見沼区 東宮下・宮ケ谷塔

 

宮下八幡宮 見沼区東宮下1-79[地図]


県道65号線を東新井交差点から北上し東宮下交差点を過ぎると、次の信号交差点で左折して県道は岩槻方面に向かう。この信号交差点を左折せずにまっすぐに200mほど進み、道路右手の細い道に入って南に向かうと右手に宮下八幡宮がある。鳥居の左手前に庚申塔と小堂が立っていた。


左 庚申塔 安永6(1777)四角い台の上の宝珠を乗せた唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。塔の一部には白カビが見られるが、青面金剛像自体は美しくクリア。岩槻の銘石工 萩原利兵衛の作品である。


長く尾を引いた瑞雲。大小三つの三角に結い上げた髪のうち、真ん中の大三角の先は向かって右に折れる。三眼忿怒相の青面金剛。髑髏の首輪をかけていた。


こぶしを合わせた上にあごを乗せ、左足を立てて猫のように丸くうずくまる邪鬼。両脇に二鶏を浮き彫り。その下に彫られた三猿は両脇が内を向くタイプだが、完全に横向きではなく、やや斜に構えて座っていた。


塔の左側面に武刕足立郡宮下村。続いて導師興性寺法印□了。さらに秩父講廿四人、庚申講十七人。二つの講を合わせて四十一名。秩父講は観音講だろうか。


右側面中央に「奉造立庚申待供養意願成就」両脇に造立年月日。左下隅のほうにごく小さな字で岩附市宿町 石工 萩原利兵衛の銘が刻まれている。


小堂の中には不動明王坐像。滝の両脇に矜羯羅童子と制吒迦童子を配した不動三尊形式。紀年銘などは見当たらず詳細は不明だが、この不動三尊形式は江戸時代後期によく見られ、おそらくその頃のものと思われる。

氷川神社前住宅 見沼区東宮下2-156[地図]


県道65号線の東宮下バス停の少し南から細い道を東に向かい、250mほど進むと氷川神社の前に出る。その右手前の住宅の角に小堂が立っていた。


小堂の中 庚申塔 正徳5(1715)四角い台の上の唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて、外に日月雲、中に青面金剛立像 合掌型六臂。下右手にショケラを吊るす「岩槻型」庚申塔。ショケラが下左手というのは珍しい。


風化が進み全体に彫りは溶けかかっている。青面金剛の顔はつぶれ、手足はやせ細っていた。上下左手の手首に絡みついているのは蛇だろうか?法輪の様子を見ると彫りは細かく、もともとしっかりした作品だったようだ。下右手に吊るされたショケラは胎児のようで不気味な雰囲気。


あしもとに右手を大きく伸ばして横たわる大柄な邪鬼。その下に正面向きに座る三猿。このあたりは白カビも多い。


塔の左側面に造立年月日。その奥に武刕足立郡宮下村。


その下に導師□光院住 法印宥鏡代。その奥に講中 男女八十人。大きな講である。


右側面 梵字「ウン」の下に「奉造立供羪庚申㪽願成就所」と刻まれていた。

岩槻道村境路傍 見沼区東宮下3-143[地図]


県道65号線は東宮下を抜けたあたりで左にカーブして県道2号線にぶつかる。そのカーブのところで右折して斜めに細い道に入り進んでゆくと国道16号線の交差点に出る。細い道の入り口付近、東側の歩道の脇に石塔が立っていた。


道標 正徳3(1713)角柱型の石塔だが、風化のために大きく破損、銘も薄くなっていて読み取りにかなり苦労した。


近づいてみると、塔の正面中央に薄く、従是㣺とあり、右下に いわつき、左に粕□□ 道。右上に造立年月日がなんとか読み取れる。


塔の右側面、ここは比較的読みやすい。中央に 従是西とあり、その右下に左 なんぶ、左下に右 原市、下部に道。


左側面も難読、近づいてかろうじて読みとれた。中央に従是南、右下に江戸、左に川口善光寺、下部に道。三方向六地名が刻まれた立派な道標である。

宮ヶ谷塔交差点近く大橋バス停北路傍 見沼区宮ヶ谷塔1-23北[地図]


県道2号線、宮ケ谷塔交差点で国道16号線を越えてすぐ、大橋バス停の近くを左折して北へ向かうと、東武線の踏切の手前、道路右側の路傍に石塔が立っていた。


庚申塔 享保3(1718)四角い台の上の唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて、外に日月雲、中に青面金剛立像 合掌型六臂。上左手にショケラを持つ「岩槻型」庚申塔。台の正面に卍が彫られている。


頭上でとぐろを巻いた蛇が首を垂れる。持物は斧・ショケラ・弓矢。馬頭観音塔ではよく見かけるが、青面金剛の持物で斧は珍しい。ショケラは折り曲げた足を両手で抱えていた。


足下の邪鬼は上半身型、両腕をM字に張って大きな丸い顔を正面に向ける。その下に正面向きに行儀よく並んで座る三猿。


塔の右側面 梵字「ウン」の下に「奉造立庚申供羪現當諸願各成就敬白」


塔の左側面中央に武刕足立郡宮箇谷塔村。上部両脇に年月日。中ほど右に講中男四十四人、左に講中女四十六人。右下に導師法印勝慶。左下に此地寄進とあり長島氏の名前。その隣に星野仁兵衛作とあるが、これは石工の名前だろうか?