堂山墓地 富士見市羽沢1-29
県道266号線の鶴瀬小前交差点のY字路を右に入ってゆくと羽沢、渡戸、勝瀬方面に向かう。羽沢交差点と渡戸交差点のちょうど真ん中あたり、東側のコンビニの隣に郵便局がある。この道路を東に50mほど進むと右手に駐車場があり、その駐車場の南、傾斜地に墓地が見える。駐車場脇の細い路地を入ると墓地入口右手に六地蔵の小堂と石仏が並んでいた。
六地蔵菩薩立像 明和4(1767)六体の丸彫りの地蔵像は釣り目の表情は似通っているが、よく見ると色も違い頭部の形も微妙に違う。また、そのうちのいくつかは頭部が欠けた形跡があり、六地蔵としての原形のままとは思えない。台の銘は右の二つは「一切霊」3番目は彫りが薄いが命日と思われる二つの紀年銘、4番目に造立年月日、5番目は明治33年再建立、最後の台には鶴馬村羽沢
講中と刻まれていた。
その奥 表面の剥落がひどく、かなり厳しい状態だが庚申塔 天明5(1785)中央おぼろげながら見えているのは「庚申塔」上部に日月があるかどうかは確認できない。右上にやはりうっすらと天明五、左上は三月吉日。左下 願主羽沢・・
塔は深く埋まっているため、下部には三猿の頭だけが見えていた。
その隣 雨除けの下に如意輪観音坐像 寛保3(1743)蓮台の上の丸彫りの坐像はボリュームがある。塔の正面中央「観音講中廿七人」右脇に武州入間郡鶴馬村、左脇に造立年月日が刻まれている。
一番奥に地蔵菩薩立像 寛文5(1665)舟形光背に浮き彫りされた延命地蔵。古いものだが状態はいい。
光背右に「奉造立念仏供養攸」その下に武州入東郡羽沢村。入間郡を入間川を境に西側を入西郡、東側を入東郡と呼んでいたらしい。光背左脇に造立年月日。その下には廿二人敬白と刻まれていた。
入り口の左側にも卵塔などの石塔が並んでいた。
左のほうに普門品供養塔 天保12(1841)自然石の中央に「普門品一萬巻供養塔」上部両脇に造立年月日。右下 當所、左下に羽澤中。
右のほうに庚申塔 貞享2(1685)典型的な江戸時代初期の板碑型三猿庚申塔。中央 梵字「アーンク」の下「奉造立庚供養諸願成就所」右脇に造立年月日。その下に施主廿七人。左脇に武州入間之郡鶴馬郷羽沢村と刻まれている。
下部にスタンダードな三猿を彫る。カビと苔の中に漠然と座った姿がなぜか愛らしい。
その隣 最後に地蔵菩薩立像 元禄9(1696)同じような舟形光背型の延命地蔵なのだが、右の列の寛文5年の延命地蔵と比べると驚くほど風化が進み白カビが目立つ。たった30年の違いでどうしてこんなに差が出るのだろう?
光背の文字もかなり読みにくいが、光背右に元禄九と造立年は読み取れる。左脇のほうには白カビの中に羽沢村 観音堂施主と刻まれていた。
渡戸観音堂 富士見市大字鶴馬3625隣
県道266号線から分かれ羽沢交差点から渡戸、勝瀬、栗林へと抜ける通りは結構交通量も多い。渡戸交差点を過ぎ坂道を下ってゆくと右手に渡戸観音堂の墓地があった。広い敷地内の道路側、墓地の前に石地蔵など多くの石塔が並んでいる。
大きな木の左側に五基の石塔。きれいな生花が供えられていた。
左から 庚申塔 寛政4(1792)日月雲 青面金剛立像 合掌型六臂。表面は風化が進み、青面金剛、邪鬼の表情などはあまりはっきりしない。邪鬼の下に三猿。二鶏は見つからなかった。
塔の左側面 入間郡鶴馬村 渡戸中。脇に造立年月日が刻まれている。
右側面には大きな字で是ヨリ右 江戸道。道標になっていたようだ。
次に続く二基の石塔は双子塔 天保8(1837)正面上部に横に「奉供養」中央は左の石塔が「坂東三十三番觀世音」右の塔が「秩父三十四番觀世音」いずれも観音霊場順礼供養塔ということになるのだろう。両脇に天下和順・日月晴明と刻まれていた。
塔の左側面は無銘。右側面には造立年月日が刻まれている。
続いて馬頭観音立像 文政10(1827)三面六臂。江戸時代初期の石仏と比べると、江戸時代後期の石仏は石の質が落ちるためだろうか、表面が摩耗していたり、剥落が見られたりすることが多いようだ。
塔の左側面に造立年月日。右側面は一部破損しているが□□邑と見える。続いて施主は個人名。
一番右 地蔵菩薩立像 享保18(1733)丸彫りの延命地蔵。ちょっと斜め右を向いて立っていた。多少白カビがあり錫杖の先が欠けているが、像はボリュームがあり堂々としている。
台の正面「奉納大乗妙典六十六部日本廻国為二親菩提也」両脇に天下泰平・國土安全。右側面に造立年月日。左側面には武州入間郡鶴馬村 願主 宗蓮と刻まれていた。
中央のエリアには八体の丸彫りの石地蔵が並んでいた。
左から地蔵菩薩立像 元禄2(1689)頭部は欠け、角ばった石が像の上に無造作に乗せられている。蓮台もその下の台もなく、石像はそのまま下部を土に埋められて立っていた。左手の宝珠も欠けているが、錫杖を持つ手や衣服などの彫りは比較的細かく生々しい。
背面中央「奉唱満念佛百萬遍供養為二世」土中に「安樂」だろう。右脇に造立年月日。左脇に大願光明寺四代法印豪歓。その下のほうに「大和」、右下は「敬白」と思われる。
隣 地蔵菩薩立像 寛政6(1794)ここから三体は像の大きさ、台と蓮台の様子などから六地蔵菩薩像と思われる。こちらも頭部を欠き、かわりに石が乗せられていた。蓮台の上から像だけが落ちたもののようだ。像の後ろの台の正面には造立年月日が刻まれている。
続く二基は頭部は健在で台の上に立ってはいるが、台に対して像は傾いて立っていて、いずれ落ちてしまっても不思議ではない。台の正面には入間郡鶴馬村、左下に願主 渡戸中と刻まれている。
三基目。こちらは蓮台が下の台の中央から少しずれていて、大きな地震でもあれば蓮台ごと落ちてしまいそうだ。台の正面には「奉造立地蔵尊」と刻まれていた。
その隣 地蔵菩薩立像 明和3(1766)台は無く土の上に直接蓮台が置かれ、その上に延命地蔵が立つ。ここにある八体のうちでは一番大きな石地蔵で、周りの六地蔵とは一線を画す。
背面中央に「奉造立為地蔵大士二世安樂也」上部両脇に造立年月日。右下に渡戸、左下に念佛講中と刻まれていた。
続く三基はいずれも地蔵像が台から降りている。こちらの台の正面には「一切精霊爲□□」と刻まれている。
次はまたも頭部を欠いたものだが、その補修の仕方があまりにも乱暴で驚く。後ろの台に銘は見当たらなかった。
最後の一基は、蓮台ごと台から落ちそのまま土の上に置かれている。像には異常がなく比較的美しい。こちらも台に銘は見当たらない。
その奥、手水鉢の先にもいくつか石塔が並んでいる。
上部の縁にたくさんの穴が穿たれた手水鉢 寛政12(1800)正面に奉納 御寶前。右側面に入間郡鶴馬村渡戸とあり、願主七名の名前が刻まれていた。
左側面中央には「奉読誦普門品萬巻成就所」両脇に造立年月日が刻まれている。
その奥に馬頭観音塔 元禄3(1690)駒形の石塔の中央に「奉納南無観世音菩薩」両脇に造立年月日。左端に鶴馬村とあり個人名が刻まれていた。下部には大きく馬が浮き彫りされている。今までにお目にかかったことがないユニークな馬頭観音塔だ。
さらに奥に三基の板碑が並んでいた。左 阿弥陀三尊の種子の下、永徳2(1382)の銘。中央 上部に大きくキリークを彫る。こちらには貞治4(1365)の銘。一番奥はやはり上部にキリーク。紀年銘は薄くはっきりしないが康永4(1345)か。いずれも南北朝時代の板碑のようだ。
しっけの坂上 路傍 富士見市渡戸2-9-5
ふじみ野のほうから「しっけの坂」を上ってきた先、変則的な四辻の交差点の角の住宅のブロック塀に庚申塔が祀られていた。写真の左の道も右の道も、次の角で交差する道は左は渡戸の観音堂へ、右は上沢交差点方面へ向かう道になる。
庚申塔 寛政4(1792)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。手足が細く長い。あるいは摩耗して細くなったのだろうか?
足の両脇に二鶏を線刻。足の下に屈服した邪鬼、邪鬼の下の三猿は遠目には同じように見えるが、近くから見ると左から言わ猿、見猿、聞か猿のようだ。
塔の右側面 是ヨリ右 江戸道。左側面に入間郡鶴馬村願主渡戸中。脇に造立年月日が刻まれている。
渡戸どんぐり公園 富士見市渡戸3-7
渡戸の観音堂から上沢に向かう道、しっけの坂の上を通り100mほど歩くと左手に渡戸どんぐり公園があった。植え込みの中に小堂があり薄暗い中に石塔が見える。
庚申塔 享和元年(1801)正面中央「庚申塔」両脇に造立年月日。塔の左側面 鶴馬村 願主は個人名。
関口不動堂向かい藪の中 富士見市渡戸3-6
渡戸観音堂と上沢薬師堂の中間付近、傾斜地に作られた市民緑地の南に昭和7年建立の関口不動堂がある。その道路を隔てた向かいの藪の中、天狗像やいくつかの祠、さらに右奥に舟形光背型の石仏が立っていた。深い藪の中は様子がわかりにくい。
雨除けの下に天狗像。背には翼、右手に八手の葉のうちわを持つ。像は風化も見られず美しい状態を保っている。
周りは草が生い茂り、近づいて確認はできないが、下の台の側面に「大願成就□講義 中嶋忠誠 敬白」だろうか?さらにその下の大きな台のほうの側面に寄付連名とあり、多くの人の名前が刻まれていた。台に立てかけられた「奉納額」には明治三十八年、東京四谷邑 南町などの文字が見える。
右奥に阿弥陀如来立像 寛文9(1669)光背右に造立年月日。この銘が正しいとすると驚くほど古いものになる。光背左下に同行四十人?と刻まれていた。