旧太子堂墓地 見沼区大谷693西[地図]
県道65号線の東新井交差点から北上、800mほど先の交差点を右折した先に大きな市営霊園が広がっている。霊園入口のすぐ手前の道路左側、左折して細い道に入り、その先を右折して進むと左側に旧太子堂の墓地があった。同じ敷地内の西の隅にある境内社の前に、二基の石塔が北向きに並んでいる。
右 千手観音菩薩塔
寛政7(1795)四角い台の上の駒型の石塔の正面に十八臂の千手観音菩薩坐像を浮き彫り。観音像の下には蓮台、敷茄子、六角形の反花付き台を彫り出し、全体にその彫りは細かく美しい。塔は赤褐色、密度の高い硬い石材のようだ。10年前はただ「珍しい石仏」としたが、その後いろいろな地域を一回り回ってあらためて見ると、この千手観音塔はさいたま市内でも屈指の美しい石仏と思えるようになった。
柔らかい微笑みを浮かべた観音様。持物は右手上から、錫杖、月輪、羂索?、髑髏、法輪、数珠。左手に戟、日輪、宝珠、法螺貝、宝鐸、与願印。体前の手は上から両手に蓮華、胸前で合掌、腹前に宝鉢を持ち、合わせて十八臂になる。
頭上の彫刻も細かい。千手観音は十一面千手観音とも呼ばれるが、ここでは頭の両脇にそれぞれ五面、中央には仏面ではなく舟形光背型の地蔵菩薩立像。観音様の本面を入れて十一面となるだろうか。頂上には別に阿弥陀定印を結ぶ阿弥陀如来座像が彫られていた。
塔の最下部、右に大谷村講中 二十五人、中央に世話人 六右エ門 、左に念佛講中
六人と刻まれている。
左 地蔵菩薩塔
文政元年(1818)四角い台の上の舟形光背に柄の曲がった錫杖と宝珠を手にした地蔵菩薩立像を浮き彫り。顔はつぶれていた。
光背右脇に造立年月日。その下に講中十五人。左脇に大谷村太子堂世話人
實道と刻まれている。
市営霊園北住宅角 見沼区大谷718[地図]
旧太子堂墓地から市営霊園北の道を東に進み、次のT字路交差点を左折、突き当りを右折するとその先左側の交差点の角に石塔が立っていた。
庚申塔 文政4(1821)大きな四角い台の上の舟形光背に日月雲 青面金剛立像
剣・ショケラ持ち六臂。風化が進み白カビも多い。
顔のあたりは剥落、法輪を持つ左手も手首から先を残してその下の部分は欠けていた。小さなショケラを足を折り曲げ合掌している。
足元の邪鬼は上半身型。折り曲げた右手の甲の上に大きな頭を乗せ、左手は延ばす変則的な姿勢が珍しい。その下に三猿。中央は正面向き、両脇が外を向いて座るというユニークな構図。しかも両脇の猿は立体的で、体の一部が塔からはみ出していた。中央の猿の顔、右の猿の上半身が欠けているのは残念だ。
塔の左側面に造立年月日。その横に大谷村とあり、吉田氏の名前。他に施主らしき名前が見当たらず、こちらは個人で造立した庚申塔か。右側面に「天下泰平・家内安全」と刻まれていた。
県道65号線東楽園通り交差点東 見沼区大谷1336西[地図]
県道65号線の東新井交差点から東宮下交差点の間にはいくつか信号交差点があるが、最も大きな信号交差点は、その丁度中間あたり、東楽園通りとの交差点で、ここはやや変則的な五差路になっている。交差点の北東の角に小堂が立っていた。
小堂の中 念仏供養塔
元禄2(1689)舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背上部に「爲」右脇に「念佛供養菩提」その下に結衆四十四人。左脇に造立年月日。その下に施主 敬白。
塔の最下部の銘は不鮮明。中央は大谷村内か?右は本村。左は□竒?地名か?
堂内両脇に役目を終えた六地蔵塔が並んでいた。
県道65号線東楽園通り交差点北三差路 見沼区大谷1339向[地図]
東楽園道り交差点から北西へ向かう三差路の角に石塔が立っている。
馬頭観音塔
天保5(1834)駒型の石塔の正面上部を彫りくぼめた中に馬頭観音坐像を浮き彫り。その下に「(馬頭観音)明王」右脇に造立年月日。左脇に蛭間氏。
像はすっかり溶解してしまい詳細不明とすべきかもしれないが、頭部に馬頭を思わせる形、胸前に馬口印を結んでいるような形はわずかに残っていて、やはり馬頭観音坐像と考えるべきだと思う。
県道65号線東楽園通り交差点南旧道火の見下 見沼区大谷381[地図]
東楽園通りの交差点からさらに西に進もうとすると、道はやや左に折れてそのまままっすぐ南西に向かい、十王尊の南を通り、庚申塚公園のあたりで県道214号線にでる。この道は大谷あたりから、南中丸、大宮方面に抜ける「抜け道」で狭い道のわりに利用する車も多い。交差点からこの「抜け道」に入って100mほど先、道路左側のさらに細い道に入る。この細い道は県道65号線と並行して南下する旧道で、その旧道に入るとすぐ右手に防災倉庫があり、火の見やぐらが立っていた。防災倉庫と火の見やぐらの間の奥に小堂が立っている。
馬頭観音塔
安永7(1778)舟形光背に三面慈悲相六臂の馬頭観音立像を浮き彫り。光背の縁が風化のためにギザギザになっていた。
石質のためか塔の表面は細かく傷があり、銘は読みにくく、像の彫りもややはっきりしない。正面の顔はほぼ削れてしまっているが横顔を見るとやはり慈悲相のようだ。顔の右脇に造立年月日が刻まれていた。
馬口印を結んだ手も痩せている。持物は上の手は宝珠に法輪か?下の手は左手に斧。右手は羂索?光背左下に大谷村と刻まれていた。
大谷小学校南東路傍 見沼区大谷396南[地図]
楽園通りの交差点から「抜け道」に入り南西に向かい、300mほど先の交差点を右折、広い道を100mほど進むと、道路右側の交差点の角に小堂が立っていた。この広い道の先には大谷小学校がある。
小堂の中 馬頭観音塔
寛政4(1792)駒型の石塔の正面上部に二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。両脇に造立年月日。塔の下部左に願主 井上氏。
観音様の顔はつぶれ、頭上の馬も顔が欠けている。すそが波打つ衣装など、細かく装飾的な彫りはいかにも江戸時代後期の観音像らしい。
氷川神社南交差点 見沼区大谷1505[地図]
県道65号線と東楽園通りの交差点のすぐ北の三差路から細い道を北西に向かい、道なりに300m近く進むとその先、右手に大きな銀杏の木が見えてくるあたりで道は三つに分かれる。右折すると鳥居が立っていてその先は大谷氷川神社へ、真ん中の道は大谷中学校の東へ、左の道を進むと大谷小学校の西で「大谷中通り」にでる。
左の二本の道の交差する空き地に「成田山不動堂」その右脇の立木の向こうに二基の石塔が並んでいた。
笠とサイズはやや異なるが、同じような印象を受ける二基の青面金剛庚申塔。どちらも江戸時代後期に造立されたものだった。
左 庚申搭
天保2(1831)四角い台の上、立派な唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。
彫りは細かく技巧的。怒髪の中に蛇がとぐろを巻き、三眼忿怒相の青面金剛は頭上に髑髏を乗せる。その手首には腕輪。小さなショケラは足を折り曲げて吊るされていた。
足元に二匹の邪鬼。片方は口を閉じ、片方を口を開けて、狛犬のように「阿吽」の形。その下に自由な三猿。右の見猿はやや外向きに座り、中央の聞か猿は前向きに足を閉じて座る。左の言わ猿は後ろ向きに座り、頭をのけぞらせている。後ろ向きに座る、または寝そべる猿は片柳で二件、万年寺の天保12年塔と大宮聖苑南の文化7年塔で、また二匹の狛犬のような邪鬼も片柳万年寺と大宮共立病院西の寛政10年塔で見てきた。これらは同じ系統の石工、おそらく岩槻の田中武兵衛一門の作品と思われる。青面金剛の怒髪の中の髑髏もこのグループの作品の中でいくつか見てきたものだ。
塔の右側面に造立年月日。左側面に大きな字で南部領
大谷村と刻まれている。
台の正面に十八名の名前。
左側面に十七名の名前。右側面には世話人三名と十二名の名前が刻まれていた。世話人含めて講中五十名になる。
右 庚申塔 文化3(1806)四角い台の上、宝珠を乗せた笠付き角柱型の石塔の正面
日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。
輪光背を負った三眼忿怒相の青面金剛。怒髪の中は蛇か?左足をやや前に出して立つ。彫りは立体的で装飾性が高い。特に瑞雲に乗った日月、細かい文様の付いた衣装が素晴らしい。この青面金剛像の袴の文様について分類研究されている五島さんによると、これも田中武兵衛一門の仕事ではないかという。
足元に二匹の狛犬型邪鬼。両脇に二鶏を半浮彫り。その下にやはり自由な三猿。左の聞か猿は足を開いて座り体はやや外向きに、左手で耳をふさぎ右手を上げる。中央の言わ猿は足を折り曲げてややはすに座り両手で口を押える。右の見猿は足を揃えて内向きに体育座り、左手を目に当てて右手に桃果を持っていた。このあたり左右両塔の雰囲気はよく似ている。
塔の左側面に武州足立郡
南部領大谷邑。その下に世話人合わせて十名の名前。
右側面に造立年月日。その下、右端に講中
西福寺とあり、続けて九名の名前が刻まれていた。
大谷中学校東路傍 見沼区大谷1686[地図]
氷川神社参道入口近くの二つの庚申塔の前の道を北へ進むと、やがて大谷中学校の東で「大谷中通り」に出る。その角の所に小堂が立っていた。写真右のカーブする道が「大谷中通り」、左の細い道が氷川神社入口から来た道になる。
小堂の中 庚申塔 享保15(1730)駒型の石塔の正面彫りくぼめて、外に日月雲、中に
青面金剛立像 合掌型六臂。
頂上が平らな臼型の髪型、腕の付き方がH型、「川口型庚申塔」である。「川口型」の造立は享保期~宝暦期に限られ、これはその初期の作品。顔はややつぶれているが三眼か?髑髏の首輪をしていた。上の手の持物、右手に法輪、左手に矛というのは普通と逆で、相当珍しい。
足元にまるくなってうずくまる全身型の邪鬼。その下両脇に二鶏。さらに三猿。中央が正面向き、両脇が内を向く構図は「川口型」の定番だが、両脇の猿は足を投げ出して座るのが普通、こちらは左の言わ猿は正座していて、これもめったに見ない。
塔の右側面「奉造立供養青面金剛尊像」右脇に薄く天下泰平 五穀成就
萬民豊樂。左脇に「現當二世悉地成辨祈攸」最下部に五名の名前が刻まれている。
左側面に造立年月日。その脇に大谷村庚申待講中敬白。最下部に願主を合わせて五名の名前が刻まれていた。
大谷公園南交差点 見沼区大谷1766[地図]
庚申塔の小堂のある角からさらに大谷中通りを七里方面に進む。50mほど先の交差点の角に二基の石塔が立っていた。
左 馬頭観音塔
大正3(1914)駒型の石塔の正面「馬頭観世音」右脇に造立年月日。左脇にも銘があるようだがよみとれない。
塔の左側面は無銘。右側面に「伏見宮殿下御下賜
英國鹿栗毛・・・・」と刻まれていた。英国産の馬というと農耕馬とは思えない。どういったいきさつで下賜されたのだろう?
右 不明塔
享保11(1726)大きな駒型の石塔だが、その正面は風化のためか銘は全く見当たらない。
塔の右側面に造立年月日。その下に助力とあり一名の名前。左脇に武蔵州足立郡南部領。その下中央に大きく大谷村中。
左側面、上部に大きく助成村とあり、その下に蓮沼村、中川村、片柳村、中丸村など近隣十二の村の名前が刻まれていた。
いったい何の供養塔なのか、銘が無いのではっきりしないが、これだけ多くの村々の協力があったということから考えると「橋供養塔」あるいは「石橋供養塔」の可能性が高いのではないだろうか。現地のすぐ北に加田屋川が流れている。