中川分水通り山口橋北交差点 上山口新田170[地図]
大宮の天沼町の自治医大病院の東、芝川を越え200mほど先の信号信号交差点から南へ入る「中川分水通り」はゆるやかに東向きにカーブして、やがて第二産業道路に抜けてゆく。その中間あたり、芝川に架かる山口橋から北へ向かう道路との信号交差点の南東の角に石塔が立っていた。
庚申搭
文化7(1810)四角い台の上の笠付き角柱型の石塔の正面「庚申供養塔」
台の正面に正面向きに並ぶ丸々とした三猿が彫られている。
塔の右側面に造立年月日。左下に世話人とあり二名の名前。右下に小さく大間木新田 石工
秋本氏の名前が刻まれていた。この庚申塔、有名な八丁石工の仕事である。
左側面 武蔵國足立郡見沼之内 上山口村。右脇に北 はらいち 二里、左脇に東 うらわ
壱里と刻まれていて道標になっていた。
台の両側面にそれぞれ六名の名前が刻まれている。合わせて12名の講だったのだろう。
庚申塔の裏は墓地になっている。西側の入口から入ると、七基の石塔が並んでいた。
右端 地蔵菩薩塔
安永4(1775)四角い台の上の角柱型の石塔に丸彫りの地蔵菩薩立像。白カビは多いが大きな欠損は見られない。
石塔の正面中央「奉造立地蔵尊一基」右に堂主□□建之。続いて造立年月日。左に武州足立郡上山口新田村。左端に願主
一名の名前が刻まれている。
台の右側面
右上に中川村とあり、続いて二段に渡って十二名の名前。左側面にも十二名の名前が刻まれている。
その隣 回国供養塔 宝暦7(1757)隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に「奉納大乗妙典日本廻國」上部両脇に天下泰平・國土安全。右下に武刕足立郡天沼村願主。」左下に造立年月日が刻まれていた。
続いて如意輪観音塔 天明7(1787)舟形光背に二臂の如意輪観音坐像を浮き彫り。光背上部に梵字「キリーク」右脇に聖如意輪観音尊。その横に造立年月日。左脇に上山口村地蔵堂。続いて毎月待齋講中七人と刻まれている。
その隣 大乗妙典供養塔 天明4(1784)隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、梵字「バク」の下に「日本回國大乗妙典供養塔」両脇に天下泰平・國土安全。
塔の右側面に造立年月日。左側面に武州足立郡上山口新田 迎事 行戒と刻まれていた。
続いて僧の墓石があって、その隣、百ヶ所観音霊場供養塔
嘉永6(1853)角柱型の石塔の正面「奉納 西國坂東秩父爲二世安樂也」上部両脇に天下泰平・國土安全。右下に上山口新田、左下に大門氏。塔の右側面に造立年月日が刻まれている。
左端 出羽三山 百ヶ所観音霊場供養塔
安政6(1859)?角柱型の石塔の正面上部を舟形に彫りくぼめた中に聖観音坐像を浮き彫り。その下に「羽黒山 湯殿山 月山 秩父西國坂東百箇所供養塔」塔の右側面に造立年月日。年号のあたりは剥落のため読めないが、干支が己未のため、周りの石塔と併せ考えて安政6年と推定される。左側面に願主の名前が刻まれていた。
その裏 北向きに如意輪観音塔
造立年不明。舟形光背に二臂の如意輪観音坐像を浮き彫り。光背上部が大きく剥落。観音像の尊顔は無残に割れている。光背左脇に紀年銘の跡「九」右脇に・・・二世安樂也と銘の一部が残っていた。
塔の右側面に願主 上山口新田 新右エ門新田
念佛講中十三人。念仏供養塔だったのかもしれない。
中川分水通り弁才天宗像神社南路傍 見沼区新右ェ門新田60[地図]
中川分水通り、大宮側の入口の信号交差点から200mほど南の道路右側、T字路交差点の角に石塔が立っていた。写真右の朱塗りの鳥居の先に弁財天宗像神社がある。
庚申塔
角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に「庚申塔」塔の上部左角が欠けていた。
台の正面に両脇が内を向いて座る三猿。風化が著しい。この構図で中央の猿が片膝を立てているのは珍しい。
塔の右側面に造立年月日。左側面に新右エ門新田
講中六人。世話人一名の名前が刻まれていた。