釈迦堂墓地 ふじみ野市中丸1-2-11[地図]
西養寺から南へ進み、滝交差点を過ぎて、次の信号交差点は中丸交差点になる。その100mほど手前、稲荷神社の北の路地を左折すると、左側に釈迦堂の墓地があった。入口近くに宝篋印塔と大きな角柱型の石塔が並び、その奥に小堂が立っている。
宝篋印塔
天明3(1783)屋根型の笠を持ち、基礎の上下に蓮台が入る装飾的に凝った構成である。
基礎の正面に「宝篋印陀羅尼経」左側面に兩福岡講中とあり、6名の名前。
右側面中央に造立年月日。その右脇に願主
中福岡村とあり二名の名前、左脇に薬王現住智琢叟代と刻まれていた。
その隣 念佛供養塔
享保13(1728)大きな角柱型の石塔の正面、中央に「南無阿弥陀佛一億十百萬供養」その右下に同行 百六十五人 福岡村。左下に願主 圓譽傳達。塔の左側面に造立年月日。右側面には乃至法界平等利益と刻まれている。
小堂の中に八基の丸彫りの地蔵菩薩塔が並ぶ。中の六基が六地蔵塔だった。
左端 地蔵菩薩立像
正徳3(1713)ちょっと個性的な顔立ちをしている。
背中には造立年だけが刻まれていた。
六地蔵菩薩立像
安永5(1776)像、蓮台、石塔いずれも破損なくよくそろっている。
六基の石塔の正面中央に「奉建立六地蔵」両脇に造立年月日。さらに兩福岡村
講中と刻まれていた。
右端 地蔵菩薩立像
明和2(1765)風化もなくカビも見られない。
背中いっぱいに銘があった。中央に造立年月日。その下に願主 願翁常円、同
女中。願主として女中というのはあまり見ない。右脇に福岡村爲禪男女童男女菩提也、左脇に先祖二親兄弟佛果菩提也と刻まれている。
日蔭寮墓地 ふじみ野市中丸1-4-16西[地図]
釈迦堂の北隣にも墓地があった。日蔭寮墓地といっても寮=仏堂は見当たらない。入口すぐ先に小堂が立っている。
小堂の中に七基の丸彫りの地蔵菩薩塔。左の六基は平成6年造立の六地蔵だった。
右端 地蔵菩薩立像
元文5(1740)顔はいま一つはっきりしないが、錫杖、宝珠などは破損なく残っている。
石塔の正面、中央に「釋迦堂
福岡村」両脇に造立年月日。さらに願主西念、施主十六人と刻まれていた。
観音山墓地 ふじみ野市長宮1-4[地図]
中丸交差点のすぐ西、道路北側に墓地があった。入口から入って正面左側に石塔が並んでいる。一番手前の大きな舟形光背型の地蔵菩薩塔は比較的最近造立されたものだった。
その奥に白カビにまみれた石塔がいくつか並んでいる。一番手前の駒型の石塔と右から4番目の舟形光背を持つ石塔が馬頭観音塔だった。
左端
馬頭観音立像。全体に白カビが多い。三面八臂、駒型の大きな馬頭観音塔である。
三面は白カビも多いが、それ以前に削られたのだろうか、目鼻がはっきりしない。近づいて見てなんとか頭上に馬頭らしいふくらみが確認できた。合掌手以外の六臂の持物は判別が難しい。上から剣?と法輪。斧と棒?。空手(与願印?)と数珠。
像の周りに銘らしきものが見当たらず造立年など不明と思ったら、下の台の隅に「宝」という字が見えた。失礼して少し土を掘って見ると、右は宝暦、中央は仲福、下まで掘り進めれば確定できるのだが、とりあえず宝暦年間の造立、仲福岡村(講中か?)と思われる。
さらにその奥 馬頭観音塔
元禄3(1690)舟形光背に一面八臂の馬頭観音立像を浮き彫り。
こちらも白カビが多く判然としないが、頭上のふくらみは馬頭だろう。やはり尊顔は削られているようでのっぺらぼうだった。
六臂の持物は法輪と武器?。弓矢。鈴と玉か?この状態では確証はないが・・・
足の右脇に施主名だろうか?左脇に造立年月日が刻まれていた。
上福岡歴史民俗資料館 ふじみ野市長宮1-2-11[地図]
長宮氷川神社の前の信号交差点から100mほど南に進むと、道路左側に上福岡歴史民俗資料館があった。敷地の南端、フェンスの前に二基の石塔が並んでいる。左の小さな石塔は弁財天の文字塔だった。
右
馬頭観音塔。舟形光背に一面二臂の馬頭観音立像を浮き彫り。馬頭観音の二臂像は珍しい。
横顔からは憤怒相と思われる。頭上の様子を見てみると馬のたてがみと耳のようだ。胸前で合わせた手はふっくらとしていて馬口印だろう。像の両脇を何度も見てみたが、合掌手以外の腕も紀年銘も見当たらなかった。
光背右下に福岡村、左脇に多喜中。多喜=滝だろう。像の下の台はかなり深く土に埋まっていて、紀年銘などはもしかしたら台のほうに刻まれているのかもしれない。