見沼区 片柳

 

見沼富士見霊園 見沼区片柳242北[地図]


市立病院の西を南北に走る「北宿通り」は、見沼田んぼから先は「西山通り」になる。田んぼを抜けてすぐ、南台バス停の近くの交差点を右折、東へ進み300mほど先の交差点を左折すると、登坂の途中、道路左側に見沼富士見霊園があった。入口右手のお堂の前に石塔が並び、その向かい側に丸彫りの大きな地蔵菩薩塔が立っている。


入口右、お堂の前の前列に六地蔵菩薩塔 元文2(1737)四角い台の上、舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背の大きさなどやや違うが、銘の様子を見ると比較的揃っている。


右端 光背右脇に造立年月日。左脇に念佛講中。左下に施主糀谷。


右から2番目 光背中ほど、右から左へ「有縁」


3番目 光背中ほど、右から左へ「三界」


4番目 光背右脇に化縁施主□念、左脇に本願主善心。左下に武州足立郡 片柳村。


5番目 光背右脇には幡を持ち、左脇に「萬霊」


左端 光背中ほどに右から左へ「無縁」六基の並び方を整理してみると、「三界萬霊有縁無縁」となる。全体に白カビは多いが、味わい深い六地蔵塔である。


六地蔵菩薩塔とお堂の間に三界万霊塔 天明元年(1781)大きな四角い台の上の角柱型の石塔の正面「三界万霊」


塔の左側面に造立年月日。右側面に足立郡片柳村糀谷 施主。俗名 定七。

  
裏面中央「奉納大乗妙典六十六部日本回國供養塔」上部両脇に天下泰平・日月清明。右下に相刕小田原領酒匂村、左下に願主 順譽是放。こちらを見ると納経回国供養塔ということになりそうだ。小田原出身の回国行者(俗名定七)が結願を記念して造立したものだろうか。


お堂の中 成田山不動供養塔 平成15(2003)正面に片柳村 講中と刻まれた四角い台の上の角柱型の石塔の正面 上部に不動明王坐像を浮き彫り。その下に「成田山」塔の後ろに掲げられた額に「不動尊新築御芳名」とあり三十数人の名前が刻まれていた。古くから伝えられた不動尊を再建したものだろうが、平成の時代に地域の人たちが力を合わせてそれを成し遂げたというのは素晴らしいと思う。お堂は「不動堂」ということになるだろう。


入口の左側 不動堂に向かい合うように地蔵菩薩塔 享保9(1714)四角い台の上に角柱型の石塔を乗せ、その上に厚い敷茄子・蓮台に立つ丸彫りの地蔵菩薩像。


やはり白カビが多いが、大事に守られてきたものなのだろう、大きな欠損も首の補修跡もみあたらない。


角柱型の石塔の正面中央「奉造立地蔵菩薩」上部両脇に造立年月日。右下に片柳村、左下に講中廿二人と刻まれていた。

西山通り南台バス停北歩道脇 見沼区片柳198付近[地図]


西山通りに戻り、南台バス停付近から坂道を上る。100mほど先の道路左側、歩道脇のコンクリートの壁とブロック塀の間に三基の石塔が並んでいた。


大きな庚申塔を中心に、両脇に一対の石塔、三尊形式を思わせる構成で、似たような例はほどんどなく、緑区重殿社入口で見て以来、大変珍しい。


中央 庚申塔 明和2(1765)二段の台の上 宝珠を乗せた唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて、外に日月雲、中に青面金剛立像 鈴・ショケラ持ち六臂。鈴・ショケラ持ちは川口型庚申塔では普通だが、それ以外ではあまり見ない。


頭頂部が平らな髪形、ドクロの首輪なども「川口型」でよく見るが、腕の付き方が「川口型」とは違う。髪の間に見えるのは人面か?比較的大きなショケラは足を折り曲げ合掌していた。


足元の邪鬼は頭部が向かって左の全身型。大きな顔を正面に向ける。邪鬼の下に両脇が内を向く三猿。中央の聞か猿は足を大きく広げ、両脇の二猿は体を後ろに倒す。


塔の右側面「奉建立庚申」その下の部分、右上に世話人 講親とあり、続けて三段に渡って12名の名前が刻まれていた。


左側面に造立年月日。その下の部分、右上に東山村 同村とあり続いて三段に渡って13名の名前。両側面合わせて講中25人になる。


左 左方童子像 明和7(1770)舟形光背に柄香炉を手にした童子像を浮き彫り。光背右脇に「南無左方童子」左脇に造立年月日。


右 右方童子 明和7(1770)舟形光背に経巻を手にした童子像を浮き彫り。光背右脇「南無右方童子」左脇に講中二十人 講親 小右ェ門。その内容から考えると、左右童子像は一対のものとして造立、中央の庚申塔の脇侍として企画されたものだろう。

西山通り西の畑隅 見沼区片柳148東[地図]


南台バス停北歩道脇の庚申塔からさらに北へ進む。150mほど先、坂道を登り切ったあたり、道路左側の畑の隅に石塔が立っていた。


庚申塔 元禄5(1692)舟形光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。上左手にショケラを持つ「岩槻型」庚申塔。塔全体に白カビが厚くこびりつき、いかにも野仏といった風情。


顔の様子はいま一つはっきりしないが忿怒の表情?髪の中に蛇の頭が顔を出す。上左手に掲げたショケラは足を折り曲げ腰掛けるようなポーズ。上半身型の邪鬼は頭を踏まれながら、両手の間から丸い顔を正面に向ける。


邪鬼の下に正面向きの三猿。その両脇に小さな二鶏。塔の最下部、右端に山村とあり、続いて七名の名前が刻まれていた。

 

西山バス停北墓地 見沼区片柳98北[地図]


西山通りを北へ進むと山交差点で県道214号線に合流する。交差点の350mほど南、道路西側にある西山バス停のすぐ北の路地に入ると、右側に墓地があって未舗装の路地に沿って石塔が並んでいた。


右 馬頭観音塔 寛政9(1797)四角い台の上の舟形光背に慈悲相二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。


頭上に大きな馬頭がしっかりと乗っている。光背右脇「奉造立馬頭觀世音菩薩爲現當二世安樂」左脇に造立年月日。その下に武州足立郡見沼領。


台の正面中央に山村講中。右脇に右 中(山道)、左脇に左 日光(道)と刻まれていて道標になっていた。


その隣 地蔵菩薩塔 享保7(1722)四角い台の上の角柱型の石塔に丸彫りの地蔵菩薩立像。首に補修跡があり、顔は白カビが厚くこびりついていた。


角柱型の石塔の正面「奉造立地蔵菩薩」両脇に造立年月日。さらに左端に講中男女四拾六人と刻まれている。


最後に六地蔵菩薩塔 天明6(1786)舟形光背型の六基。光背の大きさにやや違いがあるが、ほぼ同じ時期のものだろう。それぞれ光背に戒名が刻まれていた。


左から3番目の光背右脇に造立年月日。左脇に願主名が刻まれている。

コカ・コーラ前 見沼区片柳1012[地図]


県道214号線の山交差点から東へ進むと、500mほど先の左側路傍に三基の庚申塔が並んでいた。コカ・コーラ ボトラーズの入口の左脇になる。


左 庚申塔 寛文元年(1661)板碑型の石塔の正面上部に三猿、その下に二鶏を浮き彫り。塔の上部には断裂跡があった。


正面向きに並んで座る三猿。風化のために顔は削れている。その下に、向かい合う二鶏。三猿、二鶏ともに丸みをおびた姿で、ほのぼのとした雰囲気。縁の部分両脇に造立年月日。彫りは薄くなっていて読みにくい。


塔の最下部、右上に片柳村とあり、その下に九名の名前が刻まれていた。


中央 庚申塔 正徳元年(1711)四角い台の上の唐破風付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて、外に日月雲、中に青面金剛立像 合掌型六臂。上左手にショケラを吊るす「岩槻型」庚申塔。


全体に風化が進み、青面金剛の顔は真ん中がくぼみ削れていた。人為的なものか?髪の間から蛇が首を垂れる。


足元の邪鬼は上半身型、両手を横にして大きな顔をのぞかせる。邪鬼の下に正面向きの三猿。その両脇に二鶏を半浮彫り。


塔の最下部に法輪と卍。その両脇に施主 敬白。台の正面には21名の名前が刻まれていた。


塔の左側面に造立年月日。右側面に「庚申満願塔」左下に小さく片柳村と刻まれている。


右 庚申塔 元禄8(1695)舟形光背に日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。こちらも上左手にショケラを持つ「岩槻型」庚申塔。


風化のために青面金剛の顔ははっきりしないが三眼か?頭上に蛇がとぐろを巻く。持物は十字戟・ショケラ・弓矢。光背右脇「奉造立庚申供養」左脇に造立年月日。


足元に上半身型の邪鬼。その下に正面向きの三猿。その両脇に二鶏を半浮彫り。邪鬼の右脇に片柳村。塔の最下部に17名の名前が刻まれていた。

片柳コミュニティセンター入口交差点脇 見沼区片柳1089[地図]


県道214号線をさらに東へ進むと、片柳コミュニティセンター入口交差点すぐ手前、道路左側の歩道脇に二基の石塔が並んでいた。


左 庚申塔 明和8(1771)大きな四角い台の上の角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて、外に日月雲、中に青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。このあたりで多く見られる「萩原庚申塔」


大小三つの三角に結い上げられた髪、中央の髪の先は向かって右に傾く。像の周りは白カビが厚く様子がわかりにくい。持物は矛・法輪・弓矢だろう。ショケラも白カビに覆われているが、足を折り曲げ合掌しているようだ。


左足を立てて丸くうずくまり、合わせた両手のこぶしの上に顎をのせる丸顔の邪鬼。その両脇に二鶏。邪鬼の下の三猿は両脇が内を向く。


塔の両側面に渡って造立年月日。右側面下部に片柳村 願主とあり、続いて三段にそれぞれ九名、合わせて27名の名前が刻まれていた。


右 納経回国供養塔 天保6(1835)四角い台の上の角柱型の石塔。風化のため、また石質のせいもあるのか、銘はかなり読みにくい。


近寄って銘を確認する。正面中央に「奉納大乗妙典諸願成就」両脇に天下泰平・日月清明。右下に願主、左下に浄□。


台の正面 右に助力とあり七名の名前が刻まれているが、名前の前に、肥後、越中、武州、備前などとついている。諸国の回国仲間なのか、または各地でお世話になった人たちの名前なのか?


塔の右側面に造立年月日。左側面に武州足立郡片柳村 施主とあるが、その下の名前は読み取れなかった。

 

万年寺 見沼区片柳1-155[地図]


片柳の東南の位置にある曹洞宗寺院 万年寺。根木輪公会堂からのアプローチも可能だが、道が入り組んでいてかなり難しい。見沼田んぼの中、西山通りにある信号交差点から、ほぼまっすぐ東へ進む道に入り、突き当りの400mほど手前を左折、北へ向かい坂道を登って400mほど進むと、道路右側、大きな自然石の寺標の立つ万年寺の入口の前に出る。奥に朱塗りの山門が立っていた。


寺標の奥の植え込みの中 百ヶ所観音供養塔 天保13(1842)大きな四角い台の上の角柱型の石塔の正面「奉拝禮 秩父西國坂東 供養塔」台の正面に世話人を含め八名の名前が刻まれている。


正面の上部に浮き彫りされた准胝観音坐像。六観音のうち多臂像というと千手観音、馬頭観音もあるが、千手観音は頭に十一面があり、馬頭観音は頭上に馬頭が乗る。こちらの頭上は宝冠で准胝観音と思われる。准胝観音像は四臂、六臂、十八臂などの作例があるらしいがここでは六臂。合掌手以外の持物はもう一つはっきりしないが戟・蓮華・鈴・払子か?


塔の右側面に造立年月日。左側面に武州足立郡見沼領 片柳村と刻まれていた。


百ヶ所観音供養塔の右奥に馬頭観音塔 天保11(1840)片岩の正面 梵字「カン」の下に「馬頭觀世音菩薩」


背面に造立年月日が刻まれている。



山門をくぐり境内に入る。正面に本堂、左側は奥まで墓地が広がっていた。山門近くは水子地蔵のエリアになっていて、大小多くの地蔵菩薩塔が並んでいる。
 
水子地蔵エリアの奥、小堂の中に六地蔵菩薩塔が祀られていた。


六地蔵菩薩塔は新しいもので、お寺の出入りの業者さんが奉納したものである。


六地蔵の小堂の裏にもいくつか石塔が並んでいた。


左端 三界万霊塔 元禄17(1704)四角い台の上の唐破風笠付き角柱型の石塔の正面「三界萬霊等」塔の左側面に造立年月日。右側面に造立趣旨が刻まれている。


その隣 大乗妙典供養塔 天保8(1837)四角い台の上の角柱型の石塔の正面中央「奉納大乗妙典日本供羪塔」両脇に天下泰平・日月清明。左側面に童子戒名が刻まれていて、こちらは墓石になっていた。


続いて 普門品供養塔 文政10(1827)塔の右側面に造立年月日。左側面に讀誦願主とあり一名の名前が刻まれている。


その奥 地蔵菩薩塔 造立年不明。舟形光背に合掌型の地蔵菩薩坐像を浮き彫り。光背右脇に三界萬霊、左脇に童子戒名が刻まれていてやはり墓石らしい。


続いて 馬頭観音塔 明治29(1896)四角い台の上の隅丸角柱型の石塔の正面中央「馬頭觀世音」右脇に造立年月日。左脇に施主は個人名。


右端 馬頭観音塔 造立年不明。四角い台の上の角柱型の石塔の正面中央「馬頭觀世音」左下に施主 個人名。


六地蔵塔の小堂の隣に、三界萬霊塔。大きな聖観音立像の周りに多くの無縁仏が積み上げられていた。


その左手前の隅に 薬師如来塔 元禄6(1693)六角形の反花付き台の上に厚い敷茄子を重ね、その上に蓮台に座る丸彫りの薬師如来像。右手は施無畏印、左手に薬壺を持つ。


敷茄子両脇に造立年月日。台の各面に多くの人の名前が刻まれている。


背面にも銘が刻まれていた。武州足立郡見沼領 大馬木村内小井戸。大馬木村=大間木村だろうか?


さらに奥に進み左に入ると、墓地の手前、手水舎の脇に石塔が立っている。


庚申塔 天保12(1841)四角い台の上の唐破風笠付き角柱型の正面を彫りくぼめた中、青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。唐破風笠の頂点に大きな宝珠、笠の前面上部に日天・月天が彫られていた。


彫りは繊細であり、また力強い。隅々まで手の込んだ仕事はさいたま市内でも屈指の名品と言えるだろう。青面金剛像は大宮共立病院西の「猿田彦大神」小堂の中の庚申塔とよく似ている。


細部を見てゆこう。細かくうねる怒髪の中に見えるのは人面、あるいはドクロか?三眼の青面金剛はムッとした顔をしている。身にまとう衣装も優美。持物の表現も細かい。六臂ともに手首に腕輪をしている。


腹部に龍がからみつく。その下に虎の頭。両者ともに細部まではっきり。長い髪をむんずとつかまれ、合掌しながら吊るされたショケラは、膝から下が欠けていた。


青面金剛の足元に、寄り添うように二匹の邪鬼。両手の指の先までしっかり彫られている。


台の正面を彫りくぼめた中には「自由奔放な三猿」法被を着た三猿はいずれも片手使い。左の言わ猿は左手で口を押え右手で中央を指さす。中央の聞か猿は立ち姿、左手で耳をふさぎ右手に桃果を持つ。右の見猿は右足を立てて後ろ向きに寝転がり、左手で両目を覆いながら右手に桃果のようなものを持つ。驚くほど自由で大胆な三猿。二匹の邪鬼と自由な三猿は、岩槻の田中武兵衛一門の石工の作品の特徴らしい。


塔の右側面に造立年月日。台の右側面に23名の名前が刻まれていた。その右端の先頭にある「守屋藤内」という人物は、酒井さんの石仏ノートによると、3500人余りの弟子を持つ華道の大師匠かつ書家であり、当時の片柳村の名主らしい。


塔の左側面に武州足立郡見沼領 片柳村。台の左側面に發願主 世話人含めて23名の名前。両側面合わせると施主46名になる。


本堂の手前左側、馬頭観音堂の近くの植え込みの中に石塔が立っていた。手水舎の脇の庚申塔と向かい合うような位置になる。


庚申塔 天明7(1787)唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。田中武兵衛と並ぶ岩槻のもう一方の名石工、萩原利兵衛一門の作品である。


三眼忿怒相の青面金剛。高く結い上げられた髪の先が右に折れる。ショケラは足を折り曲げ青面金剛のももにすがり付いていた。


足元に丸まった全身型の邪鬼。両脇に二鶏を半浮彫り。その下に三猿。両脇の猿が内を向いて座る。


塔の左側面に武州足立郡片桺村講中。


右側面中央「奉造立庚申供羪塔」上部両脇に天下泰平・日月清明。下部両脇に造立年月日が刻まれていた。

 

根木輪公会堂 見沼区片柳1373[地図]


県道214号線から大宮共立病院の西の交差点から南へ向かい、200mほど先、登り坂を上り切ったあたり、道路左側に根木輪公会堂があった。敷地の北隅に一列に石塔が並んでいる。


左端 雨除けの下に 百ヶ所観音供養塔 寛政9(1797)四角い台の上の角柱型の上に座る石仏は・・


阿弥陀如来坐像。阿弥陀定印を結ぶ。観音霊場順礼供養塔に阿弥陀如来像。観音菩薩は阿弥陀如来の「慈悲」を表す化身とされるので、本地仏である阿弥陀如来を主尊としたものか。


角柱型の石塔の正面中央「奉納 坂東西國秩父 供養塔」上部両脇に天下泰平・日月清明。下部両脇に造立年月日。塔の左側面に五つの戒名と三つの命日。右側面には三つの戒名と二つの命日。


裏面にも銘が刻まれていた。中央に「家門有縁無縁三界萬霊等」右下に片柳村、左下に願主 守谷氏。


左から2番目 地蔵菩薩塔 明和4(1767)舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。像の周りに薄く白カビ。光背一部が欠ける。光背上部両脇に大きな字で造立年月日。右下に願主、左下に片柳村と刻まれていた。


3番目 馬頭観音塔 寛延2(1749)四角い台の上の駒型の石塔の正面に、蓮台に立つ慈悲相八臂の馬頭観音像を浮き彫り。右足をやや開く立ち姿は珍しい。


像は白カビが多いが、彫りは細かく丁寧。穏やかな慈悲相と頭上の馬頭ははっきり。ふっくらと馬口印を結ぶ。持物は剣・法輪・斧・宝棒・与願印・羂索と多彩で、しっかり表現されていた。


塔の右側面に「念佛講中」下部に鱜宜屋組 三十八人。鱜宜屋=根木輪だろう。


左側面に造立年月日が刻まれていた。優れた馬頭観音像塔だと思う。


4番目 地蔵菩薩塔 明和6(1768)舟形光背に蓮台に立つ地蔵菩薩像を浮き彫り。光背右脇「奉造立地蔵大菩薩」その下に片柳村念佛講中。左脇に造立年月日。その下に願主一名の名前が刻まれている。


5番目 馬頭観音塔 明和4(1766)目の前の柱のために正面から写真は撮れない。舟形光背に慈悲相二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。優しげな尊顔。頭上の馬頭は大型でくっきり。光背左脇に造立年月日。光背右脇に大きな字で轉性禪門。禪門=禪定門で戒名か?墓石だとすると「個人の墓石に馬頭観音塔」これは大変珍しい。


6番目 如意輪観音塔 文化12(1815)舟形光背に二臂の如意輪観音坐像を浮き彫り。光背右脇に造立年月日。左脇に片柳村と刻まれていた。


7番目 三界万霊塔 文化2(1805)舟形光背に長い錫杖と宝珠を手にした地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背上部は欠けている。光背右脇大きく「三界萬霊」その下に念佛講中。左脇に造立年月日。その下に願主 守屋氏。


8番目 馬頭観音立像 天明2(1782)駒形の石塔の正面 憤怒相二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。右脇に「奉造立造立馬頭觀世音」左脇の紀年銘は5月17日となっていて、亡くなった馬の 命日か。その下に施主 秋本氏。江戸時代も後期になると馬の供養のための馬頭観音塔が増えてゆくが、そのほとんどは文字塔。このような像塔は珍しい。


9番目 馬頭観音塔 天明8(1788)駒形の石塔の正面 憤怒相二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。右脇に「奉造立造立馬頭觀世音」左脇に紀年銘。その下に施主 秋本氏。隣の馬頭観音塔から6年後の造立。像容はほぼ同一で兄弟塔といえるだろう。施主も石工も同一人物と思われる。


10番目 文政13(1830)、11番目 明治4(1871) こちらの二基はいずれも墓石だった。


12番目 普門品供養塔 文政元年 (1808)角柱型の石塔の正面に「普門品供養塔」両脇に天下泰平 日月清明。塔の右側面に造立年月日。


左側面に片桺村講中二十四人と刻まれている。


右端 馬頭観音塔 文政5(1822)駒型の石塔の正面中央「馬頭觀世(音)」両脇に造立年月日。以前来たときはもう少し土深く埋まっていて紀年銘も確認できなかった。その時は馬の供養塔かと思っていたが、紀年銘が三月吉日のようなので、どうやら墓石ではないようだ。講中のものか、個人のものか、そのあたりの詳細はわからない。

 

大宮共立病院西路地奥 見沼区片柳1313西[地図]


県道214号線の片柳コミュニティセンター入口交差点から東へ進むと、道路右手に大宮共立病院が見えてくる。病院の手前の押しボタン信号交差点を右折して南に向かい、すぐ先を右折、細い路地の先の右手に小堂が立っていた。


小堂の中 庚申塔 寛政10(1798)四角い台の上の唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中、青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。


小堂の上部に掲げられた額に「奉納 猿田彦大神」大きな笠の正面に日月雲が彫られていた。


彫りは細密で装飾的。三方に炎の付いた輪光背を負った三眼忿怒相の青面金剛。髪や肩、手のあたり、一部彩色された跡が残る。六臂いずれも手首に蛇が巻き付いていた。


朱塗りの跡が残る腹部に龍。ヒゲ?鱗?まで細かく彫られている。その下に虎の袴。ショケラは足を延ばして合掌。青面金剛の両足にも蛇が巻き付いていた。


足元に二匹の上半身型の邪鬼。狛犬のような、獅子舞の獅子のような面相でお互いにそっぽを向く。その下に立派な二鶏を半浮彫り。


台の正面を彫りくぼめた中に三猿。両脇の猿が内を向いて座る。足の組み方がつつましやかで女性っぽい。


塔の右側面に造立年月日。左側面に武刕足立郡南部領 片柳村。台の両側面にも銘がありそうだが、空間が狭く確認できなかった。さて、こちらの庚申塔、上の田中武兵衛の二基の庚申塔に勝るとも劣らない作品と言えるだろう。石工名は見当たらないが、二匹の邪鬼の様子、細かく丁寧な彫りなどから考えて岩槻石工、田中武兵衛一門の作品の可能性が高いと思うがどうだろうか。

 

常泉寺南路傍 見沼区片柳1131東向[地図]


県道214号線の根木輪バス停あたりから300mほど北に曹洞宗寺院 常泉寺がある。その入口からまっすぐ南へ150mほど進むと左手の路傍に庚申塔が北向きに立っていた。


庚申塔 文化7(1810)四角い台の上の角柱型の石塔を彫りくぼめた中に 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。雨除けもない割に保存状態はよく、10年前と比べても大きな変化はない。大事にされてきたのだろう。


頭上の瑞雲、細かくうねる怒髪、矛・法輪・弓矢を持つ指の先まで実に丁寧な仕事がされていた。髪の中には蛇がとぐろを巻き、腰には虎の頭?ショケラは足を折り曲げ丸くなっている。


青面金剛の足元に彫られた二匹の邪鬼が秀逸。あおむけに寝た左の邪鬼は胸のあたりを踏みつけられ、右手でその重さに耐えながら左手で踏まれた足にすがりつく。右の邪鬼は頭を踏まれ、左の邪鬼と絡まるように横たわり身動きもできない。いままで見たこともない独創的な邪鬼。岩槻でよくみられる「自由奔放な三猿」に似た表現と言えるだろう。両脇に二鶏が彫られていた。


台の正面を彫りくぼめた中に法被を着た三猿。左脇の見猿は右手を地につき、左手だけで目をふさぎやや内向きに座る。右脇の言わ猿は右手を口に当て、左手に桃果を持ちやや外向きに座る。三者三様の座り方で、このあたりも個性的。


塔の左側面に造立年月日。台の左側面に12名の名前が刻まれていた。


塔の左側面に武州足立郡南部領 片柳村。


台の左側面には右上に願主とあり、続いてやはり12名の名前が刻まれている。


台の裏面 右のほうに4名の名前。三面合わせると施主28名。左隅に林道町 石工 武兵エ。林道町は岩槻駅東、岩槻城近くの町。名石工として名高い 田中武兵衛の作品だった。

大宮聖苑南の林 見沼区片柳1229北[地図]


県道214号線の片柳コミュニティセンター入口交差点から、北へ急な下り坂を下り切ったあたりの十字路を右折すると、すぐ先の道路右側の林の中に石塔が立っていた。道路を挟んだ向かい側には大宮聖苑の墓地が広がっている。


庚申塔 文化7(1810)雨除けの下、四角い台の上の角柱型の石塔の正面を彫りくぼめた中に 日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。常泉寺南路傍の庚申塔とよく似ていて、造立年も同じ「兄弟塔」である。


彫りは隅々まで緻密で、青面金剛像も同じように見えるが、細部はちょっと違っていて、こちらは虎の袴?はなく、はだけた胸のあばら骨の一本一本まで表現されていて、それぞれ差別化されていた。ショケラは足を深く折り曲げ青面金剛のももにすがり付く。


青面金剛の足元の二匹の邪鬼もよく似ているが、邪鬼の構図は変えていた。左の邪鬼は頭を踏まれながら深く座り、右の邪鬼は左の邪鬼に支えられながら逆立ち、おしりを踏まれて左足を折り曲げ右足は上へけり出す。両脇に二鶏を浮き彫り。


台の正面を彫りくぼめた中に法被を着た自由奔放な三猿が彫られていた。左の見猿はうつぶせに横になり、かくれんぼの鬼のよう。右手で両目を隠す。中央の聞か猿は後ろ向きに立つ。左足を岩の上に乗せ、頭を思いきり反らせて両耳をふさいで逆さに顔を見せる。右の言わ猿は左手を地面につき右手で口を覆い、足を組みながらちょっと体を内にひねって座っていた。なかなか魅力的な三猿である。


塔の左側面に武州足立郡南部領 片桺村。台の左側面、右上に願主とあり12名の名前。


塔の右側面に造立年月日。台の右側面に12名の名前。台の裏面、右のほうに4名の名前。左隅に林道町 石工 武兵エ。施主28名に中に多少の異同は認めらるが、銘に関してはほぼ同一と言っていいだろう。庚申塔や地蔵菩薩塔は村境に置かれることが多いという。同年に建立されたこの二つの庚申塔は「塞神」として村の東西の境に立っていたのだろうか。