和光市本町・中央・南の石仏

うけら庵 和光市本町16

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和光市駅の西を通る道を南に歩くと左手に和光郵便局がある。その向かい側の
細い道を右に曲がり、すぐ先の一方通行の道を斜め左にはいると、右手に墓地が
あり、敷地内には「うけら庵」と書かれた額がかかった建物があった。脇にある
解説板によると、このうけら庵は天明初期の創建で小さな墓守堂だったらしい。
現在の建物は平成元年に再建されたものだという。

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敷地の奥に墓地。その手前、庵に向き合うように壁の前に石塔が並んでいた。

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銀杏の古木の左、四基の石塔のうち中の二基は墓塔。両脇に馬頭観音塔が立つ。

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左端 馬頭観音塔 明治32(1899)正面 味のある字で「馬頭観世音」両脇に年号。
左側面には明治33年の銘があり、篤主鈴木彦太郎建之。正面と側面に二つの
年号が見られるのはどういうわけなのだろう?

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右端 馬頭観音塔 明治45年(1912)こちらはかなり風化が進んでいた。

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銀杏の木の右、前列に五基、後列に三基の石塔。前列左の四基は墓塔だった。

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前列右端 納経供養塔 享保13(1728)梵字「アク」の下「光明真言百万遍」
両脇に「妻」二名の名前が刻まれている。

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左側面 梵字「ウン」の下「天下泰平國土安穏」両脇に造立年月日を刻む。

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右側面は梵字「キリーク」の下「三界万霊有縁無縁」両脇に乃至法界平等利益。

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さらに裏面も梵字「タラーク」の下「西國坂東秩父百番諸願成就」続いて脇に
武州新座郡上新倉村、さらに施主名などが刻まれていた。このように一つの
石塔がいくつかの供養塔の役割を合わせ持つこともあるが、こういった場合、
どちらが正面なのかよくわからない。

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後列右 順礼供養塔 安永9(1780)正面 阿弥陀三尊の梵字「キリーク」「サ」
「サク」の下「坂東西國秩父 奉順禮百箇所二世安樂攸」と刻む。両脇 上から
天下泰平 國土安穏 中ほどに造立年月日 下部に新座郡新倉村と刻まれている。

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右側面 下部に11名の名前が刻まれていた。左側面にも願主をはじめ10名の名前。
合わせて20名ほどの名前を見ることができる。

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後列中央 聖観音菩薩立像 元禄2(1689)風化が進み苔も生えていて像はやはり
はっきりしない。光背の文字も読みにくいが右脇に「奉待月天使供養二世安穏」
左脇に左脇に武州新倉郡の文字が確認できる。資料によると聖観世音日待供養と
刻まれているらしいが読み取れなかった。どうやら日待月待供養塔のようだ。

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後列左 梵字「ア」の下 大日如来立像 享保2(1717)こちらも顔がはっきりしない。
右脇「奉供養大峯拾三度満行所」大峯山修行成就供養塔ということだろう。左脇に
「天下泰平國土安全當村繁昌万民豊楽」像の下に権大僧都大越と刻まれていて、
さらに願主二名の名前が続く。塔の右側面に年号。左側面 武州新倉郡上新倉村。

浅久保浅間神社 和光市中央1-3

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外環道との交差点あたりで旧川越街道から分かれる浅久保通り。この通りは
旧川越街道とほぼ平行に進み、登り坂の先で笹目通りを越え、白子宿方面へと
続いている。これが本来の川越街道だったようだ。和光方面から浅久保通りに
入ってしばらく行くと右手奥に浅久保地区集会所がある。その裏に富士塚で
有名な浅久保浅間神社があった。

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富士塚の東の鳥居の脇に立派な唐破風笠を持った庚申塔が立っている。

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庚申塔 享保11(1726)笠正面に日月雲。塔の正面 青面金剛立像合掌型六臂。
頭に蛇を頂き、丸顔で均整の取れた堂々とした立ち姿である。

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足元にひしゃげた邪鬼。その下には二鶏が彫られていた。三猿が見えないが
下部がかなり土中に埋まっており、そちらに彫られているのかもしれない。

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塔の右側面に年号。左側面には武州新座郡下新倉村浅久保、続いて願主 宜忍
講中三十三人と刻まれていた。

浅久保通り会社敷地内 和光市中央1-2

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浅久保通り、浅久保地区集会所入り口の向かい側の会社の敷地の中に大きな
堂が立っている。この日は朝早かったのだが門も堂の扉も開いていた。

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堂の中には大型の石塔が見え、その周りにもいくつか石塔が並んでいる。

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中をのぞいてみると、大きな石塔の上、蓮台に立派な石像が乗っていた。

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馬頭観音坐像 文化15(1818)忿怒相三面六臂。頭上に馬頭を頂き、馬口印を結ぶ。
残りの四つの手には剣・法輪・斧?・索を持つ。立体的な彫りで大変手の込んだ
作りになっている。江戸時代後期ともなると馬頭観音塔も文字塔が主流となる。
簡単な作りのものが多いこの時期にこれほどの立派な像塔が作られたというのは
本当に驚くべきことだと思う。

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塔の正面 大きく「上岡村寫」東松山の上岡馬頭観音を写したもののようだ。
両脇に天下泰平・國土安穏。下のほうには在々諸村馬持中、當村馬持中とある。
志木市の行屋稲荷前の文字塔(2015.6月2日の記事)浅霞市浜崎の三光院の堂内の
彩色された像塔(2015.7月19日の記事)に続いてここ和光市にも上岡馬頭観音。
これらの村の馬持連中が、遠く東松山にまで参詣に出かけたということだろう。
塔の側面は狭くカメラが入らない。右側面に年号。左側面 武州新座郡下新倉村と
刻まれていた。

浅久保通り枝道路傍 和光市中央2-4

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浅久保通りを白子宿に向かって歩いてゆくと急な登り坂になる。坂を登り切ると
笹目通りを横断して白子方面に至るが、笹目通りに出る少し手前左に枝道があり
その左側の路傍に小堂が立っていた。

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馬頭観音立像 寛文13(1673)三面六臂。和光市では最古の馬頭観音塔らしい。
光背右脇「奉造立観音」その下に年号。続いて小さく上野政次郎?と見える。
光背左には武州新座郡安□□。下のほうにも文字があるが読み取れなかった。

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静かに合掌する三面六臂の馬頭観音。江戸時代初期らしい素朴な佇まいには
なぜか武人の立ち姿を思わせるものがあった

南1丁目T字路突き当り 和光市南1-16

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笹目通りから越後山通りを西に向かい、和光第三中学校の先で左に曲がり、
バス通りを道なりに進むとT字路の交差点、右側路傍に小堂が立っていた。

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地蔵菩薩立像 大正14(1925)台の正面に子育地蔵と刻まれている。赤い服を
まとい像の様子はわからないが、お地蔵さまは丸顔できりっとしている。

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台の左側面に造立年月日。施主は個人、建立時の年齢まで刻まれていた。

南1丁目庭先 和光市南1-17

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さらに100mほど進むとこちらも右側の庭先にポツンと石塔が立っていた。

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十一面観音立像 宝暦7(1757)風化のため若干はっきりしないが六臂だろうか?

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頭上には様々な表情の仏面。体の前面の両手はその形からなにかを抱え持つ形、
おそらく花瓶を持っているものと考えられる。

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塔の右側面「奉順礼西國坂東秩父百箇所為二世安樂也」百観音順礼達成を
記念して建立されたものだろう。

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左側面には年号。脇に武州新倉郡白子村と刻まれていた。江戸時代には
この地域も白子村に含まれていたということがわかる。