見沼区 風渡野

 

大圓寺見沼区風渡野338[地図]


七里駅のすぐ南、駅から歩くと大圓寺の東口から本堂の前に出るが、参道に沿って石仏を見てゆくためには南に回り込むことになる。車・自転車でのアプローチは、県道2号線を大和田方面から岩槻方面に向かい、東門前交差点の200mほど先の信号交差点を左折、細い道をまっすぐ進むと参道入口につく。山門までの参道の両脇は駐車場になっていた。入口から入ってすぐ、両脇に石塔が並んでいるのが見える。


右側には三基の石塔。右の二基は角柱型の石塔の上に石仏が乗り、左は大型の駒型の石塔。



右 地蔵菩薩塔 安永9(1780)大きな四角い台に角柱型 石塔、その上に蓮台を乗せ、またその上に正面に地蔵菩薩立像が浮き彫りされた角柱型の石塔。なかなか凝った構造だ。


蓮台の上の角柱型の正面を彫りくぼめた中に地蔵菩薩立像を浮き彫り。お地蔵様が笠をかぶっていた。これはあまり見かけない。記憶にあるのは戸田市美女木の妙厳寺山門裏の丸彫りの地蔵菩薩立像。その後いくつか見たことがあるが、いずれにしても相当珍しい。塔の左側面は無銘。右側面に願主 良圓と刻まれていた。


四角い台の上の角柱型の正面中央「奉造立地蔵大菩薩」両脇に造立年月日。


塔の左側面にいくつか戒名が刻まれている。右側面に武刕足立郡南部領。風渡野村男女講中。地所八尺司法寄進 □惣八、願主 野本平蔵。蓮台の上の願主と別の願主である。10年前はこの二つの願主についてはスルーしたが、今はやはり気にかかる。ここから先は勝手な推理だが、蓮台の上にあった本来の地蔵菩薩像が損傷し、そのあとに現在ある角柱型の地蔵菩薩塔が置かれたということはないだろうか?蓮台の上には丸彫りの地蔵菩薩像がしっくりくると思うのだがどうだろう?


中央 大乗妙典供養塔享保10(1725)四角い台の上の角柱型の石塔、その上の蓮台に地蔵菩薩立像が浮き彫りされた舟形光背が乗る。


角柱型の石塔の正面「奉納大乗妙典六十六部供羪塔」右側面に造立年月日。


左側面に武州足立郡風渡野村 願主 頓心。


台の正面、右に助成とあり 加倉村 中嶋六兵衛 同村 □□久兵衛と刻まれていた。


蓮台の上の舟形光背に合掌する地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背右脇「三□童子」左脇に高橋氏。白カビも多く遠目にしか見ていなかったのでずっと気が付かなかったが、よく見ると戒名の下に弘化四と紀年銘がありこれは命日だろう。下の角柱型の石塔の紀年銘が享保10年なので、やはりこちらも蓮台の上の石仏が破損して後から現在の地蔵菩薩像が置かれたのかもしれない。蓮台の厚さから考えると上の地蔵菩薩像はやや貧弱にも見える。もっとも弘化4年の命日が読み違いの可能性もあるが・・・


左 寒念仏供養塔 享保6(1721)四角い台の上の駒型の石塔の正面を二段に彫りくぼめた中、中央に「奉造立寒念佛供羪」上部両脇に造立年月日。右下に 風渡野村施主村中。左下に願主 大塚氏二名の名前が刻まれていた。


入口から入って左側には二基の石塔が並んでいる。


左 大乗妙典供養塔 安永3(1774)大きな四角い台に反花付き台を重ね、その上に角柱型の石塔。かなり重量感がある。


石塔の正面中央「奉納大乗妙典六十六部供養塔」上部両脇に天下泰平・國土安全。右下に行者三十九歳、左下に水村市平。


塔の右側面、奥に武州足立郡南部領門前村。その横に造立年月日。手前にひときわ大きく導師大圓現恩頂叟。


左側面に大きな字で「三界萬霊等」脇に小さな字で法印、信士、他に三名の名前が刻まれていて、さらには「等」の左脇に諸國御宿衆。納経回国の折にお世話になった人たちだろう。


右 庚申塔 寛保2(1742)四角い台の上の唐破風笠付き角柱型の石塔の正面を彫りくぼめて、外に日月雲 中に青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。像の周りに白カビが多い。


三眼の青面金剛の頭上に蛇がとぐろを巻く。大きなショケラは両手で顔を覆い、足を折り曲げて青面金剛の腰にすがり付いていた。持物は矛・法輪・弓・矢。彫刻は細部まで丁寧で優れている。


足の両脇に二鶏を線刻。足元には全身型の邪鬼。腰が向かって左、頭部が右という、この形では少数派の構図。頭を踏まれ、邪鬼の目玉が飛び出しているように見える。その下にしっかりした体つきの三猿。両脇の猿が内を向いて座る。


塔の右側面に「奉造立庚申供養塔」達筆である。


左側面に造立年月日。その横に足立郡風渡野村。下部に施主 村中、願主 玄竜と刻まれていた。


駐車場に挟まれた参道を進み山門の前に出ると、奥に本堂の大きな瓦屋根が見える。山門右脇に二基の石塔が並んでいた。


左 大乗妙典供養塔 享保14(1729)舟形光背に地蔵菩薩立像を浮き彫り。光背の縁に一部細かい賭けがあるが、像は大きな欠損なく、白カビも目立たず比較的美しい。光背右脇「奉納大乗妙典六十六部供養塔」光背左脇に造立年月日。その下に風渡野村 願主 廻超と刻まれている。


右 馬頭観音塔 宝暦10(1760)荒彫角柱型の石塔の正面を彫りくぼめたて、中央に「馬頭観音供養塔」上部両脇に造立年月日。左下に願主一名の名前が刻まれていた。


山門をくぐり境内に入ると、山門近く、参道左脇に多くの石塔が並んでいる。


左 千部供養塔 享保18(1733)荒彫りの四角い台に角柱型の石塔を重ね、その上に定印を結ぶ丸彫りの釈迦如来坐像が乗っていた。角柱型の石塔の正面は風化のためか銘が全く見当たらない。この石塔は10年前には本堂近くの植え込みの前に立っていたものだ。


塔の裏面に銘が刻まれていた。中央に「千部供養塔」右側面中央に武州足立郡風渡野村鷲嶽山大圓寺。右下に現住大道代、左下に香水謹讀。経典を千部読誦したということだろうが、その経典がなにかは確認できない。


その隣 神社仏閣巡礼供養塔 文化12(1815)石灯籠の竿の正面に「日本國中神社佛閣巡礼供養成就」


右側面に造立年月日。左側面に武州足立郡風渡野村。左下に行者 富張□□と刻まれていた。


続いて 大乗妙典六十六部供養塔  明和元年(1764)隅丸角柱型の石塔の正面中央「奉納大乗妙典六十六部日本廻國供養塔」塔の上部両脇に天下泰平・日月清明。中ほど両脇に造立年月日。線香立ての陰で見えないが、右下に風渡野村、左下に願主 凌雲と刻まれている。


次に並ぶ二基の舟形光背型石塔は延宝年間の紀年銘がある古仏だが、いずれも戒名が刻まれていて、個人の墓石だった。


続いて 常灯明供養塔 寛政10(1798)四角い台の上の唐破風笠付き角柱型の石塔の正面に「常燈明供養塔」塔の上部両脇に造立年月日。右下に小深作村、左下に願主 小山五兵衛。


塔の両側面に驚くほど多くの寄進者、その寄付額が細かい文字でびっしり刻まれている。左側面の中ほどに大きく「中」という文字が見えた。その上の部分に中丸村、大和田村、砂村から始まり、現岩槻区の谷下村、北区の土呂村、本郷村なども含む21ヶ村の名前が刻まれていて、広い範囲の多くの村の助力があったことがわかる。


右端は小型の宝篋印塔 寛政9(1797)屋根型の笠を持つ。基礎に小深作村 施主とあり、個人の名前が刻まれていた。

 

風渡野郵便局北住宅隅 見沼区風渡野727[地図]




県道322号線、東武線七里駅の東の踏切を北に渡って坂道をしばらく進むと、道路右手に郵便局があり、その少し北の新しい住宅のフェンスの付いた塀のエンドの部分に石塔が立っていた。このあたり坂道になっていて、南の方から上ってくると石塔はちょうど塀の陰になってしまい、気が付かないまま見逃していた。


庚申塔 万延元年(1860)庚申の年の造立。四角い台の上に足付きの台を乗せ、その上の角柱型の石塔の正面日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。
 

塔の右上を欠くが彫りは細かく本格的。顔は風化のためかはっきりしない。怒髪の中に人面。持物は矛・法輪・弓・矢。小さなショケラは足を折り曲げ青面金剛のもものあたりにすがり付くような形で吊るされていた。足元に二匹の邪鬼。揃えた両手の上に丸い顔をのせて正面を向く。


自由な雰囲気の三猿が台の正面に彫られていた。座り方もそれぞれで、三匹とも片手使い。岩槻石工の仕事だろうか?


塔の左側面に造立年月日。ところどころに細かいひび割れが見える。


右側面に天下泰平 □□成就。その下に風渡野村。こちらの面には補修された跡が残っていた。