見沼区 春岡・丸ケ崎

 

覚蔵院 見沼区春岡2-4[地図]


七里駅の東の踏切付近から県道322号線を北へ向かう。春岡中学校のあたりまで登り坂で、その先は深作の西の台地の上を、道はほぼまっすぐに国道16号線の丸ケ崎信号方面へと続く。いくつか信号交差点を渡り、芝浦工大のグラウンドの見えるあたりから道は下りになり、その先の春岡橋で見沼代用水東縁を越えてゆく。春岡橋の200mほど手前を右折して東に進むと、道路左側に覚蔵院の山門が立っていた。


山門右脇の植え込みの中 庚申塔 明治3(1870)四角い台の上の駒型の石塔の正面「庚申塔」塔の右側面に造立年月日が刻まれている。


山門左脇には二基の石塔が並んでいた。


右 念仏供養塔 元文3(1738)角柱型?の石塔の正面 上部に坐像を浮き彫り。風化が甚だしく進み、全体に摩耗、剥落が目立つ。


坐像の下中央に「爲 念佛供羪菩提」坐像は阿弥陀如来か?右脇に右 大□□□□□道、左脇に左 □□江戸 道。左隅に深作村 施主 知道と刻まれていた。


塔の側面も一部破損、完全ではないが両側面に渡って造立年月日が刻まれている。


左 馬頭観音塔 天保11(1840)四角い台の上の角柱型の石塔の正面に大きな字で「馬頭觀世音」台の正面に深作村。


塔の右側面に造立年月日。その奥の銘は薄く読みにくいが、此方 大みや道か。


左側面には此方 大門 江戸道と刻まれていた。二基の石塔はいずれも道標になっていて、もともとは路傍に立っていたものだろう。


山門手前左端の小堂の中 馬頭観音塔 延宝8(1680)二段の台の上 舟形光背に三面二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。


正面の顔はすり切れていてはっきりしないが、横の顔は忿怒相か?頭上の馬はくっきりと残っていた。


光背左脇に造立年月日。右脇「奉造立馬頭観音爲㪽願成就」


光背右下に深作村、塔の最下部、足元の部分の中央に敬白と刻まれている。


境内に入ると、参道左側の塀の前に四基の石塔が並んでいた。


左端 馬頭観音塔 嘉永4(1851)四角い台に上の角柱型の石塔の正面 梵字「カン」の下に「馬頭觀世音」


塔の両側面に造立年月日。右側面下部に世話人とあり、その下右に深作村、続いて四名の名前が刻まれている。


左側面下部には丸ケ崎村中 下尾吹村中 助力と刻まれていた。「下尾吹」は近隣の村だろうか。調べてみたがよく分からない。


続いて法華経千部供養塔 元禄2(1689)板碑型の供養塔は銘が薄くなり、一部白カビも目立つ。


四つの梵字(オン・タラーク?・ケン・バク)の下、中央に「奉爲法華千部供養法界無縁平等利益敬白」右脇に造立年月日。右下に武州足立郡深作村。左脇に二行「奉爲天下泰平國土安穏」「奉爲當家安泰武運長久」左下に覺蔵院住僧 法印宥輿 諸人□と刻まれていた。


その隣 地蔵菩薩塔 享保11(1726)四角い台の上に角柱型の石塔、さらに厚い敷茄子、蓮台に丸彫りの地蔵菩薩像。総高2mを優に超す。


大きな欠損もなく悠然とたたずむ大地蔵。穏やかな尊顔は美しい。


角柱型の石塔の正面 梵字「カ」の下「講中喜捨 開眼法印良範」右脇に武刕足立郡深作村。左脇に造立年月日が刻まれていた。


右端 宝篋印塔 造立年不明。屋根型笠付きの江戸時代中期以降のものだろう。基礎四面にびっしり銘文
が刻まれているが、紀年銘などは見当たらず詳細は分からない。

 

丸ケ崎観音堂 見沼区丸ヶ崎町38[地図]


見沼代用水東縁に架かる出戸橋を西に渡ると、すぐ先の道路左手に観音堂が立っていた。お堂の手前、道路に向かって二基の石塔、その裏に四基の石塔、さらに奥の敷地の隅に多くの石塔が並んでいる。


道路沿いに並ぶ二基の石塔のうち 左 庚申塔 寛延元年(1748)四角い台の上、宝珠を乗せた大きな唐破風笠付き角柱型石塔の正面を彫りくぼめて、外に日月雲、中に青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。白カビは少なく風化も見られない。


髪を大小三つの三角形に結い上げた忿怒相の青面金剛。中央の髪の中に蛇が見える。髑髏の首輪をかけて首に腕輪。持物は矛・法輪・弓・矢。ショケラは左足だけを折り曲げて合掌、腰衣には虎の頭。足の両脇に二鶏を半浮彫り。彫りは明快で力強く迫力がある。


足元の邪鬼は左足を立てて丸くうずくまり、合わせた両こぶしの上に顔を乗せて正面を向く。かつらをかぶったような髪形も独特で、これまで見てきた萩原一門の庚申塔でおなじみの邪鬼である。名石工 萩原利兵衛の作品は明和から安永(1770~1780)頃に多く見られるが、萩原一門の庚申塔の特徴であるこの独特な邪鬼は、それ以前の段階ですでに確立されていたものらしい。邪鬼の下に両脇が内を向いて座る三猿。左右の猿の座り方に変化があるのも面白い。台の正面に丸ケ崎村講中と刻まれていた。


塔の左側面に造立年月日。右側面、梵字「ウン」の下「奉造立青面金剛像供養塔」


裏面中央下部に小さな字で岩槻市宿町萩原三右衛門作と石工名が刻まれていた。萩原一門は三右衛門~利兵衛~伊兵衛と続くようだ。


道路沿い右 馬頭観音塔 文政2(1819)四角い台の上 駒型の石塔の正面にうまの背中に乗る二臂の馬頭観音像を浮き彫り。顔ははっきりしないが、怒髪忿怒相だろう。馬の両足は欠けていた。乗馬姿の馬頭観音塔は珍しい。これまでに私が見たのはふじみ野市の福岡新田集会所西の墓地の天保5年塔(2022年2月1日の記事)とこちらの二例だけである。他にもあるだろうか?


塔の右側面に造立年月日。奥に右 いわつき。


左側面上部に左 志やうぶ(菖蒲) きさい(騎西)その下に願主 荒井兵助と刻まれていた。


庚申塔の裏には卵塔をはじめ四基の石塔が並んでいる。


卵塔の隣 不動明王塔 造立年不明。小型ながら細部までしっかりとした彫り。火焔の光背に剣と羂索を手にした不動明王坐像を浮き彫り。その下に滝をはさんで矜羯羅童子と制吒迦童子が彫られた三尊形式だが、二童子は上半身のみで、どうやら塔の下部が欠けてしまったようだ。


その隣は回国行者の墓石 享保6(1721)板碑型。白カビも比較的少なく銘もしっかり残っていた。


中央に「囬國納經成就光願西見法師 墓標」右脇の紀年銘は命日だろう。その下に丸ケ崎村富宿金井塚長右衛門。左脇 信刕伊那郡木下村 俗名塩原安右衛門。その下に此㪽村中入合之地。似たような銘は西区宝来の福寿庵観音堂の石塔で見た覚えがある。


右端 六十六部供養塔 明和9(1772)四角い台の上、舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。頭上に梵字「カ」光背右脇「六十六部供養佛」左脇に造立年月日。江戸時代後期にしては珍しく錫杖が長く頭上まで伸びていた。


塔の下部の足元の部分、右から武州足立郡 講中丸ケ崎村。施主とありその下に二名の名前。続いて 右 原市道 東 岩附道 南 大宮道 左 江戸道 と道標銘が刻まれている。


敷地の隅には西向きに三基、北向きに七基、合わせて十基の石塔が並んでいるが、多くは墓石だった。


西向きに立つ三基の真ん中 納経回国供養塔 宝暦10(1760)四角い台の上の角柱型の石塔の正面、白カビが厚く覆う中、梵字「バク」の下に「日本廻國納經供養塔」


右側面に造立年月日。側面はカビもなくクリア。


左側面に行脚行者 丸ケ崎村道觀と刻まれている。


北向きに並ぶ七基の左端 馬頭観音塔 延享2(1745)隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に梵字で馬頭観音の真言。右脇に「汝是畜生發菩提心」左脇の紀年銘は馬の命日か。枠に施主は個人名が刻まれていた。


左から4番目 馬頭観音塔 延享2(1745)左端の馬頭観音塔と造立年も同じでよく似ている。隅丸角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、中央に梵字で馬頭観音の真言。下部中央に「爲三馬同證菩提也」両脇に命日。塔の最下部に丸ケ崎村とあり、個人名が刻まれていた。

宮前橋東空地 見沼区丸ヶ崎1231[地図]


見沼代用水東縁は国道16号線のあたりで大きくカーブする。そのすぐ南に架かる宮前橋を東に渡った先、コンクリートで高くなった空地の隅に石塔が立っていた。


庚申塔 昭和12(1936)舟形に切り出した自然石の正面中央に「妙法 庚申塔」右脇に大三十番神、左脇に大月日番神と刻まれている。この銘は初見で、10年前には意味がわからなかったが、調べてみると「三十番神」は日蓮宗で信仰される神仏習合に基づいた法華経守護の三十神で、月の三十日に割り当てられたものらしい。「大月日番神」も同じような信仰だろう。初めて見た日蓮宗系の「妙法庚申塔」他にもあるのだろうか?背面中央に造立年月日。両脇に行者、施主、いずれも大熊氏の名前が刻まれていた。

この庚申塔を取材したのは2023年6月のこと、その時は下草が生い茂り塔全体の写真が撮れず、また機会を見て取材しようと思っていた。ところが今年になって再訪してみると、空地だった付近一帯は建売住宅用に土地が整備されていて、この庚申塔は影も形もなかった。


今年の10月25日現在の様子はこちら。付近の家のかたに尋ねて、この土地のもともとの持ち主を教えてもらい、後日訪問して事情をうかがうことができたが、土地売却時にすべて業者に任せてしまい、庚申塔のその後の行方は把握していないとのことだった。珍しい貴重な庚申塔であるが、残念ながら今後見ることは難しいようだ。

 

多聞院 見沼区丸ヶ崎1186[地図]


国道16号線の丸ケ崎交差点のすぐ北東に多門院の山門が立っていた。


山門から入ってすぐ左、参道脇の小堂の中に六地蔵塔が祀られている。六基ともに舟形光背に地蔵菩薩坐像が浮き彫り。左端は光背のサイズも違い後から補われたものらしい。右の五基は全体に風化が進み光背も一部が欠け、尊顔はそろってのっぺらぼう。脇の解説板によるとこの五基は室町時代の造立と推定できるという。


左端のお地蔵様は輪光背を負い、錫杖・宝珠を持つ。顔の彫りもしっかり残っていた。


背面中央「奉造立六地蔵菩薩」その横に寛永19(1642)の紀年銘。他の五基に較べると新しいが、江戸時代初期の造立で十分古い石仏である、

丸ケ崎薬師堂 見沼区丸ヶ崎1906[地図]


県道322号線、丸ケ崎交差点で国道16号線を横切り北へ進むと、やがて綾瀬川を越えて蓮田市に入る。綾瀬川の150mほど手前から東に向かう道に入り、400mほど進むと道路左側に丸ケ崎薬師堂があった。このまっすぐ東へ続く道の南側一帯には水田が広がり、道の北側には農家が並んでいる。このあたりは住居表示は「丸ケ崎」になるが、一般的には「丸ケ崎新田」と呼ばれるらしい。薬師堂の参道左脇に小堂が立ち、その手前に石塔が見える。


小堂の左手前 庚申塔 元禄2(1689)薄い台石の上の舟形光背、梵字「ウン」の下に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。上左手にショケラを持つ「岩槻型」庚申塔。

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10年前にはこの庚申塔は参道右の大きな木の脇に立っていた。その時はカビも少なくきれいだったが、久しぶりに来てみるとずいぶん白カビが増えている。


三眼忿怒相の青面金剛の頭上には、蛇がとぐろを巻き長く首を垂れる。 上左手に髪をわしづかみにされたショケラは、足を折り曲げ合掌しながらやや斜めに降られるような形で吊るされていた。「岩槻型」庚申塔のショケラもいろいろなタイプがあるが、この形が最も多く見られ基本形と言えるだろう。持物は十字戟・ショケラ・弓矢。光背右脇「奉造立供養庚申爲二世安樂」左脇に造立年月日。銘は白カビにまみれ読みにくい。


足元に全身型の邪鬼。頭部は向かって左、両腕を張って顔を前に向ける。その下に正面向きに座る三猿。両脇に二鶏を半浮彫り。塔の最下部に十名ほどの名前があり、左端に施主等敬白と刻まれていた。


小堂の中 念仏供養塔 安永6(1777)四角い台の上の角柱型の石塔に蓮台に立つ丸彫りの地蔵菩薩像。台の正面に丸ケ崎村 新田中と刻まれている。


塔の正面 梵字「カ」の下に「地蔵菩薩以大慈悲 若聞名號不随黒暗」両脇に造立年月日。


塔の右側面に多くの童子童女戒名。左側面、右から念佛講中 行者權六 願主 中村三右衛門。続いて四つの戒名が刻まれていた。

薬師堂東路傍 見沼区丸ヶ崎2011南[地図]


丸ケ崎薬師堂から400mほど東、道路左側に小堂が立っていた。


小堂の中 右 地蔵菩薩塔 享保9(1724)四角い台の上に敷茄子・蓮台の上に立つ丸彫りの地蔵菩薩像。角柱型の石塔部があれば2mを超す大地蔵塔だろう。像に欠損はなく尊顔は穏やか。左奥に小さな五輪塔が置かれている。


台の正面 右に丸ケ崎新田、続いて十四名の名前。左に造立年月日が刻まれていた。


左 馬頭観音塔 大正5(1916)小さな台の上の角柱型の石塔の正面「馬頭觀世音」右脇の紀年銘は命日だろう。左脇に個人の名前が刻まれていて、こちらは馬の墓石である。

薬師堂東馬頭観音小堂 見沼区丸ヶ崎2024南[地図]


さらに東へ100mほど進むと、道路左側に小堂が立っていた。左脇には小さな地蔵菩薩塔が並んでいる。


小堂の中 右 馬頭観音塔。薄い四角い台の上の駒型の石塔の正面「妙法 馬頭觀世音爲二頭」二頭の馬のための墓石だった。右脇嘉永6(1853)の紀年銘。その下に施主 大熊氏。左脇に昭和14(1939)の紀年銘。その下に施主 大熊氏。前回見た宮前橋東に立っていた「妙法庚申塔」に続いて「妙法馬頭観音塔」になる。さらに昭和14年の施主 大熊慧樹氏は、「妙法庚申塔」の背面に刻まれていた行者と同一人物。この小堂の奥のお宅が宮前橋東の空地のもともとの持ち主の邸宅だった。


左 馬頭観音塔。駒型の石塔の正面中央「妙法 馬頭觀世音爲二頭」右の馬頭観音塔と同じ銘だ。右脇に明治11(1878)の紀年銘。その下に大熊氏。左脇に大正11(1922)の紀年銘。その下に施主 大熊慧樹と刻まれている。この二基の馬頭観音塔は、まず大正11年に亡くなった馬の供養のために、風化が進んでいた明治11年の命日を持つ馬の墓石再建を兼ねて左の石塔を造立、次に昭和14年に亡くなった馬の供養のために、嘉永6年の命日を持つ馬の墓石再建を兼ねて右の石塔を造立したのだろう。両塔の施主である大熊慧樹氏は、宮前橋東の「妙法庚申塔」にも関わり、深い信仰心と経済力を有した人物だったのではないだろうか。


小堂の左脇 地蔵菩薩塔 昭和2(1927)舟形光背に合掌する地蔵菩薩立像を浮き彫り。紀年銘以外の銘は見当たらず詳細はわからなかった。