圓蔵院 見沼区中川540
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中川分水通り山口橋北交差点から北へ向かうと登り坂になる。200mほど先、道路右角に圓蔵院入口を示す看板が立っていて、ここを右折、細い道を150mほど進むと、右手奥に圓蔵院の山門が建っていた。山門右手前に白壁の塀が続き、中は緑豊かな境内になる。
塀の一番手前に入口が切ってあって、中に水舎があり三基の石塔が集められていた。
入口近く、左の小堂の中 成田山供養塔 安政3(1856)四角い台の上の角柱型石塔の正面「成田山」塔の右側面に造立年月日が刻まれている。
正面の小堂の中 不動明王坐像 平成8(1996)二童子を従える。脇の石碑に刻まれた解説によると、平成7年に不動堂が不審火により全焼、強風下にもかかわらず奇跡的に境内、近隣民家への類焼を免れたものの、その代わりというように堂内の不動明王像は焼け崩れてしまったため、檀信徒へのさらなる加護を願いこの不動明王像を再建したものらしい。
右奥 庚申塔 安永7(1778)四角い台の上の笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。岩槻石工、萩原氏系統の庚申塔である。
日天・月天を抱いた瑞雲の先が中央でつながっている。三眼釣り目の青面金剛。髪の中央の三角は右折れ。腰のあたりで小さいショケラは足を大きく折り曲げ顔を覆っている。
左足を立てて丸まった吊り目の邪鬼。両脇に美しく二鶏を半浮彫り。邪鬼の下に両脇は内を向く三猿が彫られていた。
塔の右側面 梵字「ウン」の下に「庚申供養塔」右下に願主とあり、左下に中川惣村中。
左側面に造立年月日。その左下に助縁 上山口新田村 新右エ門新田村 中。裏面の右下に地所貳間四方寄進主とあり、個人の名前が刻まれている。
奥の山門付近、右手前に寺標。山門右脇に六地蔵塔、左脇に地蔵菩薩塔が立っていた。
山門右脇 六地蔵菩薩塔 造立年不明。像はよく似た雰囲気だが、蓮台、敷茄子は不揃い。どこにも銘が見当たらず詳細は不明。
山門左脇 地蔵菩薩塔 正徳2(1712)錫杖・宝珠に欠けはないが、錫杖の柄が細い感じがする。
丸い敷茄子正面に「奉造立 地蔵 菩薩 供養」両脇に造立年月日。その下の反花付きの六角形の台の正面に念佛講と刻まれていた。
高井バス停南コープ脇庚申塚 見沼区中川1127
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第二産業道路の南中野交差点の北、高井バス停のすぐ南にある大きなコープの駐車場脇の塚の上に庚申塔が立っていた。
庚申塔 明治13(1880)大きな四角い台の上の唐破風笠付き角柱型の石塔の正面 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。明治時代の青面金剛庚申塔は珍しい。
忿怒相というほどではないが、なにやらいかめしい顔をした青面金剛。髪の中に小さく見えるのは蛇の頭か?その下は人面?ショケラは小さく、足を折り曲げて青面金剛にすがり付く。足元に二匹の邪鬼の頭が顔を並べる。この邪鬼の面相もユニーク。中央区鈴谷で見た明治44(1911)造立の青面金剛庚申塔ととてもよく似ている。
(中央区鈴谷大堂東の庚申塔)30年ほど造立年は隔たっているが、同じ石工、または同じ工房の石工の作品だろうか?
台の正面に三猿。風化が進みはっきりしない面もあるが、三者三様に足を投げだしていて面白い。
塔の右側面に造立年月日。右下に北足立郡中丸村講中とあり、続いて4名の名前。4番目の名前の上になぜかまた中丸村と刻まれている。さらに左のほうに 世ハ人、發起願主 各1名の名前が刻まれていた。
塔の左側面に「奉造立庚申二千躰禮拝供養塔」この銘は珍しい。
台の左側面 南 浦和 越谷、西 大宮、北 岩槻 原市。道標になっている。
コープ裏T字路 見沼区中川1121南
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コープ脇の庚申塚の横の道を奥に進むと、突き当りに小堂が立っていた。
小堂の中 馬頭観音塔 明治38(1903)駒型の石塔の正面 中央に「馬頭觀世音」右脇に造立年月日。左脇に施主名。銘はごく薄い。下部は荒彫り。
近寄ってみる。青い●の上に「馬」横に「頭」その右あたりに三十八、青い●の下に「觀」その左に「小山・・・」と施主名がなんとか判読できた。