つの村の名前が刻まれている。
地蔵菩薩像の背面中央「奉造立地蔵菩薩聖容一軀自他法界二世安樂攸」右脇に武州足立郡植田谷本村講中男女七十余並本願善宥。左脇に造立年月日が刻まれていた。
その隣 四国移霊場標石
文化7(1810)四角い台の上の角柱型の石塔の正面、上部を舟形に彫りくぼめた中に弘法大師坐像を浮き彫り。その下に阿波國十樂寺移「足立八十八ヶ所第七番」林光寺。左下に第八番江十丁と刻まれている。
台の正面に金三分 當所助力、銀貳朱 小嶋氏、金貳分 観音講中、金貳分二朱
光明講中と刻まれていた。
塔の右側面に造立年月日。下部に供養導師
法印寛誉。願主薬師堂西順。
左側面 梵字「アーンク」の下に「奉讀誦普門品十万巻 光明真言百万遍
供養塔」
下部に観音講中 光明講中と刻まれている。
境内左側、墓地の入口に廻国供養塔
安永5(1776)が立っていた。角柱型の石塔の上に丸彫りの坐像、弘法大師だろうか?
石塔の正面「奉納大乗妙典日本廻國供養」両脇に天下泰平・國土安全。下部両脇に造立年月日が刻まれている。
本堂左手前、大きなイチョウの木の下に宝篋印塔
明和元年(1764)が立っていた。
塔身四面に四つの種子。基礎正面には「一切 如来
全身舎利之塔」調べてみると、「一切如来心秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経」が宝筐院陀羅尼を収めた宝塔の御利益を説くものらしい。
基礎左面 導師 林光寺住法印本洋。その横に爲
法印尊岸、法印覺傳。先師の供養塔ということだろうか。
裏面にはただ法華経百部とだけ刻まれていた。宝篋印塔という形をとるが、大乗妙典供養塔であったり、いろいろな供養塔でもありうるようだ。この場合は法華経供養塔でもあるということだろうか。
基礎の右面 願主として中ノ林村観音寺住 無□、本村
作右衛門と僧俗二名の名前が刻まれている。続いて造立年月日が刻まれていた。
植田谷本霊園 西区植田谷本711南[地図]
大宮南高校の100mほど北の道路沿いにある植田谷本墓苑。10年ぶりにきてみたら最近整備されたらしく、ブロック塀で囲まれてすっかりきれいになっていた。そのブロック塀のくぼみの中に小堂が立っている。
小堂の中 庚申塔 元禄16(1703)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲
青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。全体に風化が進み溶けだしていた。持物は十字の武器?法輪・弓矢。
足元に邪鬼。やはり顔が破損。首のあたりと背中を踏まれ足を跳ね上げている。その下に朱面向きの三猿。
右手の剣は溶けてしまったか?ショケラの体は原型をとどめず足だけが残っている。腰にはドクロのベルトだろうか?塔の左側面に造立年月日。その横に植田谷領本村。
右側面「奉供養庚申像二世安樂」奥に武刕足立郡
講衆、下部に数人の名前が刻まれていた。