地蔵院 川口市桜町5-5-39
新井宿駅東交差点から南に向かう道路と県道105号線との交差点(五差路になる)
の東に地蔵院の入口がある。道路沿いに石塔が立っていた。ここから遥か先に
山門が見えるがそこまで続く参道の左側は駐車場になっている。
寺標
文政5(1822)正面上部、梵字で光明真言を表し、その下に四國八十八箇所従
五十九番 地蔵院と彫る。右側面には従是 右こしかや道と刻まれていた。
左側面には月山 湯殿山 羽黒山 百番札所 四國順禮 供養塔とある。裏面に年号。
続いて願主浦寺村山田忠兵衛と刻まれていた。
交差点から100mほど歩くと立派な山門の前に出る。まっすぐ先に本堂が見える。
山門の左側の庭木の前に庚申塔が立っていた。
庚申塔 正徳6(1716)日月雲 青面金剛立像
合掌型六臂。昨日紹介した源長寺の
庚申塔と同年の作。青面金剛も似た印象を受ける。
足元の邪鬼は横向きで三猿とともにラフな彫り。二鶏は見つからなかった。
塔の左側面に年号。右側面「奉供養庚申為二世安樂也」両側面の下部にそれぞれ
数名の名前が刻まれている。
境内に入り本堂に向かう参道の右側、小堂の中にお地蔵様が立っていた。
堂の上部には「良縁地蔵」と書かれた額がかかっている。
地蔵菩薩立像 あるサイトの記事で正徳年間と書いてあったが、今回見た限りでは
年号は確認できなかった。台の正面には、武蔵國下足立郡赤山領浦寺村 とあり、
続いて稲荷山地蔵と刻まれている。
本堂の左側、墓地の入り口あたりにたくさんのお地蔵様が並んでいた。
中央に丸彫の地蔵菩薩立像 元禄16(1703)台の正面「箱崎山
地蔵院」と彫る。
台の左側面を見ると近隣六町村合わせて100人以上の人たちがこのお地蔵様の
建立にかかわったことがわかる。裏面には年号が刻まれていた。
上段の中央付近 地蔵菩薩立像 延宝2(1674)光背右「奉造立地蔵尊像庚申供養
為二世安樂也」光背左上に年号。左下に浦寺村 施主三十人と刻まれていた。
法性寺 川口市桜町1-11-51
氷川神社から北に歩いてゆくとやがて法性寺の入口に出る。墓地の脇の
道を抜け、急な階段を登った先に山門がある。
階段の途中に「不許葷酒入山門」と彫られた石塔
明和7(1770)が立っていた。
山門を入って右手の裏側に三基の石塔が並んでいる。
真ん中 庚申塔
文化14(1817)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持六臂。
右側面に年号。左側面に足立郡里村中と刻まれていた。彫りは厚く本格的。
三眼、忿怒相
ドクロの首輪をした青面金剛はむんずとショケラをつかむ。
合掌するショケラ。足元の邪鬼。その下の三猿もちょっとユニークだ。
山門の左手の裏にも石塔が並んでいた。自然石の中央部分をを彫り窪めた中に
地蔵菩薩立像
昭和45(1970)裏を見ると願主は個人名であるが、その美しさに
思わず見とれてしまった。
鳩ヶ谷氷川神社 川口市鳩ヶ谷本町1-6-2
鳩ヶ谷駅の北東、日光御成街道からやや西に入った高台に鳩ケ谷総鎮守
氷川神社がある。境内も広く、格式の高い神社である。
拝殿の東から奥に三峯社、弁財天、稲荷神社と続く。本殿の裏にも境内社や
力石、御神木
夫婦楠などがある。
さらに拝殿の左側に回り込むと猿田彦大神の石塔が立っていた。
猿田彦大神塔
寛政12(1800)正面 日月雲「猿田彦大神」と彫る。
下部には三猿のみが彫られていた。シンプルではあるがなかなか味わい深い。
右側面に年号。その下に鳩ヶ谷講中とあり、5名の名前を刻む。左側面の
下部に刻まれている5名と合わせて講中10名になる。
法福寺 川口市里1577
鳩ヶ谷駅から岩槻街道の西に出て、さらに県道34号線を横断すると大型電気店の
裏あたりに法福寺があった。参道の左側に六地蔵の小堂がある。
六地蔵菩薩立像
寛政2(1790)六体がほぼ完璧な形で揃っている。下の台の中央に
「奉建立 西国
坂東 秩父 百番供養」脇に年号、さらに戸田領里村 施主 長島氏。
六地蔵の先、墓地を背に四基の石塔が並んでいた。
左
七観音菩薩供養塔 文化14(1817)塔の正面「奉造立七観世音大士」脇に年号。
七観音とは人々を救済するため7種の姿をとって現れる観音。千手観音・馬頭観音
十一面観音・聖観音・如意輪観音・准胝観音・不空羂索観音となる。
正面に三体、右に二体、左にも二体、合わせて七観音。右奥は如意輪観音坐像。
その手前は頭部正面に阿弥陀如来の化仏が見えるが六臂。正面右は合掌型八臂。
こちらが千手観音か?正面中央は二臂で印を結んでいるようだ。頭頂部が破損?
正面左は三面六臂の馬頭観音。左奥は合掌型八臂。頭部に見えるのは仏面か?
手前は左手に蓮を持った聖観音。どれがどの観音様か、ゆっくり調べてみたい。
塔の左側面
武州足立郡里村中とあり8名の名前が刻まれていた。右側面にも
やはり8名の名前が刻まれるがこちらには江戸袋村中とある。
隣
馬頭観音立像 享保18(1733)三面合掌型六臂。カビと苔が目立つ。
光背左に年号。右脇には二十三夜講中と刻まれていた。
その奥に普門品供養塔
天明8(1788)正面「奉読誦普門品為三万巻二世安樂」
両側面には、二段四列にそれぞれ8名の名前が刻まれている。
右 庚申塔
安永10(1781)日月雲 青面金剛立像 鈴・ショケラ持六臂。
頭の冠の中央は蛇だろうか?口をへの字に結んだ青面金剛は右手に鈴を持ち
左手で合掌するショケラの髪をつかんでいる。膝小僧は丸く、衣装の裾も
立体的に表現され、細かく凝った彫りと言えるだろう。
足元に見沼区あたりでよく見かけた正面向きで両手をM字型に張った邪鬼。
青面金剛と同じように口をへの字に結んでいる。その青面金剛の足は細く、
邪鬼を踏みつけているというより邪鬼の背中に乗っている感じである。
三猿はどこ?と探したら、前の台の正面、下半身は土中にうもれていた。
塔の右側面「奉建立大願成就為二世安樂也」左側面に年号を刻み、続いて
武州足立郡戸田領里村講中と刻まれている。
参道の右側にはたくさんの無縁仏が積み重なっている。その一番高い所に
舟形光背型のお地蔵様が立っていた。
だいぶ距離があってはっきりした写真は撮れなかった。光背左に見える字は
明暦ではないだろうか?その下の二月二十八日ははっきり見えているのだが。
さらにその下には武州足立郡戸田領□□□□講衆敬白と刻まれているようだ。
光背右「奉造立地蔵菩薩像一躯為念佛結衆□□・・・」残念ながら下部のほうは
うまく読めなかったが、そのお姿は厳粛で美しい。
常住寺 川口市辻700
真福寺から南に歩きバス通りに出て少し西に歩くと常住寺の入口に出る。
手入れの行き届いた参道の先には山門がある。
山門の手前、左脇に三体の石仏が並んでいた。
左
馬頭観音立像 延享3(1746)三面六臂。光背右に「如是畜生発菩提」
光背左に年号。その下に鳩ヶ谷町中と刻まれていた。
頭上の馬の頭が大きい。顔のあたりはカビが多いがこちらは慈悲相だろう。
中央 庚申塔
享保13(1728)日月雲 青面金剛立像 鈴・ショケラ持ち六臂。
頭頂部が平で直角の腕を持つ久しぶりの「川口型」
ショケラは脱力している。邪鬼・三猿と続くが、やはり白カビが目立つ。
左側面
下部に三名の名前を刻む。右側面には年号が刻まれていた。
右
馬頭観音立像 延宝5(1677)慈悲相六臂。額には小さな馬の顔が見える。
光背左に年号。光背右「奉造立庚申供養二世安樂所」馬頭観音を主尊とする
庚申塔はかなり珍しいのではないだろうか。
足の下の部分にかな文字で13名の名前が刻まれている。
山門を入って左側に七基の題目塔が並んでいた。
一際高い題目塔、正面「南無妙法蓮華経」その下に三界萬霊と彫られている。
裏に回ってみると年号が彫られていた。安政(1855)江戸時代末期の作になる。
下の台の側面には講中とあり、辻村、根岸村、浦寺村、川口宿、平柳領家村と
刻まれていた。
真福寺 川口市辻736
法福寺から南へ10分ほど歩くと真福寺に着く。門の右脇に石塔が立っていた。
寺標 文化2(1805)正面 上部に梵字。続いて四國八十八箇所移 六十二番
真福寺と彫られている。右側面には武州足立郡辻村とあり願主、世話人
あわせて三名の名前が刻まれていた。
左側面には年号。その下に里村 法福寺江七丁十六間、上青木 安樂寺江
十丁半と刻まれている。ここから西に歩き芝川を越えると上青木になる。
門を入ると、すぐ左側の脇に二基の石塔が並んでいた。
左 光明真言供養塔 嘉永2(1849)正面 梵字の下に月山・湯殿山・羽黒山、
西國・坂東・秩父、「奉順拝光明真言三百萬遍供養塔」と刻まれている。
その下、薄い彫りだが、右から川口、善光寺だろう。真ん中がよくわからない。
一番上は六?または大師か?一番下は道?その左には江戸とある。
左側面 上部に大きく西。その下は読みにくいが大みや 氷川神社道だろう。
左脇には年号。右下に武州足立郡平柳領辻村 願主 個人名を刻む。
右側面 上部に東とあり、その下に二つの地名が並んでいるようだが、どうも
はっきりしない。両方共、最後は八里のように見えるが、八里=32kmとすると
千葉県の柏の先あたりになる。成田では遠すぎるし、戸田は方向違いだし・・
同じ面の下の方は比較的わかりやすい。右に慈林やくし道、左は はとがや道。
三面に七地名を刻み、道標としての意味が大きかったに違いない。
右 六十六部供養塔 宝永7(1710)正面 梵字の下「奉成辨六十六部為□□」とあり
上部両脇に天下泰平・万民豊楽、中部両脇に年号、さらに下部両脇に武州下足立郡
戸田領里村 願と刻まれていた。塔の一番下は文字が切れている。どうやら塔の
一部分が土中に埋もれているためと思われる。
右側面 上に施主とあり、両脇に里村、辻村と刻む。続いて鳩ヶ谷町、浦寺村を
はじめ近隣の十数カ所の村名が並んでいた。一番下の前川、塚越などは、最後の
「村」が切れている。左側面には導師 浦寺村地蔵院住 法印禅海と刻まれていた。
本堂の右奥に墓地が広がっている。入口付近に小堂が二つ。奥は六地蔵菩薩立像。
手前には庚申塔が祀られていた。
庚申塔 享保5(1720)日月雲 青面金剛立像 鈴・ショケラ持六臂。目の前の香炉が
邪魔になっていて、正面からその全体像を撮ることはできなかった。左側面に
「奉供養庚申為二世安樂」と刻まれている。
三眼の青面金剛はやはりドクロの首輪をしている。保存状態がよく、彫りも丁寧で
はっきりしている。鈴・ショケラ持ちはこの地域では普通に見られるようだ。
足元に合掌する邪鬼を彫る。その下には三猿。バランスよく仕上がっている。
右側面上部 中央に武州下足立郡平柳領辻村、右脇に瑜伽師 真福寺住 法印尊慶、
左脇には年号が刻まれていた。
下部には30人程の名前。多くの人がこの庚申塔の建立に関わったことが伺える。
千手院 川口市坂下町2-15-5
鳩ヶ谷駅の東1kmほど、住宅街の中に千手院がある。本堂の左手の生垣の前に
石塔が並んでいた。
左 庚申塔
天保4(1833)自然石の正面に大きく草書体で「庚申」と彫る。
裏面は苔が目立つ中、上部には年号、その下に阪下講中と刻まれていた。
右 庚申塔
寛文7(1667)中央 合掌して立つのは僧形のようでもあり地蔵菩薩か?
右脇「奉建立申庚供養三世□□也」庚申が申庚、二世ではなく三世に見えるが
どうなのだろう?左脇上に年号。下の方に結衆□□
同行拾二人敬白と刻まれる。
下部にはやや大振りな三猿が彫られていた。
源永寺 川口市三ツ和2-19-7
鳩ヶ谷駅から県道34号線を東南方向へ700mほど進み、信号のある交差点を
右に入ったあたりに源永寺がある。境内は清潔で手入れが行き届いている。
山門を入ってすぐ右手、ブロック塀の前に宝篋印塔と並んで普門品供養塔
文政11(1828)が立っていた。正面
日月雲の下に「奉読誦普門品供養塔」
正面の右脇に是より西新井大師道
一里半と刻まれている。右側面に年号。
こちらにも是よりそう加道二里、下部には十数人の名前が刻まれていた。
塔の左側面
足立郡平柳領小淵村□□寺 講中。続いて下部に数名の名前を刻む。
左脇に是より川口道 一り
と刻まれていた。
山門の手前を右に進むと墓地が広がっている。その入り口には六地蔵の小堂。
さらにその奥には十基ほどの石塔が並んでいた。
六地蔵は二組。昔、この地にあった浄蓮寺と念山寺の名残りとして、ここに
祀られているとのこと。前の六地蔵の台には寛政10(1798)の銘が刻まれる。
後ろの六地蔵は一番左の台に宝暦5(1755)の銘があり、残りの台には右から
「奉造立地蔵尊・念佛一結講中・村中男女近村勧・化助成之男女為・現當
安樂也」と刻まれていた。
六地蔵の小堂の奥に三列に石塔が並んでいる。多くは江戸時代のものだ。
前列左
上部に地蔵菩薩坐像を彫った石塔。全体が厚く白カビに覆われていて
文字はところどころしか判読できない。機会をみてゆっくり調べてみたい。
右側面には「是より六あみだ道」のように読める。これも大変興味深い。
その隣 庚申塔
弘化4(1847)正面に大きく「庚申」下部に十数名の名前を刻む。
左側面 南
大師 西 川口 道と刻まれている。下部に数名の名前が見られる。
右側面に年号。脇に北
鳩ヶ谷道。下部には願主6名の名前が刻まれていた。
奥に
大乗妙典供養塔 安永2(1773)阿弥陀三尊の梵字の下に「大乗妙典供養塔」
右側面に年号。左側面に小淵邑とあり、願主、個人名を刻む。
右端
大乗妙典供養塔 天明8(1788)正面「奉納大乗妙典六十六部日本回國供養」
脇に天下泰平・日月清明と彫る。こちらも個人の供養塔のようだ。
二列目左
地蔵菩薩立像 元禄6(1693)かろうじて年号が読めるがあとは不詳。
二列目中
如意輪観音坐像 寛永15(1638)光背左脇に薄く中居村という文字が
見えるが、中居村は小淵村と同じく「平柳十五ヶ村」のひとつ。「平柳」とは
室町期にこの地域を治めていた武将の姓が由来らしい。
二列目の右は小型の宝篋印塔。後列は二基の地蔵菩薩立像が並んでいる。
左は丸彫りで大きく立派な立像だが、どこにも文字が見当たらない。
後列右は舟形光背の地蔵菩薩立像
宝永2(1705)か?光背右「奉造立念佛供養」
足の下の部分に数名の僧名らしい名前が刻まれていた。
三ツ和平柳公園西路傍 川口市三ツ和2-24
源永寺を出て西に向かって歩くとすぐ三ツ和平柳公園がある。公園からさらに
西に歩くと右側の空き地に祠が立っていた。
祠の前には二基の板碑型の石塔。右は寛文11(1671)左は天和2(1682)の銘が
あるが、いずれも個人の供養塔のようだ。
祠の中 庚申塔
宝暦3(1753)日月雲 青面金剛立像 鈴・ショケラ持ち 六臂。
後ろの二組の手が直角に曲がる「川口型」である。
足元には邪鬼と三猿。いずれも顔の表情などははっきりしない。邪鬼の様子が
「川口型」ではどれも似た印象を受けるがどうだろうか?二鶏は見えない。
塔の左側面に年号。続いて小淵邑と刻む。右側面「青面金剛庚申講」とあり
その下に男女一結供養と刻まれていた。
南鳩ヶ谷駅西南交差点角 川口市南鳩ヶ谷5-2
南鳩ヶ谷駅前の岩槻街道を南に歩く。最初の信号のある交差点を西に渡ると
北西の角付近に祠が立っていた。
扉を開けて中をのぞくと、神棚の隣に庚申塔
元禄2(1689)が祀られている。
合掌型六臂。後上の右手に蛇を持っている。暗い中、文字は薄く読みにくいが
左上に年号。右脇には「奉庚申供養二世安樂攸」両脇に渡って施主敬白と刻む。
足の両脇に二鶏。足元にマンガチックにデフォルメされた邪鬼が突っ伏していた。
實正寺 川口市南鳩ヶ谷3-15-14
南鳩ヶ谷駅から東に少し歩くと實正寺の山門の前に出る。
山門を入ってすぐ左、塀沿いの道を進むと、その先に六地蔵の小堂が見える。
塀の前にはたくさんの石像が三段に並んでいた。
六地蔵菩薩立像。石の色、像の形など、統一感は微妙な感じだ。それぞれの台に
「念佛講衆中」「寒念佛講中」「南無六地蔵大菩薩」「近村助成村々衆中」などと
刻まれている。中のひとつには安永7(1778)の銘があった。
小堂のところで右に曲がるとその先には墓地が広がっている。道の右側に
石塔が並んでいた。
右
登都路稲荷大明神塔 寛延2(1749)登都路は中居村の中にあった小字らしい。
「トトロ」と読むのか、「ツツジ」と読むのか?
右側面
年号の右 武州足立郡平柳領中居村當社御除地別當實正寺と刻まれている。
一番奥に
庚申塔 寛文5(1665)が立っていた。その後に川口市の説明板がある。
阿弥陀如来立像。左脇に年号。右脇には「奉納庚申供養也」と刻まれていた。
下部に素朴ながら味わい深い三猿、さらにその下に二鶏が彫られている。
三猿の上に薄く文字が見えるが施主名だろうか。
円明庵 川口市八幡木2-8
南鳩ヶ谷駅の東を流れる新芝川を越えたさきの地域が八幡木になる。
八幡木地域を南北に走る鳩ヶ谷街道とあずま橋通りが交わる交差点。
ここから北へ200m。細い路地を右に入ると左手に円明庵がある。
道沿いに六地蔵の小堂が立っていた。六地蔵は光背の形などから
同時期のものかどうか疑わしいが、元禄期のものだという。
六地蔵の左。光明真言供養塔
寛保元年(1741)正面「光明真言講三十三歳
供養塔」右側面「三界萬霊有無二縁」右脇に年号を刻む。下の台の正面、
中居村
上新田村 講中と刻まれている。
ブロック塀沿いに奥に進むと普門品供養塔
嘉永4(1851)が立っていた。
左側面に年号。右側面に天下泰平
國土安穏。台の正面に「講中」と彫る。
その向かい側、屋根のかかった広いスペースに石仏が並んでいる。
聖観音菩薩像や地蔵菩薩像などが目を引くが、個人の供養塔だった。
一番奥に少し小ぶりの庚申塔が見える。
庚申塔 日月雲
寛政11(1799)青面金剛立像 鈴?・ショケラ持ち六臂。
風化が進み前面一部が欠けているが、結構しっかりした彫りに見える。
足元に正面向きの邪鬼、さらに三猿が彫られていた。
左側面に年号。右側面には「奉造立青面金剛」と刻まれている。
大熊家地蔵堂 川口市八幡木3-5
さきほどの交差点から鳩ヶ谷街道を南へ100m。右側の住宅と住宅の間に
大熊家地蔵堂の入口があった。
門を入って奥に進むと墓地。右手に折れるとその先に六地蔵が並んでいる。
銘などは確認できなかったが、比較的新しいものだろう。
六地蔵の手前、右手のブロック塀の前に三基の石塔が立っていた。
右 庚申塔
宝暦4(1754)日月雲 青面金剛立像 剣・ショケラ持ち六臂。
下の台の正面、平柳 中居村
上田村と刻まれているが上田村は上新田の
間違いだろうか?
塔の右側面「奉供養庚申講中」左側面「奉供養観音経一萬部」脇に年号。
中央
百番供養塔 寛文7(1667)全体に白カビに覆われ文字が読みにくい。
正面上部
羽黒山 湯殿山 月山 続いて「奉納坂東・西國・秩父百番」
中ほど両脇に造立年月日。下部両脇 武州
上新田 中居村 それぞれ
大熊氏の名前が刻まれている。
左
不動明王坐像 嘉永5(1852)塔上部に迫力のある不動明王を彫り、
下部には大きく「成田山」と刻む。
塔の左側面 左
鳩ヶ谷道。右側面 右 江戸道。その下に年号。さらに
當所願主とあり、こちらも大熊氏の名前が刻まれていた。